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テューダー男爵の部隊が出発したあと、第二陣が移動を開始するまで、四半時ほどの時間が置かれたのは、今回の偵察任務の中で、彼らがただの先頭というだけでなく、炭鉱のカナリアの役目も負っているからだ。
何も起きないでいてほしいと、心から願っていたが、その祈りが神様に届いていないように思えたのは、悲観的すぎるだろうか。
前段の小隊の最後尾が見えなくなるのを待って、カトリアは鞍上から、自身の配下に向き直り、毅然とした声を上げた。
「では我らも出陣する。偵察とはいえ、気を抜くな」
副官のジルドが、恐怖心を和らげようとしてくれたのだろう、笑ってレーヴの肩を叩いた。
「お前も随分と腕を上げたからな。期待してるぞ」
進軍を始める横で、帝国の本体は、まだ全員が集合すらしていない。
ソーサラーは、何人かいるようだが、士官学校から選ばれた新人ばかりらしく、フリッツ以外のすべてが最後尾の近衛の中だ。
本気で戦闘のことを考えているとは思えない。
もっとも、標準的なスタイルから生み出される火炎程度では、オークに致命傷を与えることができず、逆にゴブリンなら剣でも対抗できるため、形式的な意味合いしかないのは確かだ。
唯一、必要とされそうな治癒の力は、未だ姿を見せていない、最大の庇護対象である皇女だけに備わっているという、いびつな状況だった。
アンナリーズやカトリアであればともかく、他の兵士たちに危機が迫ったとき、霊石を外すべきかどうか。
いくつもの迷いを持ったまま、野原を歩き、川をわたる。
太陽が正午を過ぎて間もなく、旧王国との国境が近づいた。
はるか遠くに見える先頭は、草原から森の中を通る一本道へとかかるところだ。
木深い場所で、もし戦闘になれば、隊列を維持するのが難しくなるなと、そんな不安を覚えてしばらくしたときだった。
どこかで、雄叫びが聞こえた気がした。
遅れて、進軍が止まり、ほとんど同時に森のあたりで黒ののろしが上がった。
「会敵したぞっ」
声とともに、剣を抜く音が、前方から順送りされてきた。
敵が獣鬼なのか、人間の部隊なのか、状況を確認したいが、雑木に遮られ、様子が窺えない。
続報を待ちかね、単独先行の許可をカトリアに申し出ようとしたときだった。
「全軍、皇女殿下を守れっ!」
叫び声がして、うしろに振り返ると、空に紫の火球が上がっていた。
挟撃だっ。
そう考えたのは短い時間だった。
今、レーヴたちのいる場所が、平野であることを再認識したのだ。
もし、敵がそうするなら、全軍が森に入ったあとに仕掛けるはずだ。
カトリア隊より後陣の兵士たちが、波が引くように、いっせいに来た道を戻り始める。
前もうしろも、敵の詳細は不明。ただ、戦力は片側に偏った。しかも、近衛にはソーサラーもいる。
男爵を助けるべきではないかと、彼女に進言しようとしたとき、皇女には身代わりがいることを思い出し、愕然とした。
前に向かおうとしていた体に急ブレーキがかかる。
「隊長、オレもあっちに行っていいですかっ」
許可の返事を聞くより前に、後方に向かって駆け出していた。
中隊規模の歩兵が移動しているせいで、周囲は土けむりで視界がほとんどない。
のろし代わりの火球を目指して進んで間もなく、突然、足を止めた兵士が目の前に現れ、その背中にぶつかってしまった。
「おい、大丈夫か」
「すみませんっ。敵は?」
「それがよくわからん。戦闘している気配はないんだが」
見ると、軍勢が無秩序に広がり、全員が同じ方向を見ている。
人垣を強引にかきわけ、どうにか前進し、ようやく集団を抜けて最初に目にしたのは、すぐにそれとわかる、二両の豪奢な装飾の馬車だった。
特にきらびやかなうしろの馬車には、近衛の歩兵がついているが、誰も棒立ちで、危機感がない。どうやら本陣は無傷のようだ。
それとは別に、かなりの速さで遠ざかる小型の馬車があって、その窓から士官学校の制服がわずかに見えた。
どうやら、あれに乗っているのが皇女のようだ。
「あの――」
事態を確認すべく、そばの兵士に声をかけたとき、そう離れていない場所から、怒号がした。
「俺がやったんだぞっ」
見ると、一団から離れたあたりで五人の兵士たちが、何やら言い争いをしていた。
彼らの視線の先には、剣が数本転がっていて、そばには小さな黒灰石と、穴が複数空いた薄い皮が一枚。
どうやら獣鬼を誰が仕留めたのか、戦果を争っているらしい。
「坊主、どうかしたか」
「えー……と。敵は一体だけだったんですか?」
「ああ、そうだ」
彼の話によれば、現れたのは小型のゴブリンで、宰相たちが馬上から飲み捨てた酒瓶につられてやってきた、ということのようだ。
その程度で全軍を集めるだなんて。
指揮官の無能さにあきれたときだ。
皇女が乗っていた馬車の扉がわずかに開き、中にいた人間と視線が交差した。
そこにいたのは、実用性のない華美な装具の軍服を着用し、ローズゴールドのかつらを身につけた、どこからどう見ても、アンナリーズだった。
彼女はレーヴを見て、慌てたように扉を閉める。
不覚にも、そのときまで忘れていた。彼女の父が戦闘中であることを。
慌てて体を反転し、全速力で前方へと駆けた。
森の入り口あたりで、カトリア隊に追いついたが、一本道は思っていた以上に狭く、進軍に手こずっていた。
「先に行きますっ」
人ひとりくらいなら、と雑木に突っ込んだが、草木や枝の抵抗が想像以上にあって、最前線にたどり着くまでにかなりの時間がかかる。
これまで何度も嗅いだことのある、嫌な臭いの元にようやくたどり着いたとき、そこで目にしたのは、全滅した小隊だった。
無秩序に横たわる兵士たちは、生死の確認が無意味だと即断できるほどの裂傷を負っていた。
「テューダー男爵はっ?」
同僚たちの救助をあきらめ、ぼう然と立ちすくんでいた一人に声をかけると、彼は無言で首を振り、指を前に向けた。
その先に見えたのは、ひときわ大きな男の体だった。
彼は周囲の地面を真っ赤に染めて、前向きに倒れていた。両手に太い剣を持ち、一方の先には外皮が残っている。
「オークが二体、現れたんだ。一体を倒すのに小隊が全滅した。残りの一体は、男爵が刺し違えたんだ……」
死体を見るのは、これが初めてではないせいだろうか、以前のときのような吐き気は起きない。ただ、言いようのない、居心地の悪さに襲われた。
あのとき、うしろに向かわなければ、男爵を含めた何人かを救えたのだろうか。
判断が正しかったと、言い切る自信がない。
オーク相手であれば、アビリティを使わずに対峙することは難しかっただろう。結果として、レネゲードだと露見せず、今後も辺境伯の屋敷に留まり、あるいは学校に通い続けることはできる。
だが、引き換えに、アンナリーズが絶望の底に投げ出され、レーヴへの信頼が失われたのだとしたら――その代償はあまりに大きすぎた。




