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辺境伯に依頼された、前年度の数字の検証を終えたのは、手伝いを始めてから一ヶ月ほどした頃だ。
外界は新緑の時期を過ぎ、春に開花する植物の果実が色づき始め、再開した夜の訓練の時間も、寒さを感じなくなった。
夕食のとき、初めて辺境伯がご機嫌な姿を見た。
酒をいつもより飲んでいたことも理由だと思う。
「お前は想像以上に優秀だな。卒業したら、養子にしてやろうか。カトリアと結婚しても構わないぞ」
どこまで本気なのか、そんな爆弾発言があった。
「身元のはっきりしない者を、簡単に信用されるのは、いかがなものかと思います」
慌ててそう返事をして、それが相手の笑いを誘い、どうにかその場を切り抜けることができたと思ったのは、浅はかだった。
そばにいたアンナリーズの唇から、血が流れるのが見えたときには、さすがに背筋が凍った。
あの小テストで面目をつぶされたと思ったのか、スミスはその後、何度も計算の試験を実施していて、その結果、アンナリーズの追試の回数は、指数関数的に増えているらしい。
前日に返却された試験の結果もかなり悪かったようだ。
ビクトルが、やたらうれしそうに披露した見解によれば、このままでは二年次になれない可能性もあるのだという。
万が一、進級で彼女を追い抜いてしまえば、間違いなく、この屋敷にいられなくなる。
一日の業務を終え、そんなことにならぬよう祈りながら、懸垂の場所へと走っていたときだった。
いつもの大木のそばに、小さな明かりが見えた。
周囲に民家のない場所だ。
野盗でもいるのかと、息をひそめて近づくと、光源は油灯で、それに照らされていたのは、木を背に、何かの本を膝においたアンナリーズだった。
彼女はそばで立ち止まったレーヴを見上げ、ひと言、こう言った。
「おじさまに取り入ろうとしたって無駄だよ。わたしの目の黒いうちは、カトリア姉様には、指一本触れさせない」
「まさか。そんなつもりは全然ありません」
「何、それ。姉様に女としての魅力がないって言ってる?」
どうしてそうなる。なら、どう答えればいいのだ。
「ええと、オレには、待っている人がいるので……」
支離滅裂な答えを返してしまうと、相手はゆっくりと立ち上がった。
「まさか孤児の分際で、恋人がいる、とかじゃないよね」
「いえ、そういうんじゃなくて――。それより、わざわざ、それを言うために、ここまで?」
罵倒されることはあきらめていたが、夜に屋敷を抜け出してまで、文句を言われる意味がまるでわからないでいると、なぜか相手は唐突に口を閉ざし、頬を染めた。
それから何か言いたげにしたまま、だが、何も言わずに落ち着きがなくなる。
やがて、ひとり言のように、声を落とした。
「うちの学校って、追試に三回連続で落ちたら進級できないんだよね……」
続けて、顔をそむけながら、手にしていた本をレーヴに見えるよう開いた。
計算の教科書だった。
なるほど、貴族は平民に何か頼みごとをするのにも、面倒な手続きが必要らしい。
「オレで良ければ、計算のやり方、教えましょうか?」
それ以外にかける言葉を思いつかない。
結果を待つ時間がやたら長く感じたあと、アンナリーズは笑みを押し殺したような奇妙な表情をして振り返った。
「そ、そう?お前がそう言うなら、聞いてあげてもいいけど」
次の追試は四日後らしく、その瞬間、試験対策の個人授業をすることが決まった。
「やり方ですけど、まずは、二から九まで、七十二個のかけ算を暗記します」
レーヴの記憶にもない、数字を縦に並べるその計算方法は、おそらく前世で身につけたのだと思う。
「は?暗記って何。お前はバカなの?そんな面倒なことしたくない。そっちは簡単に答えを出してるじゃない。その方法を教えなよ」
「ですから、そのために、最初だけは苦労が必要なんです。誓って言いますけど、これを乗り越えたら、今後、ずっと計算は得意科目になりますから」
彼女はあれこれ言い訳をして、どうにか楽をしようとしていたが、”カトリア”と”落第”という二つの単語を駆使することで、やる気を操れることを知った。




