骨付きバラ肉煮込み 後編
「第二位、サク。前へ」
朔は一つの大きな、素焼きの皿を捧げ持ち、静かに進み出た。
彼の背後からは、ユズリハの、静かな、しかし確かな視線が注がれている。
「………」
卑弥呼が絶句する。
皿の上に乗っていたのは、ひどく無骨なものだった。
黒々と、しかし艶やかに輝く、骨付きの巨大な肉の塊が三切れ。
飾り付けも、美しいソースもない。
そこから立ち上る匂いに、香草や木の実の華やかさもない。
ただ、圧倒的な存在感を放つ、肉の塊。
「こちらは『猪骨付き肉の煮込み』になります」
広間に、困惑の囁きが広がった。
卑弥呼の後ろに控えるタケヒコも、眉をひそめた。
「せっかくの肉を、焼かずに煮込んだだと?」
「骨までついたままだ。なんと野蛮な……」
あたりがざわつく。
「……サク。それは猪のどの部位だ」
卑弥呼の声には、諦めの色が混じっていた。
「肋骨周りになります」
「肋骨周り……? 食べたことがないが」
「いやはや、そうでございましょう!」
近くで見ていたオシヒトが、突然高笑いした。
「肋骨周りは筋が多く、硬くて食べられませぬ。……おい、サク! よりにもよって捨てる部位を、しかも焼かずに茹でただと? そんなものを女王陛下に献上するとは!」
オシヒトが朔を指さし、ここぞとばかりに非難を浴びせる。
しかし朔は動じなかった。
「いえ。これこそ、猪肉の頂点のひとつと私は思います」
「………」
シーン、と静まり返る。
誰もが朔のその言葉をまともに受け取っていなかった。
ただユズリハだけが、朔をまっすぐに信じた視線を送っている。
「サクよ」
卑弥呼はオシヒトをちらりと見て、朔に視線を戻した。
「今回ばかりは、そなたも奇をてらいすぎたのではないか? 猪肉は焼くものぞ」
卑弥呼はオシヒトの言葉を引き継ぐように、言った。
「肉は焼くことで焼色と同時に香ばしさがつく。それが猪肉のクセと厄介な臭みに対抗できる、唯一の手段。茹でることでは決して消えぬ」
卑弥呼は朔の献上する料理に視線を落とす。
「なにより、焼色の美しさと香ばしさこそ、肉料理の醍醐味。それがない肉が勝ることなど、ありえぬ」
しかし朔は平然とした顔で、引き下がらない。
「煮込んだ肉も、悪くないですよ」
はんっ、とオシヒトが鼻で笑った。
「馬鹿め! だいたいそんな部位で、硬い筋はどうするのだ! 大方、背肉やヒレを他人に取られて、苦し紛れに肋骨周りなどと――」
「はて……硬い、筋、ですか?」
朔は言いながら、卑弥呼の前にあるテーブルに皿を置き、自ら鍛えた、鋭い鉄のナイフと、木のフォークを取り出す。
そしてその肉塊の骨の際に、すっと刃を入れた。
「………!」
瞬間、その場にいた誰もが、息を呑んだ。
ナイフは、何の抵抗もなく、まるで熱した刃がバターを切るかのように、肉の中へと、滑るように沈んでいったのだ。
硬いはずの、筋張ったはずの骨周りの肉が、信じがたいほどに抵抗しない。
「……これでもまだ硬いと?」
骨と肉身が、するり、と、あまりにも簡単に分離していた。
「……なん……だと」
オシヒトが口を開けたまま、顔面蒼白になる。
そして、朔がナイフを引き抜くと、切り口から、肉汁が滝のように溢れ出した。
「……おお……」
卑弥呼が嘆息を漏らす。
それは、ただの肉汁ではない。
骨髄から溶け出したうま味と、肉自体のエキス、そして、共に煮込まれた香味野菜の風味が、二十時間以上かけて凝縮された、黄金色のエッセンスだった。
朔は、その肉汁が滴る一片を、小さな皿に取り分け、卑弥呼の前に差し出した。
「陛下。私を信じてください」
朔が自信に満ちた顔で、微笑む。
「……サク……そなた、まさか」
「さぁどうぞ。まずは何もつけずに、そのまま」
「……むう……」
卑弥呼は半信半疑のまま、しかしその一片を、小さな木のフォークで刺すと、朔を信じて口へと運んだ。
もぐ……。
わずかに口を動かした、刹那。
卑弥呼の目が、カッと見開かれた。
「……な……」
なんだ、これは……!?
歯が、必要ない。
舌と、上顎だけでほろり、と、驚くほど簡単に、肉の繊維が解けていく。
これは柔らかいどころではない。
もはや、溶けている。
「ど、どうして……!?」
卑弥呼は、口の中のものが信じられない。
言うまでもなく、肉の硬さの正体は、コラーゲンという名の強靭な結合組織である。
しかし、そのコラーゲンは『液体中で特定の温度帯で長時間加熱される』ことによって、ゼラチンという、口の中でとろける、全く別の滑らかな物質へと変化するのだ。
さらにその肉は、ただ柔らかいだけではなかった。
「臭みもない……いや、なんだ、このうま味は……!」
口の中に広がるのは、怒涛のうま味。
長時間、『骨』と共に煮込まれたことで、そのうま味は何倍にも増幅され、深みを増しているのだ。
そう、臭みやクセを消し去るほどに。
そして、その濃厚なうま味を、共に煮込まれた野蒜と生姜の、爽やかな香りが絶妙なバランスで引き締めている。
後味には、微かな酒の香りが、鼻腔をくすぐった。
「馬鹿な……うま味の嵐で、臭みを消し飛ばすとは……」
卑弥呼は、言葉を失っていた。
柔らかい。しかし、力強い。
優しい。しかし、野性的。
相反する要素が、一つの皿の上で、奇跡的なまでの完璧な調和を保っている。
(そうか、サクはそれで骨とともに煮て……)
彼女はただ目を閉じ、その、生まれて初めて体験する、味覚の深淵に魂ごと沈んでいくのを感じていた。
「陛下」
彼女が、その感動の余韻に浸っていると、朔がもう一つの小さな器をそっと差し出した。
中には、黄金色のねっとりとしたソースが入っている。
「次はこちらをほんの少しだけ肉につけて、食べてみてください。『からし』といいまして、この料理のもう一つの顔になります」
「ほう」
卑弥呼は言われるがままに、フォークで新たな肉片を刺すと、その先に、その黄金色の練り物をほんの少量だけちょん、とつけた。
そして再び、口へと運ぶ。
「むお!?」
瞬間、彼女の瞳が、さらに大きく見開かれた。
先程までの、深く滋味深い味わいが、口の中で爆発していた。
いや、爆発したのは、味ではない。香りと刺激である。
舌に触れた瞬間、ツーーーン! と、脳天を突き抜けるような、強烈で、鮮烈な刺激。
それは、山椒の痺れる辛さとも、生姜の持続する辛さとも、全く違う。
鼻腔の奥を一瞬で駆け抜け、一瞬で消えていく、鮮やかな辛味。
その衝撃に、卑弥呼は、思わず目を閉じ、涙が滲んだ。
だが、次の瞬間。
その辛味が消え去った後、舌の上で何が起こったか。
先程まで感じていた、猪の濃厚な「脂」の甘みと、「肉」のうま味が、信じられないことに、より一層、鮮明に、くっきりと、浮かび上がってきたのだ。
山椒でも生姜でもない、この第三の辛味が、濃厚な肉の脂をまるで洗い流すかのように、完璧に断ち切っている。
脂のしつこさが消え、肉本来のうま味と煮汁のコクだけが、より純粋な形で、舌の上に取り残される。
「……なんと、いうこと……!」
卑弥呼は、震えていた。
喜びと驚きと、そしてこの男の底知れない才能に対する、畏怖によって。
一つの料理で、まず「うま味の極致」を体験させ、次に、そのうま味を、全く異なる角度から「覚醒」させる。
これは、もはや料理ではない。
――芸術。
「うまい……!」
卑弥呼は皿を抱え、今度は、全ての肉片に、その黄金色の辛子を、少しずつつけながら、次々と口に放り込む。
これだ、これなのだ……!
自分がずっと求めていた、クセや脂のしつこさのない、猪肉の真のうま味を引き出す料理というものは。
「サク! これは美味いぞ! ぴったりの辛味だ」
卑弥呼は、まだ鼻の奥に残る、あの鮮烈な刺激の余韻に、目を丸くしたまま、朔を見た。
「ありがとうございます」
サクは相変わらず微笑んでいる。
「これはいったいなんの辛味だ」
「それは、カラシナの種を、特別な方法で練り上げたもの。このように肉のよい引き立て役にもなります」
周囲がざわりとする。
カラシナ、だと……? とオシヒトが呟く。
「……あの種が、このような見事な辛味を?」
「はい」
カラシナは卑弥呼たちにも馴染み深い植物で、この時代でも一般的に栽培されていた。
しかし、用いられていたのは葉の方で、主に茹でて食されていたため、辛味は失われ、ほうれん草のような味と食感であった。
もちろん、その種など、注目されることはなかった。
「ふむぅ」
まもなくして、卑弥呼に献上した肉はきれいになくなった。
「これは驚いた……サクよ。この肉はまだあるか」
「はい、ありますよ」
「その『からし』とやらも?」
「もちろんです」
「よし♡」
卑弥呼は嬉しそうにユズリハに目で合図した。
ユズリハが承知の意図を伝え、引き下がる。
今回のそれは「後でおかわりを食べるから持ってきて」という意味であった。
「………」
オシヒトは拳を握りしめ、歯噛みしたまま、その光景を見つめていた。
肉の差は甘んじて認めようとも、本当はここで、己のソースが絶賛されるはずだった。
まさか、あのカラシナの種を使うような奇策があろうとは。
いったい何者なのだ、あの男は。
「……さて、もはや言うまでもないな。私の気に入った一品がどれか」
卑弥呼が口元を拭きながら、立ち上がる。
「皆、ご苦労であった。明日の序列を見て結果と知るが良い」
そう言うと、卑弥呼は満足げに私室へと去っていった。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、厨房の壁に掛けられた序列札は、皆が予想した通り、決定的なものであった。
『第一位 朔』
「サクさん、おめでとうございます!」
「さすがです」
料理人衆の数名が、サクの偉業を称える。
真っ青な顔をして棒立ちしているオシヒトには、誰も話しかけなかった。
オシヒトの名は、第二位に、力なく記されていた。




