切り株の上の焼き菓子
森が白み始め、鳥の声が夜の静寂を破る頃、朔は目を覚ました。がばり、と起き、桶の水でじゃぶじゃぶと顔を洗う。
(……ちゃんと食べれてないんだろうな)
昨日の光景を思い出す。
あの村の子供達だろう。
気づくと、家のすぐ外までやって来ていた。
居る、ということよりも、そのあまりに痩せ細った姿に驚いた。
典型的な栄養失調の姿だ。
育ち盛りなのに、なにもかもが足りてない。
朔は厨房に立った。
また彼らが来た時のために、何か渡せるものを用意しておこう。
こればかりは一料理人、いや人間として、放っておけない。
どうせ家のことばかりだと飽きるしな。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の昼過ぎ、朔が家の壁を補修する作業をしていると、また森からの視線を感じた。昨日と同じ、茂みの奥で、いくつかの小さな影が揺れている。
(来たか)
決して彼らを驚かせないよう、朔はゆっくりとした動作を心がけた。
まず作業の手を止め、家と森の中間にある大きな切り株の元へ歩み寄る。
そして、朝のうちに焼いておいたとあるものを、大きな木の葉の皿に乗せて、そっと切り株の上に置いた。
朔は、子供たちの方を一瞥し、小さく頷くと、今度は家の戸口まで戻り、子供たちに背を向けて腰を下ろした。
食べていい、自分はここから動かないし、食べても気づかないというアピールだった。
「………」
森の中の沈黙が続いた。
子供たちは、甘い匂いに誘われながらも、朔の真意を測りかねているようだった。
やがて一番年かさの、昨日もいた少年が、おずおずと茂みから姿を現した。
彼は他の仲間たちに目配せすると、まるで獲物に近づく獣のように、一歩一歩、切り株へと近づいていく。
タケルは切り株の上の焼き菓子の匂いを嗅ぎ、指先でつつき、しばらくの間真剣な顔で観察していた。
そして、ちらりと家の戸口に座る朔を見る。
朔はただ背を向けたまま動かない。
少年は意を決したように、その一つを手に取ると、小さな口で、恐る恐るかじった。
「―――!」
その瞬間、少年の目が見開かれた。
驚き、困惑、そして、すぐに抑えきれない喜悦の表情へと変わっていく。
サクッとした歯触りの後に広がる、栗のほっくりとした優しい風味と、濃厚で華やかな謎の甘み。
それは、彼が生まれてこの方、一度も経験したことのない、衝撃的な美味しさだった。
少年は、後ろで固唾を飲んで見守っていた仲間たちを手招きした。
その明るい表情が何よりの安全の証だったのだろう。
他の子供たちが、わっと茂みから飛び出し、切り株の上の焼き菓子に殺到した。
「んまい!」
「なんだこれ! 甘え!」
「もっとねえのか!」
口々に、歓声とも悲鳴ともつかぬ声を上げながら、子供たちは夢中で焼き菓子を頬張った。
その小さな口の周りは、お菓子の粉だらけだ。
朔は、その光景を、ただ微笑みながら見ていた。
ミシュランの星も、美食家たちの賞賛も、今の自分にはない。
だが、目の前で繰り広げられる、この剥き出しの「美味しい」という感情の爆発は、朔の乾いた心を温かいもので満たしてくれていた。
そして同時に、改めて子供たちの姿を直視していた。
陽に焼け、泥に汚れてはいるが、その衣服の下から覗く腕や足は、あまりにも細い。
頬はこけ、腹は低栄養から来る腹水と肝腫大でぽっこり膨らんでいる。
この焼き菓子一つに、これほどまでに夢中になるのは、彼らの日常がいかに飢えと隣り合わせであるかの証明だった。
焼き菓子が全てなくなると、子供たちは名残惜しそうに切り株の周りをうろついていた。
タケルが朔の方へ向き直り、何か言いたそうに口をもぐもぐさせていたが、結局、仲間たちと共に森の中へと帰っていった。
その日を境に、奇妙な交流が始まった。
翌日も、そのまた次の日も、子供たちは同じ時間にやってくる。朔は、毎日違うおやつを用意して、切り株の上に置いた。
栗はもちろん、甘く煮詰めた木の実の皮を乾燥させたもの(フルーツレザー)、完璧な火加減で焼き上げた、香ばしい川魚。
「これ、おいしい」
「この木の実の皮か?」
「うん。もっと食べたいな」
最初は切り株の上で完結していた交流は、次第にその距離を縮めていった。
子供たちは、朔が危険ではないと理解すると、切り株から、家の軒先へ、そしてついには厨房の中へと、自然に入り込んでくるようになった。
朔の、孤独なはずだった厨房は、いつしか村一番の賑やかな場所へと変わっていた。
「これ、なあに?」
「鉄でできたフライパンというものさ」
「じゃあこれは?」
「落とし蓋って言ってね。料理の素材が浮かんでこないように押さえるものだよ」
子供たちは、興味津々で朔の手元を覗き込み、彼の作るもの全てに歓声を上げた。彼らは、朔に自分の名前を教え、村の言葉を教え、森の秘密の遊び場を教えてくれた。
朔は、彼らにただおやつを振る舞うだけでなく、簡単な手伝いをさせたり、食材の名前を教えたりした。
石と木と粘土だけで作られた無機質な空間に、子供たちの笑い声が響き渡る。
朔は、竈の火を調整しながら、その光景に目を細めた。
(人生ってわからないものだ)
朔はひとりで生きるために、この家と厨房を作った。
だがその孤独な砦の扉をいとも簡単にこじ開け、温かい光を持ち込んできてくれたのは、想像もしなかった、小さくて腹を空かせた訪問者たちだった。
朔はもう、孤独ではなかった。
いつの間にか、彼は「森の魔法使い」として、この村の子供たちのかけがえのない友達になっていたのだった。




