骨付きバラ肉煮込み 前編
三国の王たちが「清浄の知恵(石鹸)」を手に、それぞれの国へと帰っていった後、宮殿の北側には、かつてない活気が満ちていた。
そこには、朔が設計し、彼のクラフト能力によって驚異的な速度と精度で築き上げられた、三棟の新しい建造物が並び立っていた。
鶏舎、豚舎、そして牛舎。
それらは、単なる動物を囲うための小屋ではなかった。
陽光を柔らかく取り込み、常に新鮮な空気が循環し、病の原因となる湿気や穢れを寄せ付けないよう、朔の知識と能力の粋を集めて作られた、まさに「生命を育むための家」だった。
木材の組み方一つ、土壁の塗り方一つ取っても、当時の常識では考えられないほどの精度と工夫が凝らされており、見る者が見れば、それが単なる職人技ではない、異質な力の産物であることが分かった。
そしてその新しい家に、約束された「三宝」が、次々と迎え入れられた。
家畜の変化は、すぐに現れ始めた。
そしてそれは、朔の予想を超える驚異的なものだった。
なかでも、鶏舎である。
通常であれば、新しい環境に移された鶏は、しばらく卵を産まなくなることが多い。
だが、朔の鶏舎の雌鶏たちは、移されてわずか数日後には、次々と艶やかな卵を産み始めたのだ。それも、毎日欠かさず。
しかも、その卵は出雲で産んでいたものよりも、明らかに一回り大きく、黄身の色はまるで夕陽のように濃厚だった。
「サク殿……! ご覧ください! 今朝も、これだけの卵が……! まるで、神々からの贈り物のようです!」
飼育係の若い男が、興奮した様子で、籠いっぱいの卵を朔に見せに来るのが、日課となった。
さらに驚くべきは、その卵から孵った雛たちの成長速度。
通常なら、か弱い雛が、一人前の鶏になるまでには、数ヶ月を要する。
だが、朔の鶏舎の雛たちは、まるで早送りで見ているかのように、ぐんぐんと大きくなっていく。羽は艶やかで、病気一つせず、その成長速度は、通常の倍以上に感じられた。
「まだ食用にはしない」
朔はタケヒコに訊ねられて、そう答えた。
「それよりも国内に養鶏場をつくりたい」
豚、牛に比して鶏の成長が圧倒的に早いことに気づいた朔は、養鶏場を営んでくれそうな貴族を早々に探してもらい、この場で世話の仕方を学んでもらうよう、タケヒコに頼んだ。
彼らが独立して養鶏場を営んでくれれば、民に卵や鶏肉が出回るようになるのも、時間の問題だ。
そうすれば、安価で高栄養である卵を、民のもとへ届けることができよう。
カイナ村で見たような子供たちを減らせるのは間違いない。
牛や豚も、ある程度数が増えてきたら、同じように民営に委託する。
それまでは去勢もせず、丁寧に育んで数を増やしていこう。
そんなやり方でも、ミルクは相当量得られるはずだ。
……が、この時代の人は、牛の乳を飲めと言われると、相当心理的に抵抗があるようだ。
まあ最初は子供にだけ配ってもいいし、飲めなそうなら遠慮なくバターにしてもいいか。
◇◆◇◆◇◆◇
春がやってくる頃には、朔の創り出した塩が、邪馬台国の隅々まで潤し、民の暮らしをよりよきものに変え始めた。
塩の国家間売買で黒字化し始めたことで、減税政策も開始となり、民の王国支持率は今やうなぎ登りである。
そんな、柔らかな日差しが宮殿の庭を照らす、ある日の昼下がり。
再び、女王・卑弥弥呼より、十五料理人衆へのお達しが下された。
それは、料理人たちがそろそろであろうと予期していた、序列を賭けた供物比べの開催を告げるものだった。
「女王陛下より、お達しである!」
侍女の、張りのある声が厨房内に響く。
「二日後、春の狩りの豊猟を祝い、料理人衆の腕を競わせる供物比べを執り行う! 今回のお題は、『猪肉』そのものである」
そのあまりに王道で、しかし奥深いお題に、厨房の空気が一気に引き締まった。
「部位の選定、調理法は一切問わぬ。己が持つ最高の技と感性をもって、女王陛下を最も満足させる一皿を作り上げよ」
その言葉に、オシヒトの目に鋭い光が宿った。
魚料理では、あの異邦人の奇策に敗れた。
だが、猪肉ならば話は別だ。
これこそ、我ら邪馬台国の民が、古来よりその扱いを極めてきた、魂の食材。
このオシヒトが最高の部位である背肉を使い、伝統の技で完璧に焼き上げれば、他の追随など断じて許さぬ。
今度こそ、筆頭の実力を見せつける。
彼の全身から、静かだが、燃えるような闘志が立ち上っていた。
他の料理人たちも、色めき立った。
猪肉料理は、彼らにとっても最も得意とするところなのだ。
誰にも、序列を覆す機会がある。
ある者は、希少な香草を使った蒸し物を考え、ある者は、手間暇かけた干し肉料理を思い描いた。
厨房は再び、目に見えぬ火花が散る、熱い戦場へと変わった。
朔は、その喧騒の中心で一人、静かに思考を巡らせていた。
猪肉。
力強く、野趣に富み、滋味深い。
だが同時に、硬く、筋が多く、独特の獣臭さを持つ。
それを2日で、いかにして最高の味へと昇華させるか。
他の者たちはきっと、最も柔らかいとされる背肉やヒレ肉を選び、それを、さらに柔らかく見せるための技を凝らすだろう。
だがそれでは、猪が持つ味の力強さを殺してしまうことになりかねない。
朔の脳裏に、かつての世界で学んだ、食肉科学の知識が蘇った。
猪肉の本質。それは、その味の「力強さ」にある。
その力強さを、柔らかさと、どう両立させるか。
そして、卑弥呼という、この国の誰よりも鋭敏な味覚を持つ女王を満たすには、何が必要か。
ただ柔らかいだけではだめだ。
ニンニクは今回非常に好ましい薬味となるが、手に入れたばかりだから、可能な限り栽培に回したいところだ。
使えば、圧勝間違いなしだろうが……それでもあの部位なら、使わずとも……。
朔の目が、厨房の隅に吊るされていた、一頭分の猪の枝肉に向けられた。
ロースもヒレも持ち去られ、在庫無しだが、朔は違う部位の肉を掴んだ。
彼が選んだのは、骨に最も近い部分、『骨付きのバラ肉』だった。
そこは肉と脂が層をなしているものの、筋が多く、最も硬いとされる。
王宮料理人からは見向きもされない部位でもある。
だが同時に、骨から溶け出す髄のうま味と、濃厚な肉の味が、最も凝縮されている場所。
味の力強さなら、ここが頼もしい。
この『骨付きのバラ肉』でいくなら、必然的に料理の仕方はひとつになる。
(やってみるか)
朔の心は、決まった。
◇◆◇◆◇◆◇
供物比べ前日の今日、朔は厨房の片隅で、料理をしていなかった。
他の料理人たちが、最高の背肉を確保し、それを飾り切りにしたり、秘伝のタレに漬け込んだりしているのを横目に、朔は粘土と格闘していた。
作っていたのは「甕」だった。
ただの甕ではない。
朔が持ち込んだ猪の骨付きバラ肉の塊がぴったりと収まる大きさの、分厚い粘土の塊。
そしてその甕には、隙間なくぴたりと閉まる、同じく粘土で作られた重い蓋が用意されていた。
これは現代でいうところの「ダッチオーブン」や「土鍋」の原型。
熱を内部に均一に伝え、そして、食材から出る水分(うま味)を一滴たりとも逃さないための、完璧な密閉容器、「理の鼎」だった。
それは彼のクラフト能力によって、驚くほどの精度と強度を持つ、特製の調理器具となった。




