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4-3

 種として分類するなら、それはオークだった。

 ただ、シルバーオークよりさらに五割増しの体格に、赤みがかった外皮はこれまで見たどれとも違う。

 初見だったが、教科書の、獣鬼の章の表紙絵にもなっているそれを見間違うことはなかった。


 一度は腰を上げたアンナリーズが、脱力したようにすとんとお尻を地面につける。

 目を見開いたまま、聞き取れるかどうかの声でこう言った。

「マスター……オーク」

 獣は、名を呼ばれたことに応えるかのように、木々の葉が揺れるほどの咆哮をあげる。

「早くっ。走って逃げるんですっ!」

 彼女は、おそらくは、「わかった」と、返事をしたのだと思うが、口が動いただけで、立ち上がることなく、四つんばいになるのが精一杯だ。四肢は震え、あらわになった太ももから、黄色い液体がたれる。


 同い年の人間を背負って走れるほどに、身体はできていない。

 一歩足りとも動けない人間を守るには、敵の目をそらせる以外にない。

 剣を抜き、鞘をマスターオークに投げつけ、彼女から直角に離れた位置まで移動した。

「待って……。置いて行かないで」

 しぼり出すような涙声がしたが、今だけは従うわけにはいかない。


 幸運にも、と言っていいのか、敵はレーヴを最初の獲物と決めたらしい。

 地響きがするほどの大股で踏み出すと、たった二歩で距離を半分ほどに詰める。同時に、左の腕を上げ、一瞬で振り下ろしてきた。

 初撃をどうにか交わせたのは、ぎりぎりで軌跡を見極められた、というよりは、風圧で体が後方に飛ばされた影響のほうが大きかったからだ。


 倒れないよう、必死に足を踏ん張ったが、今のレーヴの実力では、防御さえままならないことは明らかだった。

 同じことはアンナリーズにも伝わったのだろう、彼女の表情が恐怖から絶望に変わる。

 防波堤になっている一人目がいなくなれば、武器も持たず、歩くこともできない彼女は、一瞬で息の根を止められるのだ。

 選択肢は二つ。このまま剣で戦うか、あるいは――。


 ルノアの言葉が頭に浮かんだ。

 怖いのは、獣鬼ではなく、レネゲードが露呈することだと。

 だが、そんな比較が意味を持つのは平時が大前提だ。この危機的な状況下で、クラスメートの命を救うことより高い優先度は存在しない。

 そんな論理的思考が、前世から引き継いでいるのだとすれば、そのギフトのおかげで、頭の中が少しだけ冷めた。


 覚悟を決め、胸元に手をやり、赤燐光石の革袋を引きちぎる。

 マスターオークの第二撃が襲ってきたのは、それを投げ捨てるのとほとんど同時だった。

 アビリティを使うことそれ自体が久しぶりだったせいで、ほんのわずかだけ、うしろに下がるつもりの重力制御で、体が鳥のように飛び上がってしまう。

 獣鬼の首が真上に向き、離れた場所で、同じようにレーヴを見上げるアンナリーズの表情が、驚愕へと変わるのがわかった。


 敵との距離を取れたことで、彼女はこのことを秘密にしてくれるだろうか、などと考える程度の心の余裕ができる。

 武器は剣が一本だけ。

 すぐに思いついたのは、以前に戦ったときと同じように、刃先を水平にしたまま加速する方法だ。ただ、相手の腕の長さと力が明らかに上位種のそれで、おそらくレーヴの側も無傷ではいられない。

 それなら投げて攻撃するしかないが、機会は一度だけになる。俊敏さがこれまでの個体とは段違いの相手を、確実に仕留められるだろうか。短い時間迷い、最初に選んだのは火炎だった。

 致命傷は無理でも、動きを止めるくらいの効果にはなるだろう。

 手のひらを広げるとすぐに熱を感じ、直後にかなりの速度で火の玉が離れていった。


 マスターオークはそれを避けようと横っ飛びに逃げようとしたが、肩のあたりを直撃する。

 激しいうめき声とともに、何かが焼ける臭いが、熱によって生まれた上昇気流に乗って周囲に広がった。

 ただのオークは同じ攻撃で倒せた。

 今回も、時間稼ぎくらいにはなってくれることを期待したが――相手はまだ二本の足で立っていた。


 やはり首を落とすしかなさそうだ。

 剣を使った攻撃に移るか、躊躇した瞬間だった。

 マスターオークが、傷口を気にして目線がそれ、その動きが予定外の事態を引き起こす。

 敵は、届かない高さにいるレーヴではなく、確実に倒せる対象に、再び関心を寄せたのだ。


 おそらく獣と視線が交差したのだろう、アンナリーズから血の気が引くのが見えた。

 這ったまま逆方向に逃げようとしたが、巨体が一歩を飛んだだけで、真うしろまで迫る。

 振り向いたその美しい顔が死を感じて歪み、声にならない絶叫を上げるのを見て、ジルドが切り裂かれた直後のカトリアの表情と、連鎖してシルバーオークを討ち取った場面が頭に浮かんだ。

 そうか。あのときは意識していなかったけれど――やつらには弱点と呼んでいい隙があるのではないか。

 獣鬼の俊敏性は、確かに人とは比較にならない。だが、動きそのものは一直線だ。獲物に襲いかかるその刹那は、防御行動を取れない。


 敵が少女めがけて腕を振り上げたのは、その事実に気づいた直後だった。

 目からの情報が頭に届くより前に、ほとんど反射で手が動く。

 投げた剣が、相手の首元に向けて落下を始める。角度の微調整と同時に、できる最大限の力で加速させると、それは軌跡が確認できない程度の速度で地面に達した。

 少し遅れて、獣鬼の首が、その体から静かに離れて落下し、間もなく、過去にないほどの大きな外皮を残して蒸発した。


 アンナリーズの元に着地したとき、彼女は目と口を開けて、どちらからも液体を垂れ流していた。

「ケガはありませんか?」

 肩に手を添え、ハンカチを差し出した。

 彼女はそれには反応せず、気化したオークのほうを、しばらくぼう然と見つめたあと、やがて空を見上げて声を震わせた。

「わたし……生きてる」

 そう言って、顔を覆い、長い時間、嗚咽していたが、唐突に目線を戻すと、レーヴを睨んだ。

「あんた、さっきの何っ?どうやって飛んだのっ?」


 隠すことはあきらめ、重力制御を使ったのだと正直に告げると、マスターオークと対峙したときと同じくらい、大げさに驚いて見せた。

「あんたがレネゲードっ?ウソだよ。だって、授業で検査をしてるの、見てたんだ。っていうか、アビリティで体を浮かせるなんて、聞いたことないっ」

 興奮したように、早口にまくし立てる横で、投げ捨てた革の小袋を拾い上げる。中身を見せながら事情を説明すると、彼女は霊石を手にして、感心したように光に透かせた。

「エーテル供給を制限できるユニークなんて初耳だよ。それにしても、ずいぶん立派な石だけど――これをあんたに託した人もレネゲードってこと?」

「ええ、そうです。師匠、という立場になるのかな。それはともかく、ひとまず、ここから離れませんか。立てますか?」

 手を取ったが、彼女は膝をついただけで、首を振った。


「ダメ。脚に力が入らない」

「だったら、おんぶしますよ」

「そんなの――もっとダメ」

「どうしてです?他にも獣鬼がいないとは言えませんよ」

 だが、それには返事をせず、視線を落として、スカートの上に両手を置いた。

 ああ、そういうことか。

「オレの服は仕事着ですし、少しくらい濡れても、洗えば何の問題もないですけど――」

「それ、どういう意味っ?濡れるって何っ!」

 彼女は顔を真っ赤にして文句を言ったが、直後に風で木の葉が揺れる音がすると、今度は「ひいっ」と、レーヴにすり寄った。


「わかったから。さっさと連れて帰って。あと、その前に――」

 周囲を警戒しながらも、彼女は黒灰石と、抜け殻を拾うようレーヴに指示をした。

 草むらで探し当てた石は、筋が二本見えた。

 それをポケット仕舞い、背中を見せて膝をつく。

 それでもしばらく躊躇していたが、やがて無言でレーヴの肩ごしに腕を回した。


 その体は想像していたより軽かった。あるいは、最近のトレーニングでレーヴ自身に筋力がついたせいかもしれない。

 密着した腰のあたりがひんやりとして、おそらくはそれを恥じたのだろう、彼女は体を浮かせようとしたが、無理やり腕でそれを制すると、あきらめたように、動かなくなった。

 ときどきずり落ちそうになるのを持ち上げ、半分ほどの距離を戻った頃、アンナリーズはそれまでとは別人のように、落ち着いた声を出した。

「どうしてレネゲードの道を選んだの?重力制御で自分の体を浮かせて戦えるようなソーサラーなんて、過去にいなかったと思うけど。それも無詠唱で。どこの国に行っても間違いなく、エキスパート並みに重用されるんじゃないかな」

「そんな力があることに気づいたのが、そもそも最近のことなんです。それに、他にも色々と事情があって。それで、お願いがあるんですが。できれば、このことは他言無用にしていただけませんか」

 性格を完全に把握しているわけではない。どんな答えを返すのか、背中に集中していると、首の横からすっと手が伸びてきた。

「黒灰石、見せて」

 石を差し出すと、彼女は「すごい」と感嘆の声をもらした。


「二周ものなんて、普通一生見れない。しかもこの大きさ。エリクサーが何本も作れるよ」

「夏休みの課題になりますか?」

「それは――無理、かな。どうやって手に入れたのか、間違いなく問いただされるけど――絶対に答えられないんだから」

 彼女は絶対に、の部分に力を込めた。それがつまり、レーヴの依頼に対する答えということらしい。

 今回の秘密を盾に脅される、という展開も、わずかながら想像していただけに、ほっと息をついたその直後、胸のあたりにたれていた細い腕が、首に移動してきた。

「あの、ちょっと苦しいんですけど」

「教えなさい。前に待ってる人がいるって、言ってたよね。もしかして、さっきの霊石をくれたレネゲードがその人ってこと?女なの?」

 これまで、そんな姿を見せたことなどなかったはずなのに――。

 唐突に、人並み外れた記憶力と洞察力を発揮した。


 返事をできずにいると、さらに喉が絞まる。

「く、苦しい……」

「前に浴室でわたしの柔肌を見たバツだよ。お父様にだって見せたことないのに」

 耳元に口を寄せながら、彼女は体をぎゅっと密着させた。

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