お花石鹸 前編
タケヒコの命により、ユズリハが「女王の盾」として朔の傍らに立つようになってから、10日ほどが過ぎた。
その効果は、劇的だった。
厨房における朔への風当たりは、嘘のように凪いでいた。
彼の指示に、もはや誰も逆らわない。最高の食材が、黙って彼の前に差し出される。
朔は、これまでにないほど自らの料理に集中できる環境を手に入れていた。
だが集中できるようになると、いろいろ問題も目につくようになるのは自然なことだったかもしれない。
朔が今、一番気になっているのは、この厨房の衛生面である。
その日も、朔は王宮の人々の朝餉の準備を手伝うため、早朝から狩りたての猪の解体作業を行っていた。
朔が自ら鍛えた鋼の包丁が、肉を滑るように断ち切っていく。その手際は、他の料理人たちが畏敬の念をもって見つめる、もはや見慣れた光景。
作業が一段落し、朔は調理台と手を洗うため、井戸の水を桶に張った。
血と脂でぬめった手を、水と砂、そして微量の木灰を混ぜた「あく」でゴシゴシと洗う。
だがいくら擦っても、手のひらにまとわりつく獣脂独特のぬるりとした感触が、完全には消えない。
鼻を近づけると、微かに、血の生臭さも残っている。
「これでは、とてもじゃないが……」
朔の眉間に、深い皺が刻まれる。
同じ作業をしていた他の料理人たちは、この程度の洗浄で満足し、他の食材を調理し始めている。
これが、この時代の「清潔」の限界なのだ。
だが、朔が持つ現代の衛生観念は、この状況に警鐘を鳴らしている。
この脂が染み込んだ木の調理台。
何度も使い回され、黒ずんだまな板。
そして、今の、自分のこの手のひら。
そこには細菌が無数に潜んだままだ。
自分がつくるものは王宮の皆の口に入るし、日によっては卑弥呼の口にも……。
自分の担当外ではあったものの、実は先日も猪肉の煮込み汁が原因と思われる80人近くの集団食中毒があったばかりだった。
卑弥呼たちの必死の祈祷で改善し、死の淵から蘇ったことになっているが、こんな衛生環境ならば、自分がいつそれを引き起こしてもおかしくない。
ちなみに食中毒とは誰も思わないらしく、厨房は全く責められない。
それゆえに改善もしない。
「やろう。迷う理由もない」
もう少し順位が上がり、発言権が出てきてからにしようかとも思っていたが、最悪の事態を避けるためにも、この厨房環境は早々に正すべきだ。
幸いこの時代においても、素材はあるのだから。
◇◆◇◆◇◆◇
朔はその日の夕餉の準備を終えると、まず竈に残った大量の木灰をじっくりと吟味し、選んで運び出した。
選ばれたのは、樫や楢といった、硬い木のもの。
次に、朔は先日解体した猪の、余って捨てるだけの背脂の塊を一つ残らず回収した。
朔はそれを大きな土鍋に入れて、弱火でじっくりと熱し始めた。
やがて脂は溶け、不純物が分離し、鍋の中には、雪のように白く、清らかな液体状の脂だけが残った。
「よし、ワンステップ完了」
朔はそれを麻布で丁寧に濾し、一つの土器へと移した。
「サク。夕餉の後なのに、何をしている」
背後から、静かな声がした。
いつの間にか、ユズリハが彼のすぐ傍らに立っていた。
「明日の仕込みにそんなに脂を使うのか」
「違うんだ」と朔は、手を止めずに答えた。
「石鹸を作ることにしたんだ」
「セッケン……?」
「料理人は味だけでなく、食品の衛生にも最大限の注意を払わなければならないから」
「さっきから、言葉の意味がわからない」
「見てもらうほうが早い」
朔はそう言うと、彼女を厨房の隅へと導いた。
そこには、大樽の中に先程の木灰が水に浸されていた。
朔はその上澄みの、少し黄色みがかった液体「灰汁」を柄杓ですくい上げ、ユズリハに見せた。
「いつもこれで手を洗ったりしてるだろ」
「そうだ」
「これよりもきれいになる洗剤をつくるのさ。せっけんっていうんだけどな」
「ほう、よごれが落ちやすくなるのか」
「そうそう」
「……そんなものをどうやってつくる?」
ユズリハは平静を装い、そう見せないようにしているが、明らかに興味津々だった。
この辺はやはり、女の子だよな。
「ユズリハ。油と水って、混ぜようとしても決して交わらないだろ?」
「それは当然のことだ」
「だが、それが交じるようにすると、強力な洗浄能力を持つようになるんだ」
「……なに」
ユズリハが眉をぴくり、と揺らす。
「……だがそれをつくるには、少々危険な作業がある。俺が作業をしている間、この一角に、誰も近づけさせないでほしい。ユズリハもだぞ」
「もう、わけがわからぬ」
ユズリハは腕を組み、ため息をついた。
「とりあえず今は納得してくれ」
「人よけをすれば、そのセッケとやらができるのか」
「ああ。作業がはかどる」
夕餉の準備は終わっているので、調理人たちはすでに帰室している。
時折、帰る人がそばを通りかかるくらいなので、ユズリハにとってはわけもない仕事だった。
◇◆◇◆◇◆◇
ラードとは別の鍋で、朔は灰を浸した水をひたすら煮詰めていった。
やがて水分が蒸発し、鍋の底には、とろりとした強アルカリの危険な液体だけが残った。
濃縮した灰汁である。
獣の皮で作った手袋で、朔はそれを慎重に別の土器へと移す。
次に、先程の精製ラードを人肌に温めて、強アルカリの中に混ぜ合わせる。
朔は木の棒で、一定のリズムを保ちながら、かき混ぜ続けた。
最初は、ただ濁るだけだった液体が、やがて、もったりとしたクリーム状に変化していく。
鹸化反応が始まったのだ。
朔は休むことなく、かき混ぜ続けた。
額からは、玉のような汗が流れ落ちる。
「済まないが、汗を拭いてくれないか。石鹸が汚染する」
「なぜ私がそんなことを」
ユズリハはブツブツ言いながらも、朔の真横に立ち、朔の顔をじっと見て、丁寧に丁寧に布で拭いてくれる。
拭いてくれる布からは、良い香りがした。
あぁ、ユズリハは橘の花が好きなんだな。
「ありがとう」
「うるさい」
やがて、全体が均一に混ざり合い、生地が混ぜ棒から落ちないほどの硬さになった時、朔はそれをあらかじめ用意しておいた木の型枠へと流し込んだ。
そして、麻布をかけて、涼しい場所へと運ぶ。
「よし……」
ふぅ、と息を吐きながら、朔は額の汗を拭った。
「できたのか」
「まだまださ。これで、数日間眠らせる。そして、3週間ほど乾燥させれば、完成だ」
ただ三週間を待つのではなく、朔はおおよそ3日ごとに余った背脂を集め、同じ作業を繰り返し、木の型枠に流してひそかに量産していった。
◇◆◇◆◇◆◇
4週間ほどが経ったその日、朔は手の空いている人を井戸の前に集めた。
ユズリハも、タケヒコも、そして、オシヒトもがいる。
オシヒトなどは、朔がいったい何をしようとしているのか、4週間前からずっと気になって気になって仕方がなかったのだった。
「これは石鹸と言うんだ」
朔は、型枠から、固まったそれを取り出した。
それは、白く、硬い、石のような塊だった。
「こうした用途に使う」
朔はその塊を切り分け、脂でギトギトに汚れた、猪の解体に使った木のまな板を、その「石鹸」で擦り、水をかけて洗い流してみせた。
すると驚くべきことに、水がまるで雪のように白く細かく泡立ち始めた。
「おお……!」
その、誰も見たことのない不思議な泡で、まな板を洗い上げていく。
そして最後に水でその泡を洗い流した時、まな板はキュッ、という清浄な音を立てるほどに脂汚れが完璧に落ちていた。
「なんと」
「脂が消えた……だと!?」
どよめきが、料理人たちの間から、巻き起こった。
「物だけじゃなく、体も洗えるんだ」
さらに、朔はその泡で自らの手を洗ってみせた。
洗われた彼の手は、清潔になるだけでなく、どこかしっとりとして、つっぱり感もないのだった。
「かつて何度も、王宮の人たちが集団で腹痛嘔吐で苦しんだことがあったと聞いているが、それは厨房の不衛生が原因の可能性がある。それを防ぐためには、調理環境をこうやってきれいにすることがとても大事なんだ」
オシヒトを除く料理人たちが、なるほど、と素直に耳を傾けていた。
彼らも、呪術によって防ぐことのできないその事態がなぜ繰り返されるのか、ずっと知りたかったのだ。
「これできれいな環境で料理をつくることができる。必ず手を洗ってから次の食材に触れるようにすれば、せっかくの料理を台無しにすることもない」
朔の言葉に歓声が上がった。
「野菜は一見問題なさそうに見えるが、必ず流水でよく洗ってから使ってくれ。肉は野菜と別のまな板で調理すること。肉は基本的に赤身は残してはだめなんだ。中心部までしっかり火を通すこと」
料理人たちは、頷きながら聞いている。
「………」
オシヒトは敗北感のあまり、その場を立ち去ることしかできなかった。




