第十話 監視者・香澄
玲子とカフェで別れた翌朝、通勤電車の窓に映る自分の顔を見て、少しだけ違和感を覚えた。
以前より表情が穏やかだ。
それは悪い変化ではないはずなのに、鏡の中の他人を見ているような奇妙な感覚があった。
仕事自体はいつも通りだ。
メールを返し、資料をまとめ、ミスのないように淡々と過ごす。
ただ、一日のどこかでふっと、胸の奥が温かくなったり、逆にひやりと冷めたりする瞬間が増えた。
玲子の笑顔と、涙と、直也の声。
あの夜の光景が、ときどきふいに脳裏に浮かぶ。
《あれは、生きている私たちのほうを変える出来事だったんだ。》
そんな気づきが、日常の隙間にそっと入り込んでいる。
それでも、会社を出れば、街はいつもと変わらない。
駅前のコンビニでは新作スイーツのポップが並び、学生たちの笑い声が階段を駆け上がっていく。
世界の大半は、死者と再び向き合える場所のことなんて知らずに回っている。
私はそれを少しだけ遠くから眺めているような気持ちで、改札を抜けた。
◇
その日、残業が少し長引いた。
外へ出ると、空はすっかり夜色になっていた。
駅へ向かう道を歩いていると、背筋にほんの小さな違和感が走る。
後ろから誰かに見られているような。
しかし実際に振り返っても、そこには会社帰りの人々が数人いるだけだ。
気のせいか、と前を向き直る。
しばらく歩いたところで、また同じ感覚が背中に触れた。
ひとり分だけ、空気の重さが違う。
そう思ってしまうような、ささやかな異物感。
早足になりかけたところで、横から静かな声がした。
「佐倉美羽さん、ですよね。」
名前を呼ばれ、足が止まる。
振り向くと、街灯の下にひとりの女性が立っていた。
すっきりとした黒髪を後ろで束ね、落ち着いた色のコートを着ている。
年齢は三十代前半くらいに見えた。
目元は優しげなのに、どこか温度を測りかねる印象がある。
「突然すみません。灯守協会の者です。」
協会、という単語に思わず肩がこわばる。
結が所属していると言っていたところだ。
「あの……何か、ありましたか?」
必要以上に警戒しているように見えないよう、声の高さを少しだけ整える。
女性は控えめに会釈をした。
「私は香澄と申します。香るに澄む、と書きます。
少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
その口調は丁寧で、笑顔も崩れてはいない。
けれど、目だけは私の表情や呼吸の速さを細かく観察しているようだった。
「ここだと落ち着かないかもしれませんね。
まだ開いているカフェが近くにあったはずです。少しお話ししませんか。」
断る理由を探したが、「協会」という単語が喉の奥で引っかかって、うまく言葉にならない。
結の顔が頭をよぎる。
「……分かりました。少しだけなら。」
そう答えると、香澄は「ありがとうございます」と静かに微笑んだ。
その笑みはよくできた印刷物のように、端正で揺れがなかった。
◇
カフェは駅から少し離れた場所にあった。
チェーン店ではなく、小さな個人経営の店らしい。
木の扉を開けると、ほのかなコーヒーの匂いが漂ってくる。
時間が遅いこともあり、客はほとんどいなかった。
私たちは窓際の席に向かい合って座った。
「お好きなものをどうぞ。こちらで持ちます。」
「じゃあ……カフェオレで。」
注文を終えると、香澄はテーブルの上に細い手帳とペンをそっと置いた。
ただのメモに見えたが、どこか医療カルテのような印象を受ける。
「まずは、協会の人間が直接お伺いすることになってしまったこと、お詫びします。
本来であれば、灯守とのやりとりだけで完結するべきなのですが……。」
香澄の声は穏やかだ。
しかし、その言葉の中には、きちんとした線が引かれている。
「先日、森下玲子さんの事例について報告が上がりました。」
「玲子さんの……。」
「はい。彼女が再会に至るまでの経緯、その場に立ち会った方の情報も含めて。」
“立ち会った方”。
それが私のことだと、すぐにわかった。
香澄はペンを指で弄びながら、続けた。
「佐倉さんは、以前にご自身の再会を経験されていますね。
そして今回は、依頼者の傍に立つ形で関わられた。」
「そう……ですね。」
どう説明していいのか分からず、曖昧な返事になる。
「あの日、玲子さんの横にいるとき、どんなお気持ちでしたか。」
質問は柔らかい。
でも、その奥で何かを測っている感覚があった。
「怖くないと言えば嘘になります。
でも……玲子さんがひとりであそこへ行くほうが、もっと怖いと思ったので。」
「なるほど。」
香澄は短く頷き、手帳に何かを書きつける。
カフェの静けさに、ペン先のかすかな音だけが溶け込んだ。
「ご自身が再会に臨んだときと、玲子さんに付き添ったとき。
その二つの体験は、佐倉さんの中でどう違いましたか。」
問いは次第に深くなっていく。
私は少しだけ時間をもらうように、カップに口をつけた。
父と会った夜。
玲子と直也が別れを交わした夜。
「一度目は……自分のことで精一杯でした。
父に会えるかどうか、そればかり考えていて。
正直、周りのことを見ている余裕はなかったと思います。」
「でしょうね。」
「でも、この前は……玲子さんのことばかり見ていました。
彼女が倒れないようにとか、言葉を失ったときに隣に立っていられるようにとか。
不思議なんですけど、自分の感情よりも、彼女のほうが心配でした。」
答えながら、自分でもそのことを改めて理解する。
その視点の変化が、何を意味しているのかまでは分からないけれど。
香澄は目を細め、手帳に線を引いた。
「怖さの質が変わった、ということですね。」
「……そうかもしれません。」
「最初は“自分の喪失”に向き合う恐怖。
二度目は“他人の喪失”に寄り添う怖さ。」
さらりと言われ、言葉に詰まりそうになる。
その通りだと思ったからだ。
「失礼ながら。」
香澄はペンを置き、指を組んだ。
「灯の場に二度も立つ方は多くありません。
一度経験すれば、二度と近づきたくないと感じる方がほとんどです。」
「……私も、最初はそう思っていました。」
「けれど佐倉さんは、再びそこへ足を運び、他者のためにそこに立った。」
香澄の眼差しが、ほんの少しだけ鋭さを帯びた気がした。
「そこに、特別な適性を感じます。」
「適性……?」
聞き返すと、彼女は一拍置いてから言葉を選ぶように続けた。
「灯の場に立ったとき、心がどちら側へ傾くか、という意味です。
“会いたい人への渇き”に吞まれるのか、
“いま隣にいる人”を支えるほうへ重心が移るのか。」
その分け方は、少しだけ残酷にも聞こえた。
「佐倉さんは、後者の資質がとても強い。」
香澄は断定するように言った。
「だからこそ、協会としては、慎重に見ておく必要があるのです。」
その言葉に、胸の奥がざわりと揺れる。
「……見ておく、というのは?」
「今すぐ何かをしていただくわけではありません。」
香澄は、さらりと言った。
「ただ、灯の場に何度も関わろうとする方というのは、
良くも悪くも、こちらの世界に近づいていく傾向があります。」
こちらの世界、という言い方に寒気がした。
けれど、彼女自体は少しも怖い声を出していない。
「どうか気をつけてください。
灯というのは、慰めになると同時に、人を縛る力にもなりうるので。」
それは警告のようでもあり、本心からの心配のようでもあった。
何と返せばいいのか分からず、私は曖昧にうなずいた。
◇
カフェを出るころには、駅前の人影はさらにまばらになっていた。
終電にはまだ早いが、夜の空気はひんやりしている。
「今日はありがとうございました。
また何かあれば、こちらからご連絡させていただきます。」
香澄はそう言って名刺を差し出した。
白地に青い文字で「灯守協会」の名前と、彼女のフルネームが印字されている。
「何もないのが、一番いいのですが。」
付け足すようにそう言って、彼女は軽く頭を下げた。
別れの挨拶を交わし、私は駅へ向かって歩き出す。
背中に残る視線はない。
それでも、さっきまでとは少し違う風が吹いているように感じた。
家に着き、コートを掛け、名刺をテーブルの上に置く。
白い紙が部屋の明かりを淡く反射する。
そのとき、胸のあたりでまた、あの小さな揺らぎを感じた。
──ちり、と、何かが鳴った気がした。
耳を澄ませても、外は静かだ。
冷蔵庫のモーター音と、壁の時計の刻む音だけが聞こえる。
なのに、胸の内側で、微かな振動のようなものが続いていた。
水面の下で、生まれかけの光が小さく跳ねているみたいな感覚。
「……大丈夫、大丈夫。」
自分にそう言い聞かせ、ソファに腰を下ろす。
結の顔が浮かぶ。
あの静かな目。
ランタンを掲げていた手の温度。
あの人が、寿命を削ってまであの場所に立ち続けていること。
香澄の言葉が頭の中で反芻される。
──灯の場に何度も関わろうとする方というのは、こちらの世界に近づいていく。
「こちらの世界」とは、どこを指すのだろう。
死者と生者の境界線の上か、それとも、そのもっと奥か。
考えれば考えるほど、胸のあたりの揺らぎは大きくなっていく。
でも、それがただの不安だけではないことも、なんとなく分かっていた。
そこには恐れと同じくらい、引き寄せられるような感覚も混じっている。
私はそっと名刺に触れ、文字を指先でなぞった。
灯守協会。
結が属している場所。
そして今、私がうっすらと線で結ばれ始めている場所。
胸の中の小さな揺らぎは、まだ言葉を持たないまま、静かにそこに居座り続けていた。
◇
一方その頃、街から少し離れたビルの一室で、香澄は電話を耳に当てていた。
「……はい。報告いたします。
佐倉美羽。再会経験者。依頼者同行歴あり。」
淡々とした声で、先ほど交わした言葉をかいつまんで伝えていく。
「灯との反応値は、想定以上でした。
依存の兆候は薄いですが、共鳴の度合いが高い。
今後も経過観察が必要かと。」
電話の向こうから、低い声が何かを告げる。
香澄は短く「承知しました」と答えた。
「……はい。
結の状態は、依然として危険域です。
次世代候補として、彼女の名字はすでにリストに上がっています。」
静かな室内で、ペンが紙をなぞる音が一度だけ響いた。
「佐倉美羽。適性……"高"」
小さくそう記して、香澄は手帳を閉じた。
窓の外には、凪いだ夜の街が広がっている。
静かな闇の底で、名もない線がゆっくりと結ばれていく。
その先がどこへ続くのかさえ、今はまだ誰も知らなかった。




