残された薬味
春。それは、雪解けと共に、国が活気づく季節。
都には、冬の間に滞っていた各地からの税を納めるため、多くの村々から代表者たちが集まってきていた。
朔は宮殿の厨房で、序列第二位の料理人として、日々の献立に新たな息吹を吹き込もうと試行錯誤を続けていた。
彼がもたらした純白の塩、そして完璧な「出汁」の技術は、宮廷の食文化を劇的に向上させていた。
だが、朔は、まだ満足していなかった。
(……味の輪郭が、まだ弱い)
猪や鹿といった力強い食材の味を、さらに引き立て、記憶に深く刻み込むような、薬味が欲しいのだ。
食欲そのものを根底から揺さぶるような、強烈な「香り」と「コク」。
三つ星のシェフとして、普段の料理で重宝していただけに、最近はそういった素材が、何度も思い出されるのだった。
その日も、朔は自らの工房で醤の熟成具合を確かめた後、厨房へと戻るため、宮殿の中庭を横切っていた。
彼の傍らには、いつものように侍女ユズリハが静かに付き従っている。
彼女の赤みがかった巻き髪が、春の穏やかな風に揺れていた。
その時だった。
中庭に面した、租税を管理する政庁の一つから、耳障りな怒声が響いてきたのは。
「――無礼者めが! ふざけるのも大概にせよ!」
朔とユズリハは、思わず顔を見合わせ、足を止めた。声の主は、タケヒコ配下で、租税の徴収を厳格に司る長官、オミであった。
「……サク」
ユズリハの鋭い視線が、騒ぎの元へと向けられた。
「ああ、行こう」
二人は二つ返事で走り出す。
近づくと、政庁の入り口でみすぼらしい貫頭衣を纏った三人の男たちが、額を地面にこすりつけるようにひれ伏しているのが見えた。
彼らはひどく痩せており、その顔には長旅の疲れと、絶望の色が濃く浮かんでいた。
彼らの前には、いくつかの汚れた麻袋が転がっている。
そして、その開かれた袋の口からは強烈な、この国の誰もが嗅いだことのない匂いが放たれていた。
「こ、これでは、米の代わりにはなりませぬか……! どうか、どうかお慈悲を……!」
ひれ伏した男の一人、村長らしき老人が、震える声で懇願している。
長官オミは、その匂いに、袖で鼻と口を押さえながら、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「臭い! なんという下劣な匂いだ! まるで、獣の臓物が腐ったかのようではないか! このようなものを神聖なる女王陛下への税として献上するなど、国への反逆にも等しいぞ! お前たちの村は税を滞納した上に、我らを愚弄しに来たか!」
オミは、怒りに任せて、その麻袋の一つを足蹴にした。
中から、白く、ごつごつとした奇妙な形の根のような塊が、いくつも石畳の上へと転がり出た。
「ひぃ……!」
村人たちが、ビクリと身を震わせる。
ユズリハの眉がその傲慢な行いに、ぴくりと動いた。
彼女は朔に深く感化されたせいか、食べ物を足蹴にする行為も、もはや許すことができなかった。
「おい――」
しかし彼女が前に踏み出す前に、誰かが動いていた。
朔だった。
「ちょっと待て」
朔は間に割り込んで長官の暴行を遮ると、信じられない、という表情で、石畳に転がったあの白い塊を手に取った。
「……まさか」
この匂い。
この形。
この鼻腔を突き抜け、脳を直接揺さぶる、強烈で、刺激的で、抗いがたいほどに食欲をそそるこの香り……。
朔の心臓が、激しく高鳴った。
◇◆◇◆◇◆◇
朔が長官オミに向き直る。
「その人たちを罰する前に、理由を聞かせてもらおうか」
「サク殿……? いや、これは国の政務。料理人である、そなたの関……」
「――関知するところではないと?」
だがその隣に、特別侍女のユズリハが並ぶと、オミはそれ以上何も言えなくなった。
「陛下にお仕えする者として、陛下に捧げられる『食』の可能性があるものを、見過ごすわけにはいかない」
「……はっ。失礼を」
オミが下がり、畏まる。
サクの任を乱す者は、この国の安寧を乱す者とみなされることは、タケヒコによって厳しく周知されている。
そこに直属のユズリハまで現れては、長官ごときではとても逆らえたものではなかった。
「お顔を上げてください」
朔はひれ伏す老人の前に、そっと膝をついた。
その傍らにユズリハも並ぶ。
「あなたは、どこの村から?」
朔の穏やかな声に、老人は恐る恐る顔を上げた。
「……は、はい……。我らは西の海の果て、伊都の国にも近い、名もなき貧しい浜の村の者でございます……」
「もしかして、その麻袋のものを税として?」
「はい、実は」
老人は堰を切ったように、その事情を語り始めた。
彼らの村は、痩せた土地と昨今の不漁で、都に納めるべき米の税がどうしても集められなかった。
滞納が続けば、村は取り潰され、皆、奴隷として売り飛ばされる可能性すらある。
その絶望の淵で、村人たちが思い出したのが村の長であった、彼の一人息子の遺言だった。
「……我らの村には、数年前まで一人、大陸と交易をする商人の若者がおりました。それが、私の息子で……」
老人は、涙を堪えながら語った。
「息子は、海の向こうから様々な珍しいものと共に、この奇妙な草の根を持ち帰りました。そして、村の畑の隅で育て始めたのです。彼はこう申しておりました。『父上、この草は大陸にしかなかった希少なものだ。いつか必ず、この国の宝になる。もし、村がどうしようもない苦境に陥ったなら、これを掘り出し、都へと持っていけ』と……」
しかし、その商人の息子はひと月前に嵐に遭い、海に飲まれて帰らぬ人となったという。
「……我らには、息子の言葉の意味は分かりませぬ。ただ、この草の根が、我らの最後の望みの綱だったのでございます……! どうか、なにとぞ……!」
老人は、再び額を石畳にこすりつけた。
朔は、黙ってその話を聞いていた。
手に取っていたその白い塊を、少し剥いてみる。
間違いない。ニンニクだ。
強烈で、芳醇な、この独特の香り。
(すごいな……)
刺激的な香りの元とされるアリシンが大量に含まれているのがわかる。
これが原種の力か。
なんだかんだ言っても、俺がシェフとして知っていたニンニクは、香りより生産性と貯蔵性を優先した品種だったのだろう。
これほどの素材を見せられたのである。
朔の全身が、料理人としての武者震いに震えたのは当然のことだった。
「……長官」
朔は立ち上がると、長官オミに冷徹なまでの静かな声で言った。
「あなたは、今、国宝を踏みつけたのだ。どう罰せられるかはわからない」
「……なっ!?」
「ユズリハ。俺はこの方々を工房へ連れる。陛下とタケヒコ様に、緊急の奏上を。新たな『宝』が見つかった、と」
「わかった」
ユズリハが風のように駆け出した。
◇◆◇◆◇◆◇
卑弥呼の私室に、朔、タケヒコ、ユズリハ、そして、未だに事態が飲み込めず、ただ小さく震えている、あの浜の村の老村長が招き入れられた。
卓の上には、あの麻袋から取り出された、ニンニクの塊が積まれている。
その強烈な香りが、高貴な香油の香りが漂うはずの私室を、完全に支配していた。
「サクよ。これがそなたの言う、新たな『宝』か?」
卑弥呼は、袖で口元を覆いながらも、その好奇心に満ちた目で、白い塊を見つめている。
「はい、陛下」
朔は、そのニンニクの一つを手に取ると、その価値を、熱を込めて語り始めた。
「この薬味は、まずそれ自体が強力な『薬』となります」
彼は以前、兵士たちの間で起こった食中毒騒ぎを引き合いに出した。
「この強烈な香りには、目に見えぬ穢れ(細菌やウイルス)と戦う、強い力が秘められています。これを食せば、体は内から強くなり、病を跳ね除けやすくなります」
「ほう」
タケヒコが、目を見張った。
薬としての価値。それだけでも、計り知れない。
「しかしながら、このニンニクの真価は、そこではございません」
「と申すと?」
「このニンニクは、我々の食に、強い風味を与えてくれます」
「……このきつい香りが、か?」
卑弥呼はまだ顔をしかめている。
「ニンニクはそれ自体が役者ではありません。肉、米、魚。他と合わせることで、料理を強烈に引き立てる裏方なんです」
「ほう……」
「食欲を引き立てる薬味としては、最高級の価値があると言ってよいでしょう」
「そこまでなのか……」
タケヒコが顎をさすった。
この慣れぬ香りを放つものが、それほどに価値のあるものとは思えなかった。
「わかった。そなたの料理でその辺の事情は教えてもらうぞ」
「もちろんです」
「うむ」
卑弥呼には、小難しい理屈は分からない。
だが、この男がこれほどまでに、その価値を断言するのだ。
それは、あの塩に匹敵する、あるいはそれ以上の奇跡の食材に違いない、と。
「つきましては、陛下」
朔は、片膝をついて言った。
「私からの願いです。このニンニク。米の代わりとして、税として納める許可をもらえませんか」
「ふむ」
卑弥呼は、玉座から立ち上がると、老村長の前にゆっくりと歩み寄った。
老人は、慌てて再び深く頭を下げた。
卑弥呼は、その肩にそっと手を置いた。
「……顔を上げよ、村長」
「は、はひ……!」
「そなたの息子は、偉大であった。そして、その遺言を守り通したそなたたちもまた、見事である。――タケヒコ」
「はっ」
「この薬味、米の三倍の価値をもって、税として納めることを正式に認める。そしてこの村を、この国の『宝』を育てし村として税を軽減し、手厚く保護せよ」
「承知いたしました」
「あ……、あ……」
老村長は、その、あまりに思いがけない言葉に言葉を失い、ただその場に崩れ落ちるように、声を上げて泣き始めた。




