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翌朝、窓の外が暗い中、テオを起こさぬよう、部屋を抜け出した。
大きな音の出る作業はできない。
人のいない場所から掃除を始めてしばらく、一番の鐘が鳴った。
廊下と窓、それから調理場と食堂を拭き終えた頃、ヘンドリカが眠そうに姿を現した。
テーブルに細い手をすべらせ、その指先をじっと見る。
「毎朝、こんなことをするつもりですか」
「お世話になっていますから」
「殊勝なことですが、見返りは期待しないように」
約束通り、ヘンドリカの部屋の片付けにも取りかかる。使用人の部屋とは思えないほどに汚れていて、虫はもちろん、鳩の死骸を見つけたときには、さすがに目を疑った。
それが終わると、朝食の準備だ。
料理をワゴンで運んでいると、最初に辺境伯が、遅れてアンナリーズが姿を見せた。
彼女は制服姿のレーヴを見て、激しく顔を歪めたかと思うと、すれ違いざまに、耳元でこうささやいた。
「お前、学校でわたしに話しかけたら殺すよ」
そうは言われても、初日だけは、道順を知る必要がある。
食器の片付けの途中、膝上のスカートを風になびかせ、姿勢良く歩いていく彼女を窓の外に見つけ、大慌てで屋敷をあとにした。
できるだけ姿を見せないように尾行して半時ほど、初夏の日差しに汗がにじんだ頃、雑木の中に現れたのは、歴史を感じさせる、二階建ての立派な建造物だった。
建物が二棟、Lの字型に連なっていて、短いほうはどうやら寄宿舎のようだ。窓から身支度をする生徒の姿が見える。
授業開始までには時間があり、中庭の大きな木を背に、本を読む生徒や、校庭で球遊びに興じる者たち。
年齢層は幅広く、まだ幼さの残る童顔の子から、大人かと見紛う人間までいた。
最初に教員たちの待機所に向かう。
中にいたのは三人だけだ。
一番奥で、眼鏡をかけ、偉そうにタバコを吸っている中年の男が、おそらく校長だろう。
挨拶のために前に立つと、レーヴの目を見ながら煙をはいた。
「辺境伯が責任を持つというから、仕方なく許可しましたが――。平民だということを忘れないように。問題を起こしたら、すぐに退学させますからね」
一方的にそれだけ言うと、背もたれに重心をかけ、顔を隠すように新聞を広げた。
学費を払う客という立場でもあるはずなのに、貴族たちの階級意識は、何よりも優先するということか。
きっと教室でも似たような立場になるのだろう。
ぞんざいな扱いを受けることが愉快ということはもちろんなかったが、当面の目的はルノアとの再会を待つことなのだと、反抗心をどうにか鎮めながら残りの二人の元へ向かった。
剣術科の担当は、ディーデという日焼けした体格のいい男だった。
「貴様が少尉殿推薦の平民か。こんな時期に珍しいな。他の生徒より、半年以上遅れているから、最初はきついと思うが、まあ頑張れ」
そう言って、がははと笑った。
最後が様式科担当のアマンダ。校長より年上の女で、柔和な雰囲気だ。
「今朝の講義は私が行います。一緒に参りましょう」
校内にいる全員が敵対的なのかと覚悟していた分、二人の態度に思わずほっと胸をなで下ろした。
教室への道すがら、彼女は最初の印象そのままに、優しい語り口で学校の説明をしてくれた。
生徒数は全部で五十人ほど。年齢には制限がなく、一番下は、十二歳の子がいるし、二十を越えてから入学する生徒もいるという。
平民の子供は十人に満たず、ほとんどは貴族と士族だ。
理由は経済的なものだろう。授業料、特に入学金が、庶民には高額なのだ。
「授業は、基本的に午前は講義、午後は科目に分かれての実技になります」
座学は校長のスミスを含め、三人が分担する。
ソーサラーは圧倒的に数が少ないはずで、ほとんどの生徒が剣術専攻だと想像していたが、アンナリーズを含めて、製薬や素材研究などの理説を学ぶために、様式科に所属している人間も半分近くいるそうだ。
落第がなければ四年程度で卒業になる。
やがて彼女が足を止めたのは、校舎の一階にある大きめの教室だった。
中に入ってすぐ、アンナリーズを見つけ、だが相手はそうそうに顔をそむけた。
転校生について、事前に情報が伝わっているのか、誰も騒ぐ様子がない。
予想通りというべきか、まるで歓迎されている気配はなく、紹介されたあと、男子生徒から飛んできた声に、そのあたりの事情がはっきりした。
「領主さんのところの孤児なんだってな。どうせ盗みを働いて、すぐいなくなるんだろうけど。そうだよな、アンナリーズ・テューダー」
名指しされた一人を除いて、そこにいた全員が、いっせいに笑い声をあげた。
屋敷に出入りする人間は少なくない。人の口に戸は立てられぬというわけか。
アマンダから一番うしろの席を指示され、そこへ向かう。
途中、野次を飛ばした男子のそばを通るとき、突然バランスを失い、前向きに倒れた。机に手をついて踏ん張ったが、どうやら足を引っかけられたらしい。
年はレーヴより上に見える彼は、不敵な笑みを浮かべた。
「そんなすぐ転ぶようなやつに、武器が持てるのかよ」
実際のところ、アビリティを使わず、剣を振るう自信はまるでなかった。そもそも、レーヴの基礎体力は、驚くほど弱い。ただの雑用をしていても、あっという間に息が切れる。
それを自覚してからは、夜、就寝前に、屋敷の周囲を走るようにしていたが、十人並になるのに、相応の時間はかかるだろう。
「みなさん、お静かに。では授業を始めます」
その日の講義は、獣鬼誕生の謎についてだった。レーヴの知識にもあるが、どこまでが史実で、どこからが物語なのかは不明な内容だ。
神代の太古、創造主たる神は、長らく話し相手を求めていた。この星で言葉を持つ者はたった一人だけだったのだ。
神が最初に試したのは、自らの力で新たな知的生命を生み出すことだった。
「そこで利用されたのが黒灰石です。みなさんもよく知っての通り、希少な赤燐光石に比べれば数が多い。神は、石にスタイルを付与して、動物の死骸を再製しました」
だが、それは失敗に終わる。体の機能はともかく、知性を表現することが困難だったのだ。結果として、生存本能だけが強調された、何の思いやりも持たない獣鬼が生まれた。
次に神が考えついたのは、動物の中で知能の高かった種や個体を選別し、かけ合わせることだった。
地道で、長い年月が必要だったが、その結果、やがて人間が生まれた。
神はその完成度の高さに満足し、この世界を彼の者たちに譲ることに決めた。
「人の中に、スタイルを持つ者がいるのは、神の加護を受け継いでいるのだと考えられます」
それが事実なら、創造主は、力の有無が権力や格差につながることを見越していたのだろうか。




