対価の三宝 前編
翌朝の厨房。
朔は、卑弥呼の勅命を受け、昨日手に入れたニンニクを、料理人衆に正式に披露するために持ち込んだ。麻袋の口が開かれた瞬間、あの強烈で、土臭く、そして刺激的な匂いが、厨房全体に一気に広がった。
「…うっ!」
「な、なんだ、この匂いは!」
オシヒトをはじめ、繊細な出汁の香りを命とする料理人たちは、あからさまに顔をしかめ、袖や布巾で鼻と口を押さえた。彼らにとって、それは「香り」ではなく、厨房にあるべきではない「悪臭」でしかなかった。
朔は、その反応にも動じず、静かに告げた。
「皆、これが昨日手に入った新しい食材、『ニンニク』だ。我々の料理にも取り入れて試していってほしい。今はここに用意した量だけだが、数カ月後には本格的に使用できる量を生産できると思う」
その言葉に、オシヒトが、耐えかねたように一歩前に出た。
彼の顔は、怒りと嫌悪で赤く染まっていた。
「サク! 貴様、正気で言っているのか!」
その声は、敬語のかけらもない、剥き出しの敵意に満ちていた。
「これは、食材などではない! 獣の臓物が腐ったかのような、下劣な悪臭だ! こんなものは、未来永劫使えたものではない! 陛下の御食事をこのようなもので汚すなど、料理人としての誇りが許さん!」
他の料理人たちも、「こんなものを調理したら、他の食材にまで匂いが移ってしまう!」「鼻が曲がりそうだ!」と、口々に非難の声を上げた。
壁際に控えるユズリハが、その不敬な態度に鋭い視線を彼らに向けたが、料理人たちの生理的な嫌悪感は、それを上回っていた。
朔は、その反応を予想していたかのように、淡々と応じる。
「……今は、そう思うのも無理はないでしょう。だが、どんな素材も用い方次第です。そう毛嫌いせず試してください」
「戯言を!」オシヒトは吐き捨てた。
「俺は、断じて認めんぞ!」
朔は、それ以上は何も言わず、ニンニクの袋の口を閉じると、自らの工房へと持ち帰った。
(やれやれ……)
工房の自分の椅子に腰を下ろし、ため息をつく。
どの世界でも、強烈な個性というのはまず叩かれるらしい。
◇◆◇◆◇◆◇
さて、ニンニクはさておき、石鹸の話である。
朔が発明した「石鹸」の噂は、風に乗る花の種のように、邪馬台国の国境を越え、近隣の国々へと密かに、しかし確実に伝播していった。
それは、旅の商人たちの驚嘆の声や、国境を越える人々の囁きの中で、少しずつ形を変え、いつしか神話めいた響きを帯びるようになっていた。
「邪馬台国には、触れるもの全ての穢れを祓う、白き泡の奇跡がある」と。
「かの国の女王は、天より授かりし賢者の知恵を得て、不浄を滅する力を手に入れたのだ」と。
その、半ば伝説と化した噂に、藁にもすがる思いで耳を傾けた者たちがいた。
彼らはそれぞれの国で、人の力では抗いようのない、深く暗い絶望の淵に立たされていた。
北の国、出雲。
鉄の産地として知られ、屈強な兵士たちが国の誇りである尚武の国。
だが、その誇りは見えざる敵によって、内側から静かに蝕まれ続けていた。戦場で敵の刃を受けても怯まぬはずの勇猛な兵士たちが、訓練中の些細な切り傷や山でのかすり傷が原因で、次々と命を落としていくのだ。
傷口は数日のうちに赤黒く腫れ上がり、膿を持ち、熱を発する。
やがてその腐敗は肉を蝕み、骨にまで達し、どれほど屈強な男であろうとも、苦悶の末に絶命してしまう。
これを「腐敗の呪い」と人々は呼び、恐れた。
王であるオオクニは、歴戦の勇士。
自らの体にも無数の傷跡を持つ彼は、かつての戦友たちが、敵ではなく己の体の内から湧き出る「腐敗」によって倒れていく様を、歯噛みしながら見守るしかなかった。
国の守りである兵士たちが、傷つくことを恐れ、戦意を喪失していく。
それは軍事国家にとって、致命的な弱点だった。
彼はあらゆる神々に祈りを捧げ、国中の薬草師に治療法を探させたが、呪いは解ける気配すらなかった。
西の国、伊都。
大陸との交易で栄え、豊かな港を持つ豊穣の国。
金銀珠玉が溢れ、人々は華やかな暮らしを謳歌しているかに見えた。
だがその繁栄の影には、「子枯れの病」と呼ばれる、深い悲しみが蔓延していた。
それは生まれたばかりの赤子や、ようやく歩き始めたばかりの幼子ばかりを襲う、残酷な病だった。
最初は、肌に現れる小さな赤い発疹。
それがみるみるうちに全身に広がり、やがて激しい下痢が始まる。
小さな体は、あっという間に水分を失い、まるで萎れる若葉のように、その生命の灯火を消してしまうのだ。
王であるイタケルは商人として成功し、国を富ませた抜け目のない男だったが、自らの世継ぎをも、この病で三人失っていた。
国の未来を担うべき子供たちが、次々と失われていく。
それはいかなる富をもってしても、決して埋めることのできぬ、国家の根幹を揺るがす恐怖だった。
彼は大陸から名医を呼び寄せ、高価な薬を試したが、病の原因すら掴めずにいた。
東の国、越。
山々に深く抱かれ、独自の文化と精霊信仰を守り続ける、神秘の国。
だがその静かな暮らしは、「苔むす病」と呼ばれる、奇妙で陰鬱な病によってゆっくりと蝕まれていた。
それはまず手足の指の間や膝の裏など、湿りやすく、擦れやすい場所から始まる。
皮膚が赤くなり、耐え難い痒みと共にじゅくじゅくと爛れていく。
そして、その爛れた皮膚は決して乾くことがない。
まるで湿った倒木に生える苔のように、じっとりと、生気を失った緑がかった色へと変わっていくのだ。
病はゆっくりと、しかし確実に全身に広がり、罹った者の肌は、生きた人間のものとは思えぬ様相を呈していく。
命を直接奪うことは稀だが、その耐え難い痒みと、人を遠ざけさせる醜い見た目は、罹った者の精神を深く蝕み、生きる気力そのものを奪い去ってしまう。
女王ヌナカワは、翡翠のように美しい女性だったが、彼女自身もまた、若い頃にこの病に罹り、今も胸元に残るその苔痕を、常に服で隠していた。
民がその輝きを失っていく様を、彼女は自らの痛みとして感じていた。
三人の王は、それぞれの国で、あらゆる手を尽くした。
神々への祈り、生贄の儀式、秘伝とされる薬草、呪術師の秘術。
だが呪いは解けず、病は広がる一方だった。
そんな絶望の淵で、彼らは、邪馬台国の「白き泡の奇跡」の噂を耳にしたのだ。
それは神々の戯言か、あるいは、天が差しのべた、最後の蜘蛛の糸か。
三国の支配者たちは、国の存亡を賭け、それぞれの威信をかなぐり捨てて、邪馬台国の女王・卑弥呼の元へと、自ら足を運ぶことを決断した。
初春の風が吹き始めたある日。
邪馬台国の宮殿に、三つの国の使節団が、時を同じくして到着した。
出雲の王オオクニは、歴戦の傷跡が刻まれた、岩のような体躯の男。
その眼光は、獲物を狙う猛禽のように鋭い。
伊都の王イタケルは、大陸渡りの、光沢のある絹の衣を纏った、優雅で、しかし抜け目のない商人然とした男。
そして、越の国の女王ヌナカワは、髪に挿した翡翠の飾りが神秘的な光を放つ、静かで、しかし芯の強さを感じさせる女性だった。
「あれは……」
「おお、伊都の……」
「見ろ、越の女王だ」
彼らが、それぞれの国の威信を示す、豪華な行列を伴って都大路を進む様は、邪馬台国の民衆にとっても、一大見世物となった。
謁見の間。
玉座に座す卑弥呼を前に、個性も境遇も異なる三人の王が、並んでひざまずいていた。
その光景は、邪馬台国の権威が、今や周辺諸国を動かすほどのものになっていることを、雄弁に物語っていた。
卑弥呼の傍らには、弟であり宰相であるタケヒコが、冷静な表情で控えている。
「卑弥呼女王よ」
まず、出雲の王オオクニが、武人らしく、儀礼的な挨拶もそこそこに、単刀直入に用件を切り出した。
その声は、広間全体に響き渡るほど、力強かった。
「我らは、このようななりであるが、戦のために来たのではない。ただ、救いを求めて参った。我が国の兵士たちを蝕む『腐敗の呪い』。それは、刃よりも恐ろしく、我らの心を砕く。貴国には、その呪いを解くという『清浄の石』があると聞く。どうか、その製法をお譲り願いたい。見返りには、我が国が誇る、最高の鉄で作られた武具百揃えを献上しよう。国境を守るための我らの魂そのものだ」
次に、伊都の王イタケルが、優雅な所作で続いた。
「偉大なる日の巫女よ」
彼は、まず卑弥呼の美しさと神聖さを称える言葉を並べ、それから、本題に入った。
「我が国は、交易によって富を得ておりますが、その富も、次代を担う子供たちがいなければ、砂上の楼閣に過ぎませぬ。国の未来を枯らす『子枯れの病』。それは、我が国の心臓を蝕む、見えざる刃。貴国には、その病を癒すという『清浄の知恵』があると聞き及び、馳せ参じました。どうか、その知恵をお教えいただきたい。その対価として、我が国が大陸より取り寄せた、金銀珠玉の数々、倉を満たすほどの絹織物を、惜しみなく捧げましょう」
「日の本の巫女王よ」
最後に、越の国の女王ヌナカワが、震える声で、しかし、その瞳には強い意志を宿して訴えた。
「我が民は、『苔むす病』にその魂を蝕まれ、生きる喜びを失っております。肌は爛れ、心は閉ざされ、ただ影のように、日々を過ごすのみ。貴国の『白き泡』は、いかなる穢れをも洗い流すと聞き及んでおります。どうか、その奇跡の知恵を、我らにお授けください。見返りには、我が国が代々神聖なものとして守り続けてきた、いかなる宝も……たとえ、それが山の神々の怒りに触れるものであろうとも、お譲りすることをお誓いいたします」
三つの国の、三人の王からの、同じ目的の、しかし異なる形の懇願。
「………」
広間は、静まり返っていた。
誰もが、卑弥呼の裁定を、固唾を飲んで見守っている。
彼女の傍らに立つタケヒコは、この状況が邪馬台国にとって、極めて有利な外交の好機であることを見抜き、冷静に姉の言葉を待っていた。
石鹸の製法一つで、鉄の武具、金銀財宝、そして未知の宝までが手に入る。
断る理由は、どこにもない。
「ふむ」
卑弥呼は、しばらくの間、目を閉じていた。
彼女は、三人の王の言葉の奥にある、民を思う、偽らざる苦悩を感じ取っていた。
そして、彼女の脳裏には、あの男の顔が浮かんでいた。




