生ハム柿と海鮮塩ラーメン 前編
玄界灘の荒波に洗われる国境の島、対馬。
岩肌が剥き出しの山々と、深い原生林に覆われたこの島は、古来より大陸と倭国(日本)を繋ぐ「海の懸け橋」として、独自の存在感を放っていた。
しかし今、この島は静かなる死の淵にあった。
数年来続く寒冷化の影響で、海流が変わり、魚が寄らなかった。
頼みの綱であった港の関税も、大陸の戦乱と長く続いた嵐のあおりを受けて、今年は停滞している。
備蓄していた米はとうに底をつき、民たちは冷たい海に潜って海藻を食み、木の皮を削って飢えを凌いでいる有様だった。
対馬の王、イサリビは、痩せこけた民の姿を見て、血の滲むような決断を下した。
「もはや、これまで。……背に腹は代えられぬ」
王城の冷たい玉座で、イサリビは側近たちに告げた。
「我が国が持つ唯一にして最大の宝、『港の利用権』を売る。国の魂までは売らぬが、港の管理権を強国に譲り渡し、その対価として食い扶持を得るしか生きる道はない」
この悲痛な宣言は、瞬く間に倭国全土を駆け巡った。
対馬という国そのものではなく、彼らが管理する「大陸への航路」と「港」。それを手にできるとなれば、関税だけで年間膨大な資金を調達できる。
売り価格は悪く見積もっても12年程度で回収できる計算であり、喉から手が出るほど欲しい「最強のカード」だった。
北は出雲、南は投馬に至るまで、実に二十余りの国が「我らがその権利を買おう」と名乗りを上げた。
各国の使者が集まっているのは、対馬国と深い親交のある、そして今や倭国連合政権の中心地となりつつある「邪馬台国」であった。
神殿前広場。
普段は静寂に包まれている聖域が、この日は各国の使者たちの怒号で揺れていた。
「我が国が一番乗りだ! 対馬王に会わせろ!」
「退け! 我らの財力こそ対馬を救える!」
「邪馬台国ごときが仕切るな! 武力で決めるか!?」
「ほう。面白い。このハヤトが相手となろうか」
広場は一触即発の事態となっていた。
警護の兵たちも、多勢に無勢で抑えきれない。
このままでは、神聖な場所で血の雨が降る。
その時だった。
「――静まらぬか」
決して大声ではない。
だが、波紋のように広場全体を震わせる、凛とした声が響いた。
群衆が割れ、神殿の大階段から、豪奢な衣装を纏った一人の女性が静かに歩み出る。
邪馬台国の女王、卑弥呼である。
彼女は騒ぎ立つ男たちを冷徹な瞳で見回し、手に持っていた扇をピシャリと閉じた。その音だけで、数百の男たちが息を呑んだ。
「醜いな。対馬の民が飢えているというのに、そなたらは己の欲のために我が庭で争うか。これでは交渉の前に地が穢れる」
「な、なんだと……!」
反論しようとした他国の使者が、卑弥呼の圧倒的な威圧感に気圧されて言葉を飲み込む。
卑弥呼は、広場に集まった者たちを見下ろすと、厳かに告げた。
「人の欲で決めれば、恨みが残る。……致し方あるまい。ここは神意に委ねるべきだ」
「し、神意だと?」
「左様。『くじ引き』だ。天に選ばれし三か国のみが、対馬王への交渉権を持つ。そして――」
卑弥呼はここで言葉を切り、さらにルールを付け加えた。
「公平を期すため、接待を行う『場所』もくじで決めることとする。『昼の刻』を引き当てた国の領土を、今回の外交の舞台とする。異論はあるまいな?」
つまり、「昼」を引いた国は、交渉権と同時に「ホームグラウンド」を手に入れることになる。
逆に言えば、それを引けなかった国は、敵地での接待を余儀なくされるのだ。
卑弥呼の御前で行われた、運命の抽選。
選ばれたのは、奇しくも現在の九州から中国地方にかけて覇を競う、三つの勢力だった。
そして、その割り振りは、邪馬台国にとってこれ以上ないほど絶望的なものとなった。
【昼の刻(正午〜一刻)】担当:安芸の国
※開催地権利獲得。舞台は「安芸」に決定。
※条件:ホームの利あり。神事扱いにつき酒は不可。
【夜の刻(日没〜二時間)】担当:不弥国
※条件:最も宴に適した時間帯。唯一、酒の提供が許可される。
【朝の刻(日の出〜一刻)】担当:邪馬台国
※条件:宴の翌朝早朝。制限時間は一刻(約二時間)。酒は厳禁。
抽選を終えた邪馬台国の宰相タケヒコは、結果が書かれた木簡を握りしめ、顔面蒼白で立ち尽くしていた。
「……終わった。何もかも終わった……」
彼はうわ言のように呟く。
『昼』と『開催地』を安芸に取られたのが痛すぎる。
「空腹の彼らの胃を最初に満たす安芸国は、圧倒的に有利だ! 飢えた者が最初に口にする飯ほど美味いものはないのだからな……!」
彼らは自分の城で、移動の疲れもなく万全の状態で接待ができる。
しかも安芸と不弥国は強固な同盟関係にある。
不弥国は安芸の厨房を借りて、あの豊富な資金力で酒と米を振る舞うことだろう。
「我々は……わざわざ安芸まで船で移動し、疲弊した状態で、翌朝の残り物処理係……しかも酒も出せず、完全な敵地だ」
「ふむ」
卑弥呼は、無言で扇を閉じた。
自らの提案でくじ引きとなった以上、もはや文句は言えない。
その横で、橙の髪を揺らす料理人のアカネが、苛立ちを隠さずに叫んだ。
「ちょっと! どうなってんのよこれ! あたしたちだけ罰ゲームじゃない!」
アカネは腰に手を当て、タケヒコを睨みつける。
「安芸まで行って、夜に浴びるほど酒を飲まされた連中の相手よ? 翌朝なんて、二日酔いでグロッキーになってるに決まってるじゃない。味もわからない、話も聞けない。そんな状態でどうやって勝てって言うのよ?」
アカネの鋭い指摘に、タケヒコはさらに肩を落とす。
だが一人、朔だけは、安芸への航路図と、手元の食材リストを見比べながら、静かに口角を上げていた。
「いや、この順番なら勝てるかもしれない」
「え? サク、どうして?」
「おそらく不弥国は、自分たちの富を見せつけるために、制限時間いっぱいまで飲み食いさせるはず。そこに勝算がある」
朔の顔は、あり得ないほどに自信に満ちていた。
◇◆◇◆◇◆◇
数日後。
舞台は邪馬台国から、瀬戸内海の要衝「安芸の国」へと移った。
穏やかな波が打ち寄せる安芸の浜辺には、色とりどりの旗を掲げた各国の船が停泊し、異様な熱気に包まれていた。
主賓である対馬国の船、ホスト国である安芸の軍船、安芸と同盟国である不弥国の豪華な輸送船。
そして、隅の方に控えめに停泊する邪馬台国の船。
浜辺の中央には、急ごしらえながらも立派な祭壇と、各国の代表が座るための席が設けられていた。
開会式とも呼べるその場には、三カ国の代表と、対馬王イサリビが一堂に会していた。
「これより、対馬国港湾管理権を賭けた、三カ国合同接待の儀を執り行う!」
安芸の兵士が太鼓を打ち鳴らし、高らかに宣言する。
海風にはためく旗の下、各国の視線が交錯し、火花を散らしていた。
安芸の王ジリトは、自国の豊かな海を背に、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「ふん。邪馬台国ごときが、この海のど真ん中で我らに勝てる道理がないわ」
その隣で、不弥国の使者も脂ぎった顔を歪めて嘲笑う。
「全くだ。我らの財力と安芸の地の利。この最強の布陣を崩せるものなら崩してみよ」
完全なるアウェイ。
敵意と嘲笑の視線を浴びながらも、邪馬台国の宰相タケヒコは緊張で胃を押さえ、その背後で朔は静かに海を見つめていた。
勝負の時は来たのだ。
太鼓の音が止むと同時に、対馬王イサリビと、その民たち二十名が席に着く。
痩せこけた彼らの目は、期待と不安に揺れていた。
「では、最初の刻! 『昼の刻』担当、安芸の国!」
進行役の声が響き渡る。
先陣を切るのは、ホスト国の安芸。
彼らは「ホーム」の利点を最大限に活かした。




