現れた影
タケヒコとの月下の密約から一夜が明け、朔はいつも通り、夜明けと共に厨房へと向かった。
厨房の空気は、いつも以上に冷え切っていた。朔が姿を現すと、十四人の料理人衆は、まるで示し合わせたかのように、一斉に彼から視線を逸らし、自らの仕事に没頭し始める。
それは、もはや敵意や侮蔑ではなかった。彼らは、朔を「いないもの」として扱っていた。自分たちの理解を超え、女王と通じるこの異端な男と関わることを、極度に恐れているのだ。
朔は、権力の中枢に近づくほどに、その孤独が深まっていくという皮肉を感じながら、自らの持ち場へと向かった。
その、張り詰めた静寂を破ったのは、凛とした、鈴の音のような声だった。
「皆、手を止めよ」
厨房の入り口に、一人の女が立っていた。
女王・卑弥呼の、最も信頼厚い側近である特別侍女・ユズリハである。
彼女の登場に、オシヒトをはじめ、全員が一斉に手を止め、深々と頭を下げる。
朔も、それに倣った。
ユズリハは、他の侍女たちとは明らかに違う、独特の雰囲気をまとっている。
他の女たちが、黒髪をただ後ろで束ねているだけなのに対し、彼女の髪は、まるで異国の花のような赤銅色に染まり、手の込んだ結い方をされている。
衣服も違う。
他の侍女が着るゆったりとした白い貫頭衣ではなく、動くと白く柔らかな胸の谷間がチラチラ見えるV字カットの緋色の衣に、膝上丈の、二枚の布からなる巻きスカート(ラップスカート)だった。
肩にかかる髪の先は、柔らかな内巻きに整えられ、彼女が動くたびに、命を持っているかのように優雅に揺れた。
「上様のご意向である」
その日のユズリハは、いつもと違った。
彼女は、厨房の中央まで静かに歩を進めると、全員の顔を見渡し、氷のように冷たい、しかし明瞭な声で続けた。
「本日この時より、私ユズリハは、序列第十三位、サク殿の任に常時随行することとなった」
その言葉に、厨房にいた誰もが、耳を疑った。
序列は十三位。一番下からは上がったが、まだ下位である。しかし、その程度の位の料理人に、なぜ女王の側近中の側近が付き従うのか。
そのアンバランスな事実に、オシヒトをはじめとする料理人たちは、深い困惑と、得体の知れない恐怖を感じた。
ユズリハは、その反応を意にも介さず、続けた。
「サク殿の御身は、女王陛下の御心の安寧に、直接関わるものと心得るべし。その任を妨げる者は、この国の安寧そのものを乱す者と見なす。……心して、励むように」
それは、警告だった。
朔という男の公式な序列はともかく、その存在が国家レベルで保護されるべき重要人物になったという、揺るがしようのない事実の宣告。
ユズリハは、それだけ言うと、厨房の壁際に移動し、腕を組んで壁に背中を預けて立つ。
まるで、美しい石像のようである。
他の侍女より明らかに盛り上がった胸元の双丘が、組んだ腕のせいで寄せられ、ことさらに強調されている。
だがその瞳は鋭い鷹のように、厨房の隅々までを監視している。
朔は、口をパクパクさせていた。
(聞いてないんだが……いや、聞いたのか、タケヒコから)
上様とは卑弥呼ではなく、タケヒコなのかもしれない。
だが、これでは守られているというよりも、むしろ、四六時中監視される、より窮屈な牢獄じゃ……。
「ユズリハ……さん、俺は護衛など……」
彼が小声で抗議しようとすると、ユズリハは声も出さずに、ただ、すっと視線を彼に向けただけだった。
その、感情の読めない、しかし有無を言わせぬ眼差しに、朔はそれ以上の言葉を飲み込むしかなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
その日、朔は新しい料理の試作のため、貯蔵庫から、いくつかの珍しい根菜を必要とした。
これまでは、彼が貯蔵庫の番人に声をかけても、無視されるか、あるいは一番質の悪いものしか回ってこなかった。
彼は、覚悟して、番人に声をかけた。
「すまないが、あの棚にある芋を、いくつか分けてほしい」
番人の男はいつものように、面倒くさそうに顔を上げ、何か言い返そうとして……固まった。
番人の視線の先には、壁際で微動だにせず、しかし、射抜くような視線をこちらに向けているユズリハの姿があったからだ。
女王の影。
その無言の圧力は、千の言葉よりも雄弁だった。
男の顔から、血の気が引いた。
「は、はひっ! ただいま! サク殿! ど、どの芋でございますか!? こちらの一番大きいもので、よろしいでしょうか!?」
番人は慌てふためきながら、棚から最上の芋を選び出すと、まるで宝物でも運ぶかのように、朔の元へ駆け寄ってきた。
その態度の豹変ぶりに、朔の方が面食らってしまった。
それは、始まりに過ぎなかった。
朔が竈を使おうとすれば、それまで使っていた者が、何も言わずに場所を譲る。
朔が水を汲もうとすれば、若い料理人が、どこからか飛んできて、代わりに桶を満たす。
そして、筆頭料理長オシヒトですら、朔とすれ違う際には、苦々しい顔ながらも形式上の会釈をしていくようになった。
厨房の氷は、溶け始めた。
それは、互いの心が打ち解けた温かい氷解ではない。
絶対的な権力という、灼熱の太陽によって、強制的に蒸発させられただけだった。
だが、朔にとって、仕事がやりやすくなったのは、紛れもない事実だった。
一日中、ユズリハは、影のように朔の傍を離れなかった。
朔が厨房を移動すれば、数歩離れて、その後ろをついてくる。
彼が調理に集中している時は、その後ろの壁際に立ち、その背中をじっと見つめている。
朔は、最初、その監視されているかのような状況に、息が詰まりそうだった。
だがふとした瞬間に、彼女の姿が目に入ると、その存在感に改めて気づかされるのだった。
その日の夜。
厨房から人がいなくなり、朔が一人で後片付けをしていると、それまで石像のように動かなかったユズリハが、初めて静かに彼に近づいてきた。
「サク」
「……はい」
「本日はあと半刻ほどで失礼する」
事務的な口調ながらも、会話になりそうなので、朔は問いかけた。
「ユズリハさん。あなたをここに遣わしたのは、タケヒコ様か」
彼女は静かに頷いた。
「ユズリハでいい」
「わかった。ユズリハ。でもなぜ、そこまでする。俺はただの……」
「お前は、ただの料理人ではない。すくなくともタケヒコ様は、そうお考えだ」
ユズリハは続けた。
「加えて、タケヒコ様はこの厨房の性質もよくご存知だ。『宝は外敵からだけでなく、内なる嫉妬からも守らねばならぬ』。私の役目は、そのための『盾』」
彼女の言葉は、昨夜のタケヒコとの密約が、既に実行に移されていることを、朔に明確に理解させた。
「もうひとつ。タケヒコ様より、お前への伝言を預かっている」
彼女は、一歩、朔に近づいた。
その身から高貴な香油の香りが、ふわりと漂う。
薄暗い厨房の灯りが、彼女の赤みがかった髪の内巻きのカールと、盛り上がった白い双丘を艶やかに照らし出した。
「『女王は時に、不可能を望まれる。そなたはそれに応えねばならぬ。故に必要な素材があれば、ユズリハに伝えよ。天上の星であろうと、海の底の魚であろうと、私が全権をもってサク殿の元へ届ける』と」
「うへ」
この国の宰相が、彼の料理のために国の総力を動かすと、そう言っているのだ。
そのあまりに大きな期待の重さに、朔は軽い眩暈を覚えた。
◇◆◇◆◇◆◇
「ユズリハも疲れただろう」
「別に」
仕事を終えた朔は自分の役目が終わったことに安堵し、そして一日中立ちっぱなしだった彼女を気遣った。
彼は自分が飲むために用意していた、体を温めるための蜂蜜生姜湯を、もう一つの椀に注ぐと、ユズリハに差し出した。
「どうぞ。温まるよ」
それは、下心も駆け引きも何もない、純粋な労いの気持ちだった。
ユズリハは、一瞬、驚いたように目を見開いた。
彼女は、女王の影。
誰かからこのように、個人的な気遣いを受けたことなど、これまで一度もなかったからだ。
「わ、私は、まだ職務中だ」
彼女は、反射的に断る。
「そう言わずに。あなたが身体を壊すと女王様もきっと困るんで」
朔はユズリハに、ずい、と差し出す。
「………」
ユズリハは、目の前で湯気の立つ椀から漂う生姜の香りに、迂闊にも吸い寄せられてしまった。
「ほら」
断れず、ユズリハはその椀を、両手で受け取っていた。
その際に、指先が朔の指に触れた。
瞬間、ビクリ、とユズリハの肩が小さく震えた。
ユズリハが思わず顔を伏せると、肩にかかった、赤みがかった巻き髪が、さらりと揺れてその頬を隠す。
動揺を悟られぬよう、ユズリハは慌てて椀に口をつけた。
温かい液体が喉を通り、じんわりと染み渡っていく。
それは乾いた喉を潤すだけではなく、生姜が想像以上に彼女の冷え切っていた体の芯から、温めてくれた。
蜂蜜の柔らかい甘さが、乾いた喉を優しく包む。
「……ふん。こんなもの」
彼女がかろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど、動揺していた。
「もう帰る」
ユズリハは椀を返すと、朔に背を向けた。
伏せられた長い睫毛の下で、その頬がほんの僅かに上気しているのは、生姜のせいか。




