桜とたまごサンド 前編
邪馬台国の山々が、柔らかな薄紅色の霞に包まれる、桜の季節である。
その日、朔の元に、女王・卑弥呼からの勅命が下された。
それは、厨房を再び緊張させる、しかしどこか心躍る内容だった。
「女王陛下は、明日、山桜を見に、一日だけの行幸にお出ましになる。昼餉の支度はサクに一任する。条件は二つ。常とは趣向を変えた、風変わりなものであること。そして、野外で食すにたやすいものであること」
そこまでならば、朔にとっては想定の範囲内だった。だが、命令はこう続いたのだ。
「……なお、サク本人も供奉せよ、と」
朔はまた軽いめまいを覚えた。
隣にいたユズリハも、ひそかに苦笑する。
料理人が、女王の私的な遠出に直接お供をする。
それは彼の「特別」な立場を改めて示す、異例の待遇。
厨房の他の料理人たちは、もはや嫉妬の色を見せることもなく、ただ遠巻きに、畏敬の念をもってその命令を聞いていた。
(とりあえず、何を作るか考えないとな)
朔は思考を巡らせる。
花見。そして、外で食べる弁当……。
朔の脳裏に、かつての世界の、懐かしい記憶が蘇った。
(今はいろんな新しい素材が手に入っている)
彼が石鹸の対価として手に入れた家畜たち――鶏、豚、牛。
それらは、朔がクラフト能力で築いた「祝福された家畜小屋」の中で、驚くべき速さで成長し、繁殖を始めていた。
特に鶏舎では、毎日、艶やかで滋養に満ちた卵が、安定して産み落とされている。
そして、もう一つ。
彼が水車を動力源として完成させた「朔式回転石臼装置」から生み出される、小麦粉。
さらに朔は、日々ひそかに落ち葉やキノコ、花弁などから野生酵母の培養を繰り返していた。
生地の発酵をより安定させ、より豊かな風味を生み出すエリート酵母を探し続け、今、素晴らしいとまでは言えないが、10段階評価で6くらいはつけられる程度のパンらしきものが作れるようにまでなっていた。
よし、今回はあれで行こう。
品目を決めた朔は、自身の工房に行って素材の準備を始めるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
当日の早朝、朔は厨房で、一人、黙々と調理を始めた。
他の料理人たちは、彼が何を作るのか、遠巻きに、しかし食い入るように見つめている。
ユズリハだけが、変わらぬ冷静さで、彼のすぐ傍らに控えていた。
まず朔は、自身が持つ今一番の酵母『弥生エリートα』で二次発酵まで終えたパン生地を土鍋から取り出した。
それは空気をたっぷりと含み、指で押すと、ふわりと押し返してくるような、驚くほどの弾力を持っていた。
彼は、それを分割し、丸め、自らが粘土と鉄で作り上げたパン焼き窯の中へと、滑り込ませた。
窯の中で、生地はさらに膨らみ、やがて、厨房には、穀物の甘い香りと、酵母が生み出す芳醇な香りが、複雑に絡み合った、極上の香りが満ち始めた。
「なんだ、この香りは……」
「なんていいにおいなんだ」
料理人たちから、驚きの声が上がる。
焼きあがったパンは、外皮は薄くパリッとしており、内側は、驚くほど白く、そして、指でつまむと、綿のように柔らかかった。
それは、弥生時代のパンとは思えぬレベルであった。
パンを冷ましている間に、続けて主役となる具材の準備である。
彼は、鶏舎から届けられたばかりのまだ温かい卵を、たっぷりと茹で上げた。そして、その茹で卵の殻を剥き、木の器に入れて、匙の背で丁寧に潰していく。
そこへ、彼が生み出した『弥生マヨネーズ』を加える。卵黄とクルミ油、果実酢から作られた、濃厚でクリーミーな黄金色のソース。
それを、潰した卵にふんわりと和えていく。
朔が作り上げた純白の塩と、「からし」で繊細に味を調える。
これが絶妙な隠し味となり、『タマゴサラダ』の味をぐんと鮮烈にするのだ。
「よし」
この時代の誰ひとりとして見たことのない料理の完成である。
そして、もう一つ。
自ら燻製にした猪のバラ肉の塊から、厚めの切り身を数枚切り出すと、熱した鉄板の上で、脂がカリカリになるまでじっくりと焼き上げた。ジュウウウッという音と共に、燻製の香ばしい香りが立ち上る。
朔は焼き上がったパンを、柔らかさを損なわぬよう慎重に切り分けた。
「よし、いくか」
後の作業は現地で行うため、ここまでで準備完了である。
朔はいつもの調理着ではなく、麻の新しい衣を身に纏い、竹籠を手に宮殿の門前へと向かった。
そこには既に、小規模ながらも、厳かな行幸の行列が準備されていた。
◇◆◇◆◇◆◇
卑弥呼を乗せた輿を囲んだ行列は、都から半日ほど歩いた、山の中腹にある見事な山桜の群生地へと向かった。
そこはまるで天上の園のように、淡い薄紅色の花々が、空を覆い尽くすように咲き誇っていた。
風が吹くたびに、桜の花びらがはらはらと雪のように舞い散る。
その幻想的な美しさは、朔がかつての世界で見たどの桜よりも、力強く、野性的で、心を揺さぶるものがあった。
一行が目的地に着くと、屈強な衛兵たちが周囲を固め、侍女たちが最も見晴らしの良い一本の桜の木の下に、色鮮やかな敷物を広げた。
絹であろうか、柔らかそうなその布の上には、既にいくつかの座布団が置かれている。
卑弥呼は、輿からしずしずと降り立つと、まず天を覆う桜を見上げ、深く息を吸い込んだ。
その横顔には、女王としての威厳ではなく、ただ美しいものに心奪われた、一人の女性の穏やかな表情が浮かんでいた。
やがて彼女は、行列の後方に隠れるように控えていた朔を手招きした。
「サクよ。こちらへ」
名指しされた朔は、周囲の臣下たちの驚きと困惑の視線を感じながら、女王の前へと進み出た。
彼が片膝をつこうとすると、卑弥呼はそれを手で制した。
「良い。今日は堅苦しいことは抜きだ」
彼女は、自らが座る座布団のすぐ隣を、白い指で示した。
「ここに座るが良い」
ユズリハが、ハッとした。
そのあまりに破格の命令に、朔だけでなく、その場にいたタケヒコや臣下たちまでもが驚きを隠せない。
女王の隣に、たとえいっときとはいえ、一介の臣下、しかも出自不明の料理人が座るなど、前代未聞のことだった。




