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灯守(あかりもり)  作者: ねこの真珠


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第十四話 湖に映る影


 遥と別れた夜から、まだそれほど日は経っていないはずなのに、あの光景は時間の奥でゆっくり伸び続けていた。

 泣き崩れたわけでも、劇的な何かが起きたわけでもない。ただ、境の手前まで歩いていって、それでも引き返した背中。その揺れが、今もふとした瞬間によみがえる。


 残業続きなのは変わらないし、上司の機嫌に振り回される日々も同じだ。それでも、誰かの表情が曇ったとき、自分の中のどこかがほんの少しだけ静かに反応するようになった。


 「寄り添う」という言葉の意味を、私はようやく自分の体で知った気がしていた。

 何かを解決するでも、正しい答えを渡すでもなく、ただ隣で揺れに付き合うこと。そういう在り方を、灯の夜が教えてくれた。


 仕事帰りのある夜、マンションのエレベーターを待ちながら、私はふいにスマホを取り出した。

 画面には、新着の通知が一つだけ薄く光っている。


 結からのメッセージだった。


『お時間があれば、お会いできると助かります。

 お伝えしたいことがあります』


 いつも通りていねいな文面。

 それでも、そこにある「助かります」という一言が、彼にしては珍しく、ほんの少しだけ重く感じられた。


 エレベーターの到着音が鳴る。

 扉が開いても乗らなかった。かわりに、親指が震えないように気を付けながら文字を打つ。


『大丈夫です。都合のいい場所を教えてください』


 送信ボタンを押したあと、ほんの少しだけ怖くなった。

 また境の近くまで行くのだと思うと、体の奥のどこかが冷たくなる。

 それでも、指は取り消しを押さなかった。



 待ち合わせ場所に指定されたのは、市街地から少し外れた公園のそばにある小さな湖だった。

 バスを降りると、街灯の明かりが急に少なくなり、足元に落ちる自分の影が長く伸びる。アスファルトの匂いに、湿った土の気配が混ざっていた。


 湖の手前で足を止めると、夜気がふっと冷たくなる。

 風が水面を横切り、細かい波紋が闇の中で静かに広がっていく。


 ベンチに、一人の人影が座っていた。

 結だった。薄いコートの襟を片手で軽くつまみ、まっすぐ湖を見つめている。街灯に照らされた横顔が、以前より細く見えた。


「お待たせしました」


 声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。


「いいえ。こちらこそ、急にお呼び立てしてしまって」


 口調はいつも通り穏やかで、笑みも浮かんでいる。

 けれど、どこかに小さなひびのようなものが見えた。

 言葉の合間に置かれる沈黙が、前よりわずかに長い。


「具合、良くないですよね」


 気づけば、そんなことを口にしていた。

 結は驚いたように瞬きをしてから、すぐに目を細めた。


「……そう見えますか」


「はい。前より、少しだけ」


 自分の中で、あの夜の灯の感触が揺れる。

 あのとき、結のすぐそばに立ったとき、彼の体温がどこか遠くに感じられたのを思い出す。


「無理はしていません。ただ、灯の側に立つ時間が、以前より少し長くなっただけです」


 それは冗談のように言われたけれど、笑える響きではなかった。


 ベンチの端に座るよう勧められ、私は結の隣に腰を下ろした。

 湖面に映る街灯の明かりが薄く揺れている。

 静けさが、水を挟んだ向こう側からしみ込んでくるようだった。


「この前の立ち会いで、あなたも“揺れ”に触れましたね」


 結がぽつりと言う。

 私は、あの旧トンネルの前に立った夜のことを思い出す。


 遥が一歩を踏み出せずに戻った瞬間。

 空気の密度が変わり、聞こえるはずのない声が、確かに耳の奥をかすめたこと。

 指先の内側で、何かが熱を帯びたこと。


「……境みたいなものを、少しだけ感じました。

 でも、あれが何だったのか、まだちゃんとは分かっていません」


「分からないままでいいこともあります。

 ただ一つだけ言えるのは、あなたは灯に触れる“適性”を持っているということです」


 適性、という言葉が、やけに冷たく響いた。

 才能、とか、素質、ではなく。

 どこか、選ばれてしまった者の響きがあった。


「その適性が、あなたを守ることもあるし、削ることもあります」


 結は、湖面から目を離さないまま続けた。


「灯の向こうにいる人たちは、いつも穏やかなわけではありません。

 届かなかった言葉、言えなかった後悔、伝え損ねた“ありがとう”や“ごめんね”。

 そういうものが、形を持たないまま澱のように溜まっている」


 その言葉が、ゆっくりと心の内側へ沈んでいく。


「灯はそれらを一時的に形にしますが、消えたはずの感情に再び触れることで、残された側も危うくなることがあります。

 それを見届ける側も、決して無傷ではいられません」


 遥の背中が頭をよぎる。

 境の手前まで進んで、それでも戻ることを選んだ彼女の選択。

 あの決断は正しかったのだろうか。

 たぶん、誰にも答えは出せない。


「結さんは、怖くないんですか」


 自分でも驚くくらい、真正面から投げた問いだった。


 結は少しだけ笑みを深くした。

 その笑みが、痛みを薄めるための仮面に見える。


「怖いですよ。何度灯の前に立っても。

 ただ、それ以上に、離れられない理由があるだけです」


「……離れられない理由ってなんですか?」


「会いたい人がいます。

 まだ、生きているのに、生の側にはいない人が」


 短い説明なのに、その奥にどれだけの時間が詰まっているのか想像できなかった。

 その人の名前も、顔も、ここでは語られない。

 それでもたしかに、結の言葉の陰に“誰か”が立っているのが分かる。


 湖の向こうで、小さな波が一つだけ立ち上がった。

 光の筋がその上を滑り、すぐに崩れて消えた。


「私は、その人のいる境界を、ただ見つめ続けています。

 灯を通じて近づくことはできますが、近づけば近づくほど、自分の方が削れていく」


 結は自分の手を見下ろした。

 細く、骨ばった指。

 その指先は、冷たそうに見えるのに、不思議と弱々しさはない。


「あなたは、どうして協会に……灯守になろうと思ったんですか」


 前から気になっていた問いを、私はやっと口にした。

 結はすぐには答えなかった。

 風の音を一度やり過ごしてから、ゆっくりと口を開く。


「理由は一つではありません。

 ただ、“どちらの側にも完全にはいられない”人間にとって、ここは都合のいい場所だったのかもしれません」


「どちらの側にも……?」


「生と死の話だけではありません。

 置いていく側であり、置いてこられた側でもあるということです」


 その言葉の意味を、私はすぐには咀嚼できなかった。

 ただ、結の言葉の奥で、何かがきしむ音だけははっきりと聞こえた気がした。



「私は――」


 自分の声が、少しだけ震えた。

 湖面の光の揺れと同じリズムで、心の奥も微かに揺れる。


「私は、薄くなっていく結さんを、見ているだけなのが嫌です」


 結が、初めてこちらをまっすぐ見る。

 その視線は驚きと困惑と、それからかすかな安堵の色を混ぜていた。


「助けたい、と言えるほど自信はありません。

 でも、何もせずに見送ることだけは、もうしたくないんです」


 父と再会した夜のことが胸に浮かぶ。

 あの夜の灯が、私を救ってくれたこと。

 同時に、あの灯の向こう側で、結がどれだけのものを背負っていたかに、私は今ようやく気づき始めている。


「あなたが歩こうとするなら、私は止めません。

 ただ、それはあなたの人生を長く縛る選択になるかもしれません」


「それでも、行かなかった未来の自分の顔を想像する方が怖いです」


 言葉にしてから、自分でも驚いた。

 前の私なら、「怖いから行かない」と言い訳を並べていたはずだ。


 結は短く息を吐いて、どこか諦めにも似た、しかし柔らかい表情を浮かべた。


「……分かりました。

 あなたがそう決めるなら、私はそれを尊重します」


 湖の向こうで、風が一度止んだように感じた。

 静けさが濃くなり、水面の揺れだけが時間の流れを証明している。


「いつか、きちんと話します。

 “会いたい人”のことも、自分自身のことも。

 ただ、今はまだ、あなたを巻き込みすぎたくない」


 それが本音なのか、言い訳なのか、それとも両方なのか。

 きっと今は、どれとも決めつけられない。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 ――私はもう、ただ灯を受け取る側ではいられない。



 帰り道、街に戻ると人の気配と光が一気に増えた。

 コンビニの前で立ち話をする高校生、信号待ちの車列、どこかの店から漏れ聞こえる笑い声。

 その全部が、さっきまでいた湖畔とはまるで別の世界の出来事みたいに感じられた。


 家に着き、いつものように鍵を回す。

 部屋の灯りをつけると、狭い空間が一気に明るくなる。

 現実は、何も変わっていないはずだった。


 コートを脱いで椅子にかけ、バッグを床に置く。

 その一連の動作のあいだ中ずっと、湖の水音が耳の奥に残っていた。


 ミネラルウォーターのペットボトルを開け、一口飲む。

 冷たさが喉を通り過ぎ、みぞおちのあたりで小さな波紋になる。


 ソファに腰を下ろし、静かに目を閉じた。

 暗闇の向こうで、結の横顔が浮かんでは消える。

 あの湖のベンチで見た、少しだけ薄くなった輪郭。

 そして、その陰に立っている“誰か”の気配。


 まだ名前も知らないその影が、私の明日にもゆっくり影を落とし始めている。


 怖くないと言えば嘘になる。

 でも、引き返したいかと言われたら、もうはっきりと「違う」と答えられた。


 それが正しい選択かどうかなんて、きっと誰にも分からない。

 ただ、灯に触れた夜から続いているこの小さな揺れだけは、私のものだ。


 静まり返った部屋の中で、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。

 そのリズムに重なるように、湖畔で飲み込んだ一言が、また喉の奥までせり上がってくる。


 ――結さんを一人にはしたくない。


 声にはならなかったその言葉が、内側で小さく灯る。


 それはまだ、灯りというより、影に近い。

 けれど、確かにそこに存在していた。


 そして、その形のない灯が、この先の私の道を静かに変えていくのだと、予感だけがはっきりしていた。

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