骨付きバラ肉煮込み 中編
供物比べ前日の夕刻、朔の調理が始まった。
彼はまず、猪の骨付きバラ肉の塊を、扱いやすい大きさに切り分けた。
その表面に、自らが作り上げた純白の塩と、粗挽きにした山椒の実、そして、森で摘んできたヨモギ、セリの根などの香草を、力強く擦り込んだ。
下味、そして臭み消しのためだ。
次に、自らが鍛えたフライパンを、竈の強火で、煙が出るほどに熱した。
そして、そこに、猪自身の背脂から精製した、真っ白なラードを、ひとかけら投入した。
――ジュワアアアッ!
ラードが、瞬時に溶け、香ばしい香りを放ちながら、泡立ち始める。
朔は、そこに、下味をつけた猪肉の塊を、皮目から叩きつけるように投入した。
バチバチバチッ!
凄まじい音と、肉の焼ける香ばしい匂いが厨房全体を支配する。
朔は肉の表面全体に美しい焼き色がつくまで、丁寧に全ての面を焼き固めていった。
これは肉汁を内部に閉じ込め、そして何よりも料理に香ばしさとコクを与えるための重要な工程、メイラード反応である。
肉を焼き終えた鉄板の上には、肉から溶け出した脂と、焦げ付いたうま味が残っている。
朔はそこに、刻んだ野生ネギである野蒜の球根、数種類のキノコ、そして薄切りにした生姜を投入し、弱火でじっくりと炒め始めた。
野菜の甘みと香りを、丁寧に引き出していく。
野菜がしんなりとしたところで、朔は、自身が種麹を使って作っていたどぶろくを勢いよく注ぎ入れた。
ジュワッ!と音を立てて蒸気が上がり、鍋底にこびりついたうま味を、こそげ取るように混ぜ合わせる。
アルコールが飛び、芳醇な香りが立ったところに、朔が得意とする、猪骨と魚骨を合わせて取った、濃厚な骨の出汁をたっぷりと注ぎ入れた。
そして、焼き固めた猪肉をその煮汁の中へと戻し入れる。
最後に、彼が育てている若い「醤」を少量と、森で採取した香りの強い木の皮をローリエの代わりに数枚加えた。
朔はその全てを、先程作り上げた粘土の「理の鼎」の中へと移し替えた。
そして重い粘土の蓋を、鼎にぴたりと嵌め込む。
さらに、蓋と鼎の隙間を水で練った小麦粉の生地で、まるで封印するかのように、完全に塞いだ。
これで、内部は、完全な密閉空間となった。
朔は、その封印された鼎を、厨房で最も大きな炉の、その最も火力が弱い、熾火だけが残る灰の中へと、深く深く埋めた。
焼き芋の時と同じ、一定温度での調理である。
目指す温度は、決して沸騰しない絶妙な温度帯、摂氏七十度から八十度。
朔はその温度を、灰の量と熾火の位置で、まるで生き物でも扱うかのように、繊細にコントロールし始めた。
「サク、それは……?」
近くで控えていたユズリハが、その奇妙な光景に、思わず問いかけた。鼎を、灰の中に埋めてしまうのは、ユズリハから見るととてつもなく違和感があった。
「これは一定の温度で調理するためなんだ」
朔は灰を見つめながら、静かに答えた。
「明日の昼まで、このまま眠らせる」
彼は一晩中ただひたすらに、炉の火を管理し、灰の中の温度を一定に保ち続けた。
厨房には、他の料理人たちの慌ただしい準備の音とは対照的に、朔の周りだけ時間が止まったかのような、静謐な空気が流れていた。
◇◆◇◆◇◆◇
昼過ぎ、謁見の間で、供物比べの儀式が始まった。
玉座に座す卑弥呼の前へ、今回は位の低い者から順に、自慢の一皿が運ばれていく。
なお、今回は重たい肉料理とのことで、奇数の順位の料理人が昼の部門、偶数の順位の料理人が夜の部門に別れている。
朔の出番は、夜の部門の一番最後となる。
「どうぞご賞味くださいませ」
他の料理人たちも、それぞれの自信作を献上していく。
猪肉を叩いて団子にし、出汁で煮含めたもの。
薄切りにした肉を、珍しい果実と共に蒸し上げたもの。
どれもが技術の粋を凝らし、猪肉という個性の強い素材をいかに柔らかく、食べやすくするかという点に腐心した、素晴らしい料理だった。
だが、卑弥呼の反応は、穏やかなものだった。
言葉で感嘆はすれど、魂を揺さぶられるほどの衝撃は、決してなかった。
「第一位、オシヒト。『猪背肉の香草焼き、木の実のソース添え』にございます」
オシヒトが捧げたのは、最高級の猪の背肉を、完璧な火入れで焼き上げ、数種類の木の実をすり潰して作った、濃厚なソースを添えた、まさに王道にして、豪華絢爛な一品だった。
肉は柔らかく、ソースは複雑。
卑弥呼は、それを一口味わい、満足げに頷いた。
「見事だ。肉の柔らかさと、そなたのソースの繊細さが、よく調和している」
オシヒトは、今度こそ勝利を確信し、誇らしげに胸を張った。
どうだ、という顔で朔を見る。
(くく……この木の実ソースにはかなうまい。誰にも教えていない俺の最強レシピだからな)
だが朔はその視線に気づいてすらいなかった。
一旦終了となり、夕餉の時間になって、再び供物比べが再開される。
偶数の位の料理人たちによる献上である。
「気に入って頂けると確信しております」
夜の部門は意識的にずっしりとした、各人とっておきの肉料理が続く。
それだけにいずれもロース、もしくはヒレ肉を用いた料理ばかりだった。
「うむ。美味だな」
卑弥呼は顔には出さず、一口ずつ味わい、すぐに箸を置く。
彼らが肉の柔らかさに腐心しているのは、口にしていてよくわかる。
しかし柔らかさは好ましくとも、臭みと、猪肉自体が持つ特有のクセが後味として残ってしまっており、口の中で尾を引く。
猪肉だからと諦める部分なのかもしれないが、卑弥呼はそれがどうしても気になってしまっていた。
ソースでぼかそうとしている者もいたが、消しきれないだけでなく、ソースがしつこくなって余計にうるさい。
猪肉の個性を好ましい形に昇華できている一品は、ひとつもなかった。
(料理人衆の料理でさえこうなのだ。これが猪肉料理の限界ということか……)
卑弥呼は自分が期待しすぎてしまっていたことを悟る。
残るは最後の一人、朔の番となった。
「第二位、サク。前へ」
朔は、一つの大きな、素焼きの皿を捧げ持ち、静かに進み出た。
彼の背後からは、ユズリハの、静かな、しかし確かな視線が注がれている。
「………」
卑弥呼が絶句する。
皿の上に乗っていたのは、ひどく無骨なものだった。




