女王のお気に入り
その夜、王宮の奥深くにある卑弥呼の私室は、静寂に包まれていた。
日中の謁見の間のような、権威と儀礼で満たされたよそよそしい空間ではない。
そこは、女王が神の巫女という仮面を脱ぎ、一人の人間・ヒミコに戻ることを許された、唯一の場所だった。
彼女は、日中の華やかな衣を解き、簡素な白麻の衣を纏って、磨き上げられた銅鏡の前に座っていた。
だが、その視線は鏡に映る自分ではなく、手元に置かれた一つの器に向けられていた。
昼間の饗宴で、朔が献上した、素焼きの皿。
その上に残された、ひとかけらの焼き芋。
部屋には、まだその甘く香ばしい香りが、幻のように漂っている。
彼女は、そのひとかけらを指先でつまむと、名残を惜しむように、ゆっくりと口に運んだ。
広がる、自然で、しかし暴力的なまでの甘さ。
そのたびに、彼女の唇には、抑えようのない笑みが浮かんだ。
「……姉上。よほど、お気に召したようですな」
背後からかけられた穏やかな声に、卑弥呼は振り返った。
そこに立っていたのは、彼女の弟であり、この国の政を実質的に取り仕切る唯一の男、タケヒコだった。
なお、彼だけが、許しなくこの私室に入ることができる。
「タケヒコか。……見たか、あれを」
卑弥呼の声は、女王としてのそれとは違い、少女のような弾む響きを帯びていた。
「ええ、一部始終を。オシヒトをはじめ、料理人衆の顔は、見ものでございましたな。あれほど分かりやすく誇りを砕かれた男たちの顔は、私も久々に見ました」
タケヒコは、苦笑しながら答えた。
「全くだ」と、卑弥呼は楽しそうに言った。
「まさか芋で、これほどに驚かされることになろうとは」
彼女は、先ほどの出来事を思い出し、くすくすと笑い声を漏らした。
それは、臣下に見せる威厳に満ちた笑みでも、政敵を嘲る冷たい笑みでもない。心の底から、面白いものを見つけたとでもいうような、無邪気で、純粋な喜びの発露だった。
タケヒコは、そんな姉の姿を、少し驚いたような、そしてどこか眩しいものを見るような目で見つめていた。
彼は、姉が玉座についてから、いや、それ以前に神の声を聞く巫女として育てられ始めた幼い頃から、ずっとその傍にいた。
だが、目の前でこんな風に笑う彼女の姿を、タケヒコはこれまで一度も見たことがなかった。
「……姉上」
「なんだ」
「そのようなお顔で笑うあなたを、私は初めて見ました」
そのあまりに率直な言葉に、卑弥呼の笑い声が、ぴたりと止まった。
彼女は、不思議そうな顔で弟を見た。
「どういう意味だ」
「勝利した時の、覇者の笑みは何度も見ました。政敵を追い詰めた時の、冷たい笑みも。民の前での、慈愛に満ちた聖女の微笑みも。ですが、今あなたが浮かべているのは、そのどれでもない。まるで……この世で最も面白い玩具を手に入れた、童女のような顔だ」
「童女……?」
彼の言葉に、卑弥呼は、はっとしたように自分の頬に手をやった。
そして銅鏡に映る自分自身の顔を、改めて見つめた。
そこに映っていたのは、確かに自分が今まで見たことのない、高揚と喜びに輝く一人の女の顔だった。
「あなたが、これほどまでに心を躍らせる様を見るのは、本当に初めてです。あのサクという男は、それほどの男なのですな」
彼女は、ふっと息を吐くと、弟に向き直った。
その目には、もはや少女の無邪気さではなく、この国の支配者としての鋭い光が宿っていた。
「玩具、か。……そうかもしれぬな。だがタケヒコよ、そなたはまだ、あの男の本当の価値を分かっておらぬ」
彼女は立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
「あの男がカイナ村で出したという、一杯の汁物。あれは民の心を掴んだ。そして、今日の焼き芋。あれは支配者である私の心を掴んだ。分かるか? あの男は、食という人が決して抗うことのできぬ営みを通じて、身分の上下を問わず、人の魂を直接揺さぶる術を知っているのだ」
卑弥呼は、タケヒコの目の前で立ち止まった。
「考えてもみよ。オシヒトたちの料理は、『富』の味だ。希少な材料を、贅沢に使うことで、権威を示す。だがサクの料理は『知恵』の味だ。ありふれたもの、あるいは捨てられるはずのものから、誰も知らぬ価値を生み出す。……富の味は、いつか尽きるし、どこか嫌味だ。しかし知恵は、朔の味は尽きることがない。いくらでも分け与えられて、分け与えるほどに国全体の体を養い、心を豊かにする」
彼女の言葉には、熱がこもり始めていた。
「私は、この国を一つにしたい。だがそのためには、武力だけでは足りぬ。神託だけでも足りぬ。民が腹を満たし、心を満たし、この国に生きることを喜びと感じる『豊かさ』が必要なのだ。……あの男は、その鍵を握っている。千の兵よりも百の神託よりも、はるかに雄弁に私の治世の正しさを示すことができる、最高の『証』なのだ」
タケヒコは、姉の慧眼にただただ感服していた。
彼は、朔を「面白い料理人」としか見ていなかった。
だが姉はその先に、国づくりの道具としての、恐るべき可能性を見抜いていたのだ。
「などと言ってはみるが」
卑弥呼はそこで、くすり、と笑った。
「その実、私もサクの美味な料理を今後も口にしたくて、女王の権限で捕まえているのだが」
「やはりそれが本音でしたか」
「そう。ハハハ」
二人はひとしきり笑い合う。
「サク……」
彼女は、カイナ村の粗末な木椀をそっと手に取った。
そして今日の焼き芋が乗っていた皿と、並べて置いた。
「……タケヒコよ。私は興奮しているのかもしれぬ。これほどの玩具、これほどの刃を手に入れたことに」
彼女は弟に向かって、再びあの嬉しそうな笑みを浮かべた。
「サクが次に私に何を見せてくれるのか……。楽しみでならぬわ」
タケヒコは姉のその絶対的な自信と、隠しきれない喜びが入り混じった顔を見つめ、静かに頭を下げた。




