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それから使用人頭が向かったのは調理場だ。
中にいたのは、油に汚れた厨房服を着た男が一人だけ。手際良く野菜を切っていた彼も、これまで出会った人間たちと同じく、紹介されたレーヴを一瞥しただけで、挨拶をしようという気配がない。無愛想や寡黙ではなく、新人に声をかける時間すら惜しい、という雰囲気で、おそらくは多忙なのだろう。
「今日は夜までここで手伝いをして下さい」
彼女がいなくなったあと、料理長の指示は予想通りというべきか、最低限ではあったが、ある意味無駄はなく、余計な気遣いが不要であることを気楽に感じる程度だった。
積み上がっていた食器を洗い、ゴミを出す。食材の買い出しでは、道に多少迷い、戻ったあとも、井戸からの水くみに、食卓の準備と、休む間もなく日が暮れた。
夕食のときは給仕係りとなる。
席にいたのは、辺境伯とカトリア、それにアンナリーズの三人だ。
料理は、粗末というわけではなかったが、一人につき、スープとパン、野菜とわずかの肉が盛り付けられた主菜が一皿だけ。
経済的に余裕がないのか、あるいは、贅沢をしない領主なのか。後者なら、領民は恵まれていることにはなる。
主たちの食事が終わると、各自の部屋で、まかないを与えられた。
その時間、同室のテオと雑談をする機会があった。
使用人は、全部で四人しかいないらしい。テオが庭とボイラー管理の担当。料理人は専業で、まだ見ていない執事は辺境伯の業務補佐、それら以外の雑務すべてをヘンドリカ一人で担っているという。
当主は、領地を治めることに多忙で、屋敷内の作業量や分担を、気にする余裕がないのだそうだ。
「ヘンドリカさんはよく辞めないですね。給金がいいんでしょうか」
「金じゃねえ。恩義だろうよ」
彼女がまだ子供の頃、病気になった母親を、当時存命だった辺境伯夫人に救われたことがあったらしい。母子家庭だったこともあり、それは深く感謝したのだそうだ。十歳になったとき、本人の強い希望で、屋敷で働くようになり、それから二十年近くになるという。
「辺境伯夫人は……病気か何かで?」
「獣鬼に襲われて、な。カトリア様が軍に志願したのは、それがきっかけだろうさ」
「そう、ですか。オレは……あまり歓迎されていないみたいなんですけど――」
思い切って尋ねると、彼は顔にしわをいくつも作り、小さく笑った。
「カトリア様は亡き母君に似て、生真面目で情が深いお方でな。ときどき、どこからともなく、薄汚い子供を拾ってきなさる。で、お前さんの前に、そのベッドに寝ていた小僧が、そんな温情に報いるどころか、親方さまのスーツやら、壁の絵なんかを持って逃げちまったんだよ」
辺境伯のあの微妙な態度は、それが原因か。
「もっとも、盗みを働いたのはそいつが初めてだった。老いぼれた使用人の立場で言うのも何だがな、同情の余地はあったと思う。かなりきつく当たられていたみたいでな」
「当主様が厳しかったんですね」
「確かに相性は悪かったが、それだけじゃねえな」
それからテオが遠回しに話した内容によれば、どうやらカトリアのいとこであるアンナリーズが、就学で屋敷に同居するようになったことが影響しているらしい。
「あのお方は、幼少の頃からカトリア様をたいそう敬愛されていてな。赤の他人、しかも貴族でもない人間に目をかけられるのを、快くは思っていらっしゃらんのだろう」
そう言って、まるで同じ立場になるレーヴに憐れむような目を向けた。
「ま、そんなこんなで、お前さんが会った人間の愛想が悪く見えたのには、それぞれに理由があったってことだ」
あまり深く考えるなと、彼がタバコに火をつけたとき、扉の外からヘンドリカの声がした。
「新入り、いますか?まだ仕事が残っていいます」
部屋を出ると、彼女は疲れ切った表情で立っていた。
「各部屋の施錠を確認して下さい。大きいほうが部屋の、小さいのが窓の鍵です。それと、最上階には立ち入ってはいけません。明日以降もずっとです」
三階には、辺境伯やカトリアの居室と、ゲストルームがいくつかあり、アンナリーズもその一つを使っているのだそうだ。
指示された通り、一階から順に部屋を開けては、窓を確認し、最後に二階の、一番端の扉を押したときだった。
中に人がいることを、想定していなかった。まして、それが半裸の女であるなどと、誰が予測できただろう。
薄暗い中、誰かを確認しようと、足を一歩前に出したのが最悪の対応だった。
「きゃあっ」
声でアンナリーズだと気づいたときは、圧倒的に遅かった。
彼女は片腕で胸を隠したまま、壁に向かい、おそらくは宝飾品としてかけられていた、美しいシルエットの剣を手にすると、レーヴに突進し、一瞬も迷うことなく、それを振り下ろした。
幸い、動作が遅く、簡単に交わすことができたが、それが相手の逆鱗に触れる。
「何、よけてるんだよっ。そこに座ってっ」
サビは目立つが、どう見ても本身だ。その切っ先を、顔の先に突きつけられる。
彼女の殺意をどうにか鎮めようと、思わず口をついたのは、意味不明の言い訳だった。
「待って下さい。それだと、床が血だらけになります」
「だったら、窓から飛び降りてっ!」
剣が水平に空気を切り、進むべき道が示される。
二階なら死ぬことはないだろう。ちょうど鍵も持っているところだ。
諦めて、言われた方向に進もうとしたとき、廊下を駆けてくる足音がした。
うしろに振り返ると、息を切らせたヘンドリカが入り口に姿を見せた。
「アンナリーズ様。申し訳ありません。私の指示ミスです。お詫びに私の首をはねて下さい」
頭を下げながら、まるで抑揚なくそう言ったせいで、それがこの屋敷での責任の取り方なのかと、本気で怖くなった。
だが、そんな使用人の殊勝な態度に、少女の怒りはどうにか収まったらしい。
「バカなこと言わないで。あなたを殺したら、お姉様に一生恨まれるよ。お前、いつまでそこにいるつもり?さっさと出て行って」
アンナリーズは背中を向け、声を落とした。
レーヴが走って廊下に出るのと同時に、ヘンドリカは扉を閉め、小さく息をはいた。
「すみませんでした。まさか人がいるとは思ってなくて――」
「私が言い忘れていたから仕方ありません。この浴室も三階と同様、お前の立ち入りは固く禁じます」
彼女が非を認めたことは、多少意外だった。人形のように無表情ではあるが、不条理な人間ではなさそうだ。
ただ、不可抗力とはいえ、もっとも、気を使わなくてはならない要注意人物から、早々に不興を買ってしまったことは、今後に禍根を残した気がした。
翌朝、指示されていた通り、一の鐘でヘンドリカの元にはせ参じると、ちょうどカトリアの出立の準備をしているところだった。
彼女はたった一晩、実家で過ごしただけで、再び戦地に戻ることになる。
門まで見送るとき、一緒に行きたいと言いかけ、言葉をのみ込んだ。
戻る先に見えた屋敷には、親しい人間が誰一人いなかった。




