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種として分類するなら、それはオークだった。
ただ、シルバーオークよりさらに五割増しの体格に、赤みがかった外皮はこれまで見たどれとも違う。
初見だったが、教科書の、獣鬼の章の表紙絵にもなっているそれを見間違うことはなかった。
一度は腰を上げたアンナリーズが、脱力したようにすとんとお尻を地面につける。
目を見開いたまま、聞き取れるかどうかの声でこう言った。
「マスター……オーク」
獣は、名を呼ばれたことに応えるかのように、木々の葉が揺れるほどの咆哮をあげる。
「早くっ。走って逃げるんですっ!」
彼女は、おそらくは、「わかった」と、返事をしたのだと思うが、口が動いただけで、立ち上がることなく、四つんばいになるのが精一杯だ。四肢は震え、あらわになった太ももから、黄色い液体がたれる。
同い年の人間を背負って走れるほどに、身体はできていない。
一歩足りとも動けない人間を守るには、敵の目をそらせる以外にない。
剣を抜き、鞘をマスターオークに投げつけ、彼女から直角に離れた位置まで移動した。
「待って……。置いて行かないで」
しぼり出すような涙声がしたが、今だけは従うわけにはいかない。
幸運にも、と言っていいのか、敵はレーヴを最初の獲物と決めたらしい。
地響きがするほどの大股で踏み出すと、たった二歩で距離を半分ほどに詰める。同時に、左の腕を上げ、一瞬で振り下ろしてきた。
初撃をどうにか交わせたのは、ぎりぎりで軌跡を見極められた、というよりは、風圧で体が後方に飛ばされた影響のほうが大きかったからだ。
倒れないよう、必死に足を踏ん張ったが、今のレーヴの実力では、防御さえままならないことは明らかだった。
同じことはアンナリーズにも伝わったのだろう、彼女の表情が恐怖から絶望に変わる。
防波堤になっている一人目がいなくなれば、武器も持たず、歩くこともできない彼女は、一瞬で息の根を止められるのだ。
選択肢は二つ。このまま剣で戦うか、あるいは――。
ルノアの言葉が頭に浮かんだ。
怖いのは、獣鬼ではなく、レネゲードが露呈することだと。
だが、そんな比較が意味を持つのは平時が大前提だ。この危機的な状況下で、クラスメートの命を救うことより高い優先度は存在しない。
そんな論理的思考が、前世から引き継いでいるのだとすれば、そのギフトのおかげで、頭の中が少しだけ冷めた。
覚悟を決め、胸元に手をやり、赤燐光石の革袋を引きちぎる。
マスターオークの第二撃が襲ってきたのは、それを投げ捨てるのとほとんど同時だった。
アビリティを使うことそれ自体が久しぶりだったせいで、ほんのわずかだけ、うしろに下がるつもりの重力制御で、体が鳥のように飛び上がってしまう。
獣鬼の首が真上に向き、離れた場所で、同じようにレーヴを見上げるアンナリーズの表情が、驚愕へと変わるのがわかった。
敵との距離を取れたことで、彼女はこのことを秘密にしてくれるだろうか、などと考える程度の心の余裕ができる。
武器は剣が一本だけ。
すぐに思いついたのは、以前に戦ったときと同じように、刃先を水平にしたまま加速する方法だ。ただ、相手の腕の長さと力が明らかに上位種のそれで、おそらくレーヴの側も無傷ではいられない。
それなら投げて攻撃するしかないが、機会は一度だけになる。俊敏さがこれまでの個体とは段違いの相手を、確実に仕留められるだろうか。短い時間迷い、最初に選んだのは火炎だった。
致命傷は無理でも、動きを止めるくらいの効果にはなるだろう。
手のひらを広げるとすぐに熱を感じ、直後にかなりの速度で火の玉が離れていった。
マスターオークはそれを避けようと横っ飛びに逃げようとしたが、肩のあたりを直撃する。
激しいうめき声とともに、何かが焼ける臭いが、熱によって生まれた上昇気流に乗って周囲に広がった。
ただのオークは同じ攻撃で倒せた。
今回も、時間稼ぎくらいにはなってくれることを期待したが――相手はまだ二本の足で立っていた。
やはり首を落とすしかなさそうだ。
剣を使った攻撃に移るか、躊躇した瞬間だった。
マスターオークが、傷口を気にして目線がそれ、その動きが予定外の事態を引き起こす。
敵は、届かない高さにいるレーヴではなく、確実に倒せる対象に、再び関心を寄せたのだ。
おそらく獣と視線が交差したのだろう、アンナリーズから血の気が引くのが見えた。
這ったまま逆方向に逃げようとしたが、巨体が一歩を飛んだだけで、真うしろまで迫る。
振り向いたその美しい顔が死を感じて歪み、声にならない絶叫を上げるのを見て、ジルドが切り裂かれた直後のカトリアの表情と、連鎖してシルバーオークを討ち取った場面が頭に浮かんだ。
そうか。あのときは意識していなかったけれど――やつらには弱点と呼んでいい隙があるのではないか。
獣鬼の俊敏性は、確かに人とは比較にならない。だが、動きそのものは一直線だ。獲物に襲いかかるその刹那は、防御行動を取れない。
敵が少女めがけて腕を振り上げたのは、その事実に気づいた直後だった。
目からの情報が頭に届くより前に、ほとんど反射で手が動く。
投げた剣が、相手の首元に向けて落下を始める。角度の微調整と同時に、できる最大限の力で加速させると、それは軌跡が確認できない程度の速度で地面に達した。
少し遅れて、獣鬼の首が、その体から静かに離れて落下し、間もなく、過去にないほどの大きな外皮を残して蒸発した。
アンナリーズの元に着地したとき、彼女は目と口を開けて、どちらからも液体を垂れ流していた。
「ケガはありませんか?」
肩に手を添え、ハンカチを差し出した。
彼女はそれには反応せず、気化したオークのほうを、しばらくぼう然と見つめたあと、やがて空を見上げて声を震わせた。
「わたし……生きてる」
そう言って、顔を覆い、長い時間、嗚咽していたが、唐突に目線を戻すと、レーヴを睨んだ。
「あんた、さっきの何っ?どうやって飛んだのっ?」
隠すことはあきらめ、重力制御を使ったのだと正直に告げると、マスターオークと対峙したときと同じくらい、大げさに驚いて見せた。
「あんたがレネゲードっ?ウソだよ。だって、授業で検査をしてるの、見てたんだ。っていうか、アビリティで体を浮かせるなんて、聞いたことないっ」
興奮したように、早口にまくし立てる横で、投げ捨てた革の小袋を拾い上げる。中身を見せながら事情を説明すると、彼女は霊石を手にして、感心したように光に透かせた。
「エーテル供給を制限できるユニークなんて初耳だよ。それにしても、ずいぶん立派な石だけど――これをあんたに託した人もレネゲードってこと?」
「ええ、そうです。師匠、という立場になるのかな。それはともかく、ひとまず、ここから離れませんか。立てますか?」
手を取ったが、彼女は膝をついただけで、首を振った。
「ダメ。脚に力が入らない」
「だったら、おんぶしますよ」
「そんなの――もっとダメ」
「どうしてです?他にも獣鬼がいないとは言えませんよ」
だが、それには返事をせず、視線を落として、スカートの上に両手を置いた。
ああ、そういうことか。
「オレの服は仕事着ですし、少しくらい濡れても、洗えば何の問題もないですけど――」
「それ、どういう意味っ?濡れるって何っ!」
彼女は顔を真っ赤にして文句を言ったが、直後に風で木の葉が揺れる音がすると、今度は「ひいっ」と、レーヴにすり寄った。
「わかったから。さっさと連れて帰って。あと、その前に――」
周囲を警戒しながらも、彼女は黒灰石と、抜け殻を拾うようレーヴに指示をした。
草むらで探し当てた石は、筋が二本見えた。
それをポケット仕舞い、背中を見せて膝をつく。
それでもしばらく躊躇していたが、やがて無言でレーヴの肩ごしに腕を回した。
その体は想像していたより軽かった。あるいは、最近のトレーニングでレーヴ自身に筋力がついたせいかもしれない。
密着した腰のあたりがひんやりとして、おそらくはそれを恥じたのだろう、彼女は体を浮かせようとしたが、無理やり腕でそれを制すると、あきらめたように、動かなくなった。
ときどきずり落ちそうになるのを持ち上げ、半分ほどの距離を戻った頃、アンナリーズはそれまでとは別人のように、落ち着いた声を出した。
「どうしてレネゲードの道を選んだの?重力制御で自分の体を浮かせて戦えるようなソーサラーなんて、過去にいなかったと思うけど。それも無詠唱で。どこの国に行っても間違いなく、エキスパート並みに重用されるんじゃないかな」
「そんな力があることに気づいたのが、そもそも最近のことなんです。それに、他にも色々と事情があって。それで、お願いがあるんですが。できれば、このことは他言無用にしていただけませんか」
性格を完全に把握しているわけではない。どんな答えを返すのか、背中に集中していると、首の横からすっと手が伸びてきた。
「黒灰石、見せて」
石を差し出すと、彼女は「すごい」と感嘆の声をもらした。
「二周ものなんて、普通一生見れない。しかもこの大きさ。エリクサーが何本も作れるよ」
「夏休みの課題になりますか?」
「それは――無理、かな。どうやって手に入れたのか、間違いなく問いただされるけど――絶対に答えられないんだから」
彼女は絶対に、の部分に力を込めた。それがつまり、レーヴの依頼に対する答えということらしい。
今回の秘密を盾に脅される、という展開も、わずかながら想像していただけに、ほっと息をついたその直後、胸のあたりにたれていた細い腕が、首に移動してきた。
「あの、ちょっと苦しいんですけど」
「教えなさい。前に待ってる人がいるって、言ってたよね。もしかして、さっきの霊石をくれたレネゲードがその人ってこと?女なの?」
これまで、そんな姿を見せたことなどなかったはずなのに――。
唐突に、人並み外れた記憶力と洞察力を発揮した。
返事をできずにいると、さらに喉が絞まる。
「く、苦しい……」
「前に浴室でわたしの柔肌を見たバツだよ。お父様にだって見せたことないのに」
耳元に口を寄せながら、彼女は体をぎゅっと密着させた。




