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次の朝はいつも通りだった。
ただ一つ、アンナリーズが給仕を名前で呼んだこと以外は。
「今朝はコーヒーの気分なんだ。ホットミルクを下げてくれるかな、レーヴ」
屋敷内の業務については、未経験の冬の作業を除き、すでにほとんど完璧と言っていいほど把握している。主たちのどんな要求にも迅速に応える自信があったが、そのひと言に、思わず手を止めてしまった。
当主はいつもと変わらず寝不足気味で、気づいてる様子がない。
言った本人は、それが何かの娯楽のように、従者の反応を心待ちにしているのがわかった。
「かしこまりました」
動揺を見せては負けな気がして、いつも以上に事務的に答える。
普段とは違う流れに、不機嫌になる料理長をなだめ、新たな注文を持って戻ると、すでに辺境伯の姿はなく、彼女が一人、優雅にスクランブルエッグを口に運んでいるところだった。
学校がないのも理由だろうが、それにしても、必要以上にくつろいでいるような。
不思議に思っていると、彼女は、まるで準備していた文書を読み上げるように、こう言った。
「今日は、隣町で蚤の市が開かれてるはずなんだ。あのときの獲物を売りに行くから、一緒について来て、レーヴ」
二人しかおらず、わざわざ名前を呼ぶ意味がわからない。
「承知しま――」
従者として適切なはずの答えを返そうとして、相手はそれがわかっていたかのように、強めの口調でさえぎった。
「今後、敬語を使わないで。同じ一年なんだから。あと、わたしのこと、リーズって呼んでいいから」
以前、ヘンドリカから聞いたことがあった。彼女の名前のアンナの部分は、母親の形見だと。
新たな指示の真意を考えていたせいで、外出の仕度に手間取った。
屋敷を出ると、アンナリーズはマスターオークの外皮の入った大きな麻袋を手に待っていた。
制服のとき以外の彼女は、いつも控え目な衣服だが、そんな中でも取り分け質素な、というより、みすぼらしいとさえ言える出で立ちだ。
「どう?ただの村娘に見えるでしょ?」
領地内には正規の素材屋もあるはずだ。
歩き始めてしばらく、変装までして、遠方の露天商を訪ねる訳を尋ねると、足を止め、あきれたようにため息をついた。
「入手方法を聞かれたら面倒だからに決まってるじゃない。わたしみたいな子供がマスターオークを倒せるはずがない。正規軍でも、中隊かそれ以上の部隊が必要なんだから。となれば、レネゲードの、それもエキスパート級の知り合いがいると疑われてもおかしくない。違う?」
そう言って、レーヴの上着の、霊石の革袋があるあたりにそっと手を当てた。
「その点、旅商いは、金儲け至上主義。多少、買い値は叩かれるかもしれないけど、あっちだって、きれいな仕事ばかりしてるわけじゃない分、余計な詮索なんてしてこない」
彼女と、金銭の話題になったのは、おそらくこれが初めてだ。商売人のような思考回路であることが意外だった。
道すがら、これまでも、自作のポーションなどを売ったことがあるという話を披露する。家が経済的に苦しいという噂は、どうやら本当のようだ。
領地を出るのはこれが初めてだったが、帝都により近いせいだろう、人の往来が増え始めた。
行く先に見えたのは、都市とまでは言えないが、かなり大きな街のようだ。
中央通りには、店に見立てた行商人の荷馬車が並んでいて、さながら、市場のように活況を呈していた。
海産物や山の幸など、遠方の食材や、他国の工芸品は、見ているだけで新鮮な発見がある。
「賑わってますね」
「確かこの通り沿いにビクトルの実家があるんだと思う。あと、敬語になってるよ」
そうだった。これは結構な難題だ。
本来の目的を忘れかけていたとき、アンナリーズは足を止め、緊張した面持ちに変わった。
「あの人がたぶんそうだよ」
そう言って、一軒の移動店舗に小さく指を向けたあと、年季の入った帽子を目深にかぶった。
レーヴに待っているよう指示をして、自身は袋を強く握り直し、見るからに怪しげな店主に向かって突進した。
周りを警戒しながらオークの外皮を取り出し、短くない時間、交渉していたが、やがて商品と引き換えに金を受け取り、早足に戻ってきた。
「思ってたよりずっと高く買ってくれた」
そう言った声は弾んでいた。
帰り道、頬を紅潮させながら、これから何を買おうか、ずっとそればかりを話していた。
屋敷に着いたあたりで、それまでかすかにあった疑心が、確信に変わる。
玄関を抜け、三階への階段を駆け上がろうとした彼女を呼び止めた。
「何?」
「いえ、その……。外皮はいくらで売れたのかな、と」
「金貨六枚だけど、それが?」
「割り算、覚えてますか?」
「はあ?どうして今、計算の授業の話になるの?あと、敬語はやめて」
遠回しに探ってみたが、相手はまるで気づく様子がない。
どういえば角が立たないのだろうかと思案していたが、彼女が先にしびれを切らした。
「言いたいことがあるならはっきり言いなよ。わたしとあんたは、今はそういう関係だよね」
いつ、そうなったのだろう。
名前を呼んだあたりからか。言葉遣いはともかく、貴族と平民の上下関係は継続している気がするが――。
しばらく逡巡したが、本人が直言することを望んでいるのだ。
「わかりました――じゃなくて、わかったよ。マスターオークは二人で倒したよね?」
「何言ってるの。あんたが一人でやっつけたんじゃない」
「なるほど。では、その外皮を売ったお金は、どういう扱いになるのかなって」
そう言うと、彼女は顎に手をやり、小首を傾げた。
「まさか、レーヴもお金がほしいとか、言わないよね?」
「オレがもらってはいけない理由は?」
「いけなくはないけど――必要なの?だって、衣食住は全部足りているはずだし、おじさまからお給金だってもらってるんでしょ?」
「ちなみに、リーズは何に使う予定なんだよ」
「洋服とかアクセサリーとか、化粧品とか。人並みにするだけでも、お父様からの仕送りだけじゃ、全然足りてないんだ」
人並みとは、きっと貴族並みということだろう。
ただ、どうやら、悪気はないようだ。従者が得た物は自分の物だという感性は、本人の責任というよりは、血筋と教育の賜物というわけか。
確かに、今の生活が続く限り、金は必要ない。ようやく良好になりかけている関係を壊さないために、その話題はそこで打ち切ることにした。




