月下の密約
女王に夕餉を献上した、次の日。
朔を取り巻く厨房の空気は静寂に満ちていた。
昨日までの、氷のように冷たい敵意や、あからさまな侮蔑は消え失せている。
だが代わりに生まれたのは、それ以上に居心地の悪い、腫れ物に触るかのような遠巻きな敬意と畏怖だった。
料理長オシヒトをはじめ、十四人の料理人たちは、朔と目を合わせようともせず、まるで幽霊でも見るかのように彼の存在を避けた。
その夜。
いつものように仕事と序列15位が押し付けられる雑用を終え、あてがわれた自室で、朔がカイナ村を思い出して物思いに耽っていると、戸口が控えめに叩かれた。
子供たちのような無邪気な音ではない。
朔が戸を開けると、そこに立っていたのは、昼間に見かける下級の役人だった。
「……サク殿。タケヒコ様が、あなたにお会いしたいと仰せです」
タケヒコ。その名に、朔は真顔になる。
女王・卑弥呼の弟にして、この国の事実上の宰相。
政を司り、姉の神託を現実に落とし込む、影の権力者。その男が、なぜ俺に?
「場所は、北の貯蔵庫の裏手。決して人目を引かぬように、と」
それは、公式な呼び出しではないことを意味している。
密会への、誘いだった。
これが罠である可能性も、頭をよぎった。
昼間のことで、古参の者たちの恨みを買った自分を、闇に葬るための口実か。
命の危険を感じたが、この状況で断るという選択肢はなかった。
「わかりました」
月だけが、煌々と夜道を照らしていた。
朔は言われた通り、人目を忍んで宮殿の裏手へと向かった。
巨大な貯蔵庫の影に隠れた、普段は誰も寄り付かない場所。
そこに、一人の男が月光を背にして静かに立っていた。
昼間に見る、豪奢な衣ではない。
動きやすい、簡素な衣服を纏っている。
護衛の姿も見当たらない。
タケヒコだった。
朔が数歩手前で立ち止まり、儀式的な礼をしようとすると、タケヒコはそれを手で制した。
「……サク殿だな。来てくれたか」
その声は、宮殿で耳にする彼のものとは違い、為政者としての威圧感が取り払われた、驚くほど穏やかな響きを持っていた。
「このような場所へ、何の御用でしょうか」
朔は、警戒を解かずに問いかけた。
すると、タケヒコは朔が全く予期していなかった行動に出た。
彼は、朔の目の前でゆっくりと、頭を下げたのだ。
この国の、女王に次ぐ権力者が、序列も身分も一番下であるはずの、自分に向かって。
「……なにを」
あまりのことに、朔は言葉を失っていた。
「サク殿」と、頭を上げたタケヒコは、目を合わせながら言った。
「我が姉への奉仕、心より感謝する」
その声は、感謝の念で、僅かに震えているようにも聞こえた。
「いや、俺は料理人として務めを果たしているだけで、感謝されるようなことは何も……」
タケヒコは首を振る。
「あなたは、務め以上のことをしてくれている」
「務め以上のこと?」
「私の姉の心に寄り添ってくれているのだ」
その目には、朔が今まで宮殿の誰からも見たことのない、誠実で、人間的な光が宿っていた。
「サク殿。私の姉は太陽のようなものなのだよ」
「太陽?」
「そう。天でただ一人輝き続ける、最も孤独な星」
その言葉で、朔は、はたと理解する。
「玉座にあっては、彼女は常に完璧でなければならぬ。迷いを見せてはならず、弱音を吐くことも許されない」
タケヒコの視線が、遠い夜空へと向けられる。
「私は、弟として、臣下として、ずっと彼女を支えてきた。政務を手伝い、彼女の敵を排除し、その身を守ることはできる。だが、姉の心の奥深くにある、その魂の渇きと孤独だけは、私にはどうすることもできなかった。彼女は誰にも本心を見せない。この私にさえも。それが、女王として生きる者の覚悟だとでもいうように……」
タケヒコは、再び朔の目をまっすぐに見た。
「だが昨夜は違った。私は見たのだ。あなたの作ったあの一膳を口にした後、自室に戻った姉の、あの穏やかな顔を」
タケヒコはその時を思い出したように、自身の顔にも笑みを浮かべた。
「長年、彼女の眉間に刻まれていた深い皺が消え、まるで、全てから解放されたかのような笑顔だった。……あんな姉の顔を見るのは、生まれて初めてのことだと思う」
その言葉には、偽りも駆け引きもなかった。ただただ姉を想う、一人の弟としての偽らざる心情だけがあった。
「サク殿。あなたの料理は、ただの食事ではない」
タケヒコは断言した。
「それは言葉を介さずして、人の魂に直接語りかける力を持つ。あなたの膳は、女王という重い鎧の奥にある、ヒミコという人の心に確かに届いたのだ。私ですら、届かなかった場所に」
タケヒコは、再び頭を下げた。
「どうかこれからも、あなたの料理で姉に寄り添ってやってほしい。彼女がこの宮殿で唯一心を許せる時間が、あなたの料理を口にする時間なのだ。それだけでも、私にとっては望外の喜びであり……」
タケヒコは、言葉をつまらせた。
「タケヒコ様……」
「サク殿。どうか頼む」
「お顔を上げてください。ご心配は無用です」
サクは頷き、繰り返し切に頼み続ける、この姉思いの弟の頭を上げさせた。
「自分は料理人として、食べる人の心にはずっと寄り添うつもりです。あなたの姉君が安らぎを求めておられるのならば、俺は自分の持てる全ての技と心で、そのための料理を作り続けると約束します」
その答えを聞いたタケヒコの顔が、安堵に、そして深い感謝に、和らいだ。
「……感謝する。それ以上の言葉はない」
彼は朔の肩に、そっと手を置いた。
その手は、温かかった。
「サク殿。この宮殿であなたの敵は多いだろう。だが忘れないでほしい。あなたにはタケヒコという友がいる。何かあれば必ず私を頼ってくれ」
「ありがとうございます」
「では。時間を取らせた」
そう言うと、タケヒコは宮殿の方へと去っていった。
離れた位置で、彼を見守っていたらしい。
護衛らしき男が二人、タケヒコの影にすっと寄り添った。




