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3-1

 それからしばらくは、何ごともなく過ぎた。

 登下校時に連続して走れる距離は、少しずつ長くなっていった。

 懸垂も、ゼロから一、一から二と、回数という形で成果が目に見えるようになってからは、勢いが増したと思う。

 昼休みも、食事のあとすぐにトレーニングのために校庭へ移動したことで、フリッツやカエサル、それにアンナリーズたちと余計な接触をする機会が減ったのは、思わぬ効用だった。


 当初は、そんなレーヴをからかい、わざわざ嫌味を言いにくる生徒もいたが、毎日、同じ行動を繰り返していたせいだろう、相手もやがて飽き、関心を寄せられることは減っていった。

 ビクトルには、下手に出ることで、他の生徒の人物相関図など、彼の持つ知見を教えてもらうという手法を発見した。

「そんなことも君は知らないのか」

 彼は自己顕示欲を満たせて、レーヴは必要な情報を得るという相互補完の関係だ。

 おかげで、面倒ごとに遭う回数は減り、総合的に判断すれば、無難に学園生活を送ることができるようになっていったと思う。


 座学は、レーヴが過去に蓄えた知識の復習となるような内容も少なくなかったが、エーテルやスタイルについて、情報を体系立てて再構築できたのは有益だった。

「スタイルには、ご存知のように大きく二つの分類があります。基本様式(ベーシック)特殊様式(ユニーク)です。料理にたとえれば、前者は煮物や炒め物といった、ごく基本的な家庭料理のレシピ集、入門書ですね」

 種類は六つだ。光、風、水、氷、火、治癒の順に、難易度が高く、さらには使い手の数も少なくなるらしい。

「治癒が光や風と同じ扱いになることに違和感のある人もいるかもしれませんが、実際に傷を治すのは人自身。アビリティはその補助をしているだけで、ありふれた自然の摂理という意味でも同類なのです。それらに対して、後者のユニークは専門書。複雑な手順で作られる宮廷料理といったところでしょうか」


 スタイルには未解明な部分も多く、専門の学問まであるそうだ。とりわけ、ユニークはその全容が明らかになっておらず、ただ。その中では、探知や重力制御は比較的よく知られている部類だという。

 ベーシックのうちの二つか三つが使えるソーサラーが最も一般的で、中でも、光と風は練習さえすれば誰でも習得可能。逆に、ルノアのように、多数のアビリティを使いこなせる人間は、かなり希少ということだった。

「王国あたりのエキスパートになれば、ユニークを二つ持つソーサラーもいるという噂です。もちろん、そんな選ばれた人たちであっても、理論上、二つのアビリティを同時に使うことはできません」


 ソーサラーには、ビギナー、マスター、エキスパートの三つの階級があるが、今後、制度の維持は難しくなるだろう。審査を担当するのは王国のエキスパートで、だが、今度の戦争で彼らはすべていなくなったからだ。

 この先、レネゲードだと露見したとき、登録機関がなくなったせいだと、言い訳に使える可能性はある、か。


「それから、これは余談ですが、風の応用として、音、というのもあることをご存知でしょうか。武器としては使えませんが、王国では、そのアビリティを使った音楽隊もいるそうですよ」

 訓練で、光や風も使えるのであれば、早速、試したいところではあったが、今はその時間が取れそうにない。

 当面の目標は、基礎体力や実技が人並みになることで、今はそのための鍛錬が最優先なのだ。


 そのことを強く意識させるのが、模擬戦のある日だった。

 誰の差し金なのか、特定の人間とばかり組まされた。

 カエサルの家は、数代前に士族に取り立てられた家筋で、父親は戦場で命を落としたそうだ。

 本人も骨の髄までの軍人気質。一対一の戦闘において、まるで手を抜くことがない。

 もっとも、相手の動き自体は見えていたし、何度も対戦したことで、間合いや繰り出す技のクセも把握でき、体に直接受ける打撃は明らかに減ってはいた。

 ただ、防戦一方という構図はまるで変わらず、観衆には、一方的にやられているようにしか見えていなかっただろう。

 レーヴがこてんぱんにされる様子は、すっかり生徒たちの間で評判になっているようだ。

 ビクトルによれば、寄宿舎は上下関係が厳しく、先輩たちからの圧力を常に受ける一年次生たちの、数少ない娯楽の一つとして定着しているのだという。


 そんな中、屋敷でアンナリーズの食事を運んでいたとき、レーヴの腕を掴んだ彼女は、激しい口調でこう言った。

「あんなやつに、いつまでもやられっ放しで……。お前を推薦したお姉様の立場を少しは考えてよっ」

 一緒に住むようになって、あるいは学校での言動を見て知ったのは、彼女は、貴族という立場を、誰よりも強く意識しているという事実だった。

 カトリアを慕っているが、それ以上に父親のことを深く尊敬している。


 幼い頃に母親を亡くしていることも理由だろう、狩りで大きな獲物を仕留めたことなど、食事の際、辺境伯に、テューダー男爵の自慢をしている姿を何度も目にした。

「帝都の金持ち貴族と結婚するのが、アンナリーズの野望らしいよ」

 これもビクトル情報だが、彼女の家は領地がなく、あまり裕福ではないらしい。

「四半期に一度、領地の貴族たちが集まる意見交換会という名の飲み会があるんだけど、テューダー男爵はほとんど参加したことがないんだ。参加費が惜しいからだって、みんな噂してる。あ、ちなみに、その会場の設営とか、料理や飲み物は全部、うちが取り仕切ってるんだけどね」

 会話の端々に、実家の自慢をはさんでくる仕様にもすっかり慣れた。

「課外授業で、薬草採取のために森に行ったときなんだけど。アンナリーズが、他の生徒が知らないような、食べられる植物にやたら詳しくてさ。それ以来、彼女は普段から野草を食べてるんだって噂されてるよ」

 そう言われて思い返した。彼女が通学に使っているリュックは、およそ子供が使いそうにない、黒く大きな革製で、入学時に手に入れたとは思えないほど、使い込まれていた。おそらくは父親が狩猟に使っていた物を譲り受けたのだろう。


 それ以外も、制服こそ真新しいが、髪留めや指輪といったアクセサリーはどれも年季の入った大人びた雰囲気で、おそらく母親の形見なのだと思う。

「領地のない貴族は、どうやって収入を得てるんだろう」

「帝宮に出仕して文官になる人が多いみたいだけど、確かテューダー男爵は士族と同様、軍務に就いてるはずだよ。戦時でなくても、手当があるんだ」

 レーヴのいた王国には、貴族という概念がない。特権階級は、王族とその姻戚にある華族だけ。おそらく、叙爵によって勲功に報いる必要がなかったからだと思う。

 他国との争いで領土を広げてきた帝国と、ソーサラーによって、永年、安定した領土を維持してきた王国の思想の違いが、そんなところにも現れているというわけだ。


 アンナリーズの愛想が悪いのは、気位が高く、レーヴを下に見ているだけだと思っていたが、そんな家庭の事情を知ってからは、きつい物言いにも、少しだけ寛容に接することができるようになったと思う。

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