7-2
彼女には身寄りが一人いる。その昔、辺境伯に命を救われたという、近くの村に住む母親だ。
一年ほど前のことだった。
ヘンドリカが買い物に出かけたとき、一人の男が近づいてきたそうだ。
いわく、彼女の母に黒灰石を埋め込んだのだと。放っておけば、やがて獣化する。取り出してほしければ、辺境伯の屋敷で起きる出来事をくまなく伝えるように、と。
そのときは、意味がわからなかったが、実家に戻り、何が起きているのかを知ってしまった。
「瓶の水を飲んだあと、急に眠くなったことがあったそうなんです。たぶん、そのとき、何かされたみたいで……」
そう言って再び顔を覆った。指の間から涙がこぼれ落ちるのを見て、激しい怒りが込み上げた。
「皮膚を切って埋め込み、治癒で表面を閉じた、といったところか。難易度としては、さほど高くはないが、融合に成功してしまった、ということだな」
カトリアは唇を噛んだ。
ヘンドリカは、それ以来、買い物に出るたび、母の容態を確認するようになった。
幸い、進行は遅かったが、半年ほどした頃から、足の皮膚にウロコのような模様が目立つようになり、太さも左右での違いがわかるようになっていったそうだ。
「長いスカートで隠すようにしていれば、どうにか生活はできました。ただ、最近は、夜、痛みでうなされることが増えていたようです」
買い出しを頼まれた日、彼女を追っていたときのことを思い出した。
おそらく、母親の住まいの近くだったのだろう、あのとき嗅いだ臭いは、獣化した肉体から発せられていたのか。
「悩みましたが、私にできることなどなく――屋敷で見聞きした内容を、鳩で知らせるようになりました。あの晩餐会の日のこともです……」
そう言って、また大粒の涙を落とした。
たった一人の密告者だけで、戦略に重要な情報が集まるとも思えず、おそらく、他にも似たような犠牲者がいるに違いない。
「取り出す方法はないんでしょうか」
「簡単ではないだろうな。そもそも、黒灰石が生きた人間と同化した前例があるとは思えない。治療法について、何か手がかりがあるとすれば――本校の図書館あたりか。あそこの蔵書は他国でも類を見ない数だそうだ」
カトリアは目線を落としながら息を吐いた。
「本校、ですか」
「それとは別に、相当に高い治癒の能力を持ったソーサラーがいないと話にならない。下手をすれば、脚を切り落とすはめになる。が、そんな人材、この周辺にはいないだろう」
ルーシャは、まさかこんな展開を予測していたわけではないだろうが、王国を壊滅させた結果として、ソーサラー不足という、他国にも大きく影響を与える事態になっている。
治癒と聞いて、真っ先に思いつくのは、ルノアだが、連絡を取ることが今は難しく、さらには高度な術式ができるかどうかも未知数だ。
あと一人、居場所が確実にわかっている、同じ力を持つ人間がいるにはいる。会えるかどうかはまるで別問題ではあるが。
当主を筆頭に、彼女の裏切りを責める人間がいなかったからか、ヘンドリカはようやく落ち着きを少しだけ取り戻し、ジルドに付き添われ、部屋をあとにした。
扉が閉まるのを待って、カトリアは椅子に腰かけ、物憂げに頬杖をついた。
「今回の一件は、アンナリーズには伝えないほうがいいだろうな」
父親を失った遠因を、ヘンドリカに求める可能性は確かに否定できない、か。
だが、待てよ――。
「今、思ったんですが。何かおかしくないですか」
今回の一連の出来事は、アンナリーズを強引に逮捕したところから始まっている。つまり、そのときすでに、宰相たちは偵察が危険だったことを知っていたことになり、それはヘンドリカが出陣前夜に密告した、部隊の情報とは無関係のはずだ。
「なるほど、キミの言う通りだ。であれば、帝宮にも、敵と通じている人間がいると考えるのが自然だな。そして、宰相自身がその人間と関わりがあったか、あるいは内通者本人の可能性もある」
自らの出世欲だけのために、敵と通じ、部隊を見殺しにしたのだとしたら――。
そんな人間が、国家の要職に留まり続けることなど許されるはずがない。
そんな人間に、家族や人生をめちゃくちゃにされたなどと、絶対に知られてはならない。
「アンナリーズさんは――これからどうなりますか?」
貴族としての特権は、本人と妻に与えられる。爵位は男系にのみ継承が許されていて、娘しかいない場合は、婚姻した相手がその対象だ。
今の彼女は、両親を失い、元貴族という肩書きだけが残った状態で、収入も途絶えることになるのだそうだ。
問題はそれだけではない。テューダー男爵は、出兵の際に傭兵を雇ったが、屋敷がその借金の抵当に当てられていて、本人が死んだ今、自宅まで失うことになるという。
「心配無用だ。生涯、私の妹としてずっとここに住まわせる」
おそらく、そのような発言をしてくれると信じていたが、実際にカトリアの言葉を聞いて、ひとまずほっとした。ここにいる限りは、安全で快適な生活を送れるだろう。
だが、誰も責任を取らないまま、今回の一件を終わらせていいのだろうか。
「帝都に行ってみたいのですが――構わないでしょうか」
ほとんど思いつきでそう言うと、カトリアは悲しげな表情に変わる。
「学友のために何かしたいという気持ちはわかるが、田舎貴族の私たちに、できることはあまりないと思う」
それはきっとその通りだ。ただ、彼女の父親を救えたかもしれない立場で、これ以上、傍観者でいることができなかっただけだ。
「本校の図書館に行くだけですから。ほら、ヘンドリカさんのお母さんの病気のこととか、何かわかるかもしれませんし」
運良く、その夜は、二つの月がどちらも半分以上の月齢で、夜行便が運行する日だった。




