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 再度の目覚めは、爽やかな感覚だった。

 目を開け、最初に見えたのは大木だ。どうやら木陰に寝かされているらしい。

 それから手の指を動かし、次に首を左右に振った。


 それらが問題なくできることを確認して、ゆっくりと上半身を起こした。

 そこは草木の広がる広い大地を見下ろす、小高い丘の上だった。樹枝の影の外側は、朝の強い日差しだ。

 確か、ルノアと呼ばれた人間がいたはずだが、視界の範囲にとらえることができない。

 苦労して立ち上がる。

 少し離れた場所に、小さな布製の巾着が見えた。彼女の持ち物だろうか。だとすれば、遠くには行ってないはずだ。


 周囲を改めて見回すと、後方には深い森、はるか前方には湖らしき水面が見え、さらに遠くには岩山の山脈が壁のように連なっていた。

「絵になりそうな景色だな――」

 などとのんびりしている場合ではなかった。

 最初に覚醒したとき、体に異常があったのは間違いなく、その結果、記憶が錯乱している可能性はある。

 風景以外で、確認できそうなこと。


 身にまとっているのは、飾り気はなかったが、軽く肌触りのいい一枚着だ。作業服か、囚人服か、そんなところだろう。

 あとは、親指の爪くらいの大きさの、赤く濁った石のついたペンダントを首からぶらさげていた。アクセサリーにしては簡素すぎるが――おそらく、あの混乱のときにかけられた物だと思う。

 周囲に危険があるのかないのか――人は、未知の状態を少しでも早く解消したいと願う生き物らしい。

 探究心が起き、調査のために、丘を下ってしばらく、周囲が雑木に囲まれた場所にたどり着いた。

 リスが木の実を手にし、昆虫が花の間を自由に飛び回っている。楽園という単語を思い浮かべていたときだった。

 背の高さほどの草が茂る場所が、ガサっと音を立てて揺れた。


 もしかしてルノア?

 いったいどんな風貌なのか、興味をもって見ていると、何かの腐敗臭がして、そこから一体の、人でない何かが姿を見せた。

 二足歩行のようだが、黒っぽい金属質な表皮を含め、外見は完全に獣だ。眼球が鈍く光っていて、だが、黒目にあたる部分がなく、何より、一切の衣類を身に着けていない。

 たいていの生命体は、身の危険を、誰に教えられなくとも本能で判断できる。

 そして、今、対峙している生き物が、逃げるべき対象だと、五感が即断した。

 体を真逆に反転し、走るために重心を低くする。全速力になるまで、きっと数秒程度。果たしてそれで逃げ切れる相手かどうか。


 ただ、それを確認することはできなかった。

 最初の一歩を踏み出したとき、バランスを崩して前向きに倒れたのだ。

 まだ万全でなかった身体が、脳の緊急指令に対応できなかったらしい。

 入念な準備運動をすべきだったと反省したが、それを活かす次の機会はないかもしれない。すぐ背中に、雑音の混じった気味の悪い息づかいと、ひどい悪臭が迫っていたのだ。

 倒れた状態で、首だけうしろに振り返る。

 ほんの二メートルほど先にそれはいて、腕の筋肉が、人のそれよりはるかに発達していることがはっきり見てとれた。

 腕の皮膚は爬虫類のようで、五本の指の先端には、太い幹の木でも、簡単に切り倒しそうな鋭い爪が光っている。

 あれに襲われれば、絶命はまぬがれない。


 恐怖を感じる暇もなかったのは幸いだったのかどうか。

 風の動きを感じ、それが敵の跳躍によって生まれたものだと認識する。空中で相手の右腕が振り上げられた。

 おそらくは、着地と同時に体が引き裂かれる。

 反射で自衛しようとしたのだろう、無意識のうちに右腕を相手に向かって振り上げた、その瞬間だった。


 手のひらの中で、液体が渦巻くような感覚を覚え、直後に、同じ場所で熱が生じる。

 それが何か、確かめる間もなく、熱源が手先を離れていく感覚があり、やがて視界の前方に橙色の球体が現れたかと思うと、あっという間に、それは獣の腹のあたりへと到達した。ほとんど同時に、二度と聞きたくないようなうめき声がして、敵はうしろ向きにはじかれ、背中から地面に落ちた。

 それっきり、ぴくりとも動かなくなり、間もなく、胸から腹にかけての外皮だけを残して、躯体の大部分は蒸発した。

 そろそろと立ち上がり、数歩近づく。

 残された皮には、中央のあたりに拳が通るくらいの穴が空いていて、とりあえずは、幻を見たのではないことだけは確かのようだ。

「いったい――何が起きたんだ……」

 確認しようと手を伸ばしたときだった。


 強い風を感じたかと思うと、空の視界の一部がさえぎられ、直後に人が、文字通り飛んできた。

 どうやら自身でもその状態を制御できていないらしく、きりもみしながら絶叫とともに近づき、息ができなくなる程度の衝撃で、レーヴの体に激しくぶつかった。

 敵にしては攻撃が雑だなと思いながら立ち上がると、そばに転がっていたのは、つばの広めの帽子をかぶり、腰くらいまでのマントを着た少女だった。

「もうっ……。風で移動しようなんて、思うんじゃなかったっ」

 十代の半ばくらいだろうか。みかん色の髪を肩まで伸ばし、整った顔立ちだが、なぜか不満そうな表情だ。

「大丈夫か?」

「大丈夫なわけ、ないでしょっ!いったいどうして、勝手に歩き回ってるんですかっ。しかも、オークに襲われてるとか、拙者の立場がなくなるじゃないですかっ」

 元いた場所から離れたことはともかく、襲われたことに関しては不可抗力だったような。

 ただ、その声には聞き覚えがあった。


 あの木の根元まで運んでくれた人間。ルノアだ。

「オークって、その獣のこと?」

 指さした先を一瞥すると、彼女は声を低くした。

「いったい何があったんですか?まさか、あなたが倒した、なんてことはないとは思いますが」

「それがよくわからないんだ。気づいたらそうなってた。きみは――ルノアって名前で合ってる?」

 少女はそれには返事をせず、死体の元そばに近づき、膝をついた。

「腹部を貫通する裂傷。その周囲に焼けたあとがあります。まるで火球が通り抜けたような――。ですが、オークの外皮は防火の装備に使われるほどの耐火性能があるはず――」

 早口にそう言いながら、腰から抜いた小刀で、穴から外側に向けて裂こうとしたが、皮は硬く、まるで歯が立っていない。

 彼女は、本来死体があるはずの地面から、小さな墨色の石を手にして、振り返った。

「もう一度聞きますね。いったい誰が霊力(アビリティ)を使ったんですか、レーヴ殿下」

「なるほど、やっぱりオレはレーヴなんだ」

「は?何ですか、その言い様は。さっきから、くだらない質問を連発してますが、拙者をバカにしてるんですか――って、今、オレって言いました?」

「バカになんかしてない。それで、できればこれ以上、機嫌を悪くしないんでほしいんだけど――。オレが把握しているのは名前くらいで、それ以外の何も、もちろん、どうしてここにいるのかもわかってないんだ」


 おそるおそるそう言うと、相手は口をぎゅっとつぐみ、顔に影を作った。

「そうですか――。やはり蘇生が完全じゃなかった。そんなの、できるはずないって。すぐに逃げようって言ったのに。こんな機会は滅多にないからって。師匠は本当に大馬鹿者です」

 あの時と同じく、涙混じりにつぶやいた。

 蘇生に加えて師匠という言葉に、目覚めたときの記憶が改めてよみがえる。

「君がここまで連れてきてくれたのか?」

「……ええ、そうです」

 そう言うと、シャツの袖で目元を拭い、そばの木を背にして、力なく腰を下ろした。

 それから、空をぼんやりと見上げたまま、人形のように動かなくなった。

 風によって雲の形が変わり、木の葉が揺れる音だけが時間の経過を感じさせる。

 師と離ればなれになったことは気の毒ではあるが、記憶のない状況にも、同情の余地くらいはあるだろう。


 そっと近づき、彼女のそばに座った。

「傷心のところ申し訳ないんだけど――。もし良かったら、オレのこと、あと少し教えてもらえないか。さっきも言った通り、何も覚えていないんだ」

 彼女は目線を寄こしたあと、小さくため息をついた。

「そう、ですか……。あなたは、レーヴ・ド・ナヴァル。ナヴァル王国の第三王子だったんです」

「王子――だった?」

「王国は、昨年の夏の終わりから続いていたあの戦争で――消滅したからです」

「戦争……。それがオレが瀕死になった原因でもある、と?」

 彼女は何が気に入らないのか、その質問には答えず、またにらみ返した。

「何か変なこと、言った?」

「その喋り方、演技じゃないんですよね?」


 どうやら、以前のレーヴとは口調が違っているらしい。

 蘇生という言葉は、人事不省になった人間に使う言葉だ。頭の中が霞んでいてはっきりしないが、意識と身体の不調和を感じるのはそれが理由だろうか。

「まあいいです。とりあえず、荷物のところに戻りましょう」

 ルノアはのろのろと丘を上がり、カバンを手にしたあと、遠見をした。

「これから、どこか行くあてがあるのか?さっきの話だと、帰る場所がなくなったってことだろ?」

 だが、彼女は再びその質問を無視して、カバンから地図を取り出し、地面に広げた。

「あと、こんなときに言うのもどうかと思うんだけど……。実は腹が減ってるみたいなんだ」

「うるさいなあ。そんなの、拙者だって同じです。近くで安全な町がどこか、あれこれ考えていたところです。少し黙っていて下さい」

 小難しい顔で腕を組んでいたが、やがて「ここかな」とつぶやきながら指で弾いた紙を四つ折りに畳み、再びカバンに仕舞うと、さっさと坂を下り始めた。

 置いていかれてはたまらない。慌ててあとを追う。


 殿下と呼ばれている割には、扱いが軽いというか、敬意が感じられないような。いったい、彼女とはどんな関係だったのだろう。

 知りたいことは、もちろん、他にも山ほどあったが、同行者の機嫌が回復するまでは、我慢することにした。

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