EP.28 路上のセレナーデ
第2部あらすじ
夏のインディーズフェスを経て、フレイミングパイには固定客がつきつつあった。秋、レアの17歳の誕生日を祝い、充実したライブ活動を展開していく最中、ROCK STEADYオーナーの岩田恒太郎が愛未に衝撃の告白をする。「このままでは半年持たない」——ライブハウスの経営危機だった。
フレイミングパイは「音楽の力でライブハウスを守る」と決意。愛未の提案により、ライバルバンド「ブラックシトラス」と手を組む「二大看板作戦」が始動する。両バンドの頭文字を取った「B.F Day」を定期開催し、集客増加を目指すことになった。
カグラが学業との両立に悩む中、シーとポンズは「シーポンズ」としてアコースティックライブを担当。松山城や道後温泉を巡る中で生まれた新曲「オレンジの坂道」が好評を博す。一方、カグラは母親との対話を経てバンド継続への理解を得て、初のオリジナル曲「Evening Calm(夕凪)」を完成させる。
12月、対バンイベント「B.F祭」が開催される。シー×マキ×レアによる羊文学カバー、ポンズ×カグラを含む5人でのイーグルス「Hotel California」など、両バンドの垣根を超えたコラボが実現。イベントは大成功を収め、ブラックシトラスのインディーズデビューが発表される。
しかしイベントの直後、シーと愛未の間に亀裂が生じる。愛未がブラックシトラスのデビューに関わっていたことに対する誤解から、シーは感情的に衝突してしまう。だが愛未が打ち明けた真実は、シーの想像とは全く異なるものだった——愛未は会社を辞め、個人事務所「サトウ・ミュージック・オフィス(STM)」を設立する。そして最初の契約アーティストはフレイミングパイだという。愛未がピアノで弾き語る「俺たちの詩」に、メンバー全員と愛未は涙を流しながら新しい家族としての絆を確かめ合った。
年末、カグラの16歳の誕生日を祝い、大晦日にはポンズの祖父率いる「昭和ロッカーズ」との三世代セッションライブが実現。ビートルズナンバーで年を越し、レアの兄・翔太との出会いも果たす。
新年、「マツヤンドリームセッション」への出演を経て、岩田オーナーが過労で入院。愛未がライブハウスの共同経営者に就任し、STMが正式に始動する。保護者たちとのマネジメント契約も締結され、フレイミングパイはプロとしての第一歩を踏み出した。
春、初のラジオ出演を果たし、「STUDIO T-STEADY」で5曲入りミニアルバム「フレイミングパイ」のレコーディングに挑む。カグラは「Evening Calm」に歌詞を付け、自らボーカルを務めることを決意する。
そしてROCK STEADY 15周年記念ライブ。二部構成のステージで、カグラが自作曲を歌い上げ、ポンズも初の完全オリジナル曲「SEE YOU」を披露する。会場が一体となった感動のライブの最後、サプライズ発表が行われた——中四国ライブツアーの開催と、ラジオ番組パーソナリティへの就任。
ライブハウスの危機から始まった第2部は、フレイミングパイがプロアーティストとして羽ばたく瞬間で幕を閉じる。ホームを守り抜いた四人と愛未は、いよいよ四国の外へと活動の場を広げていく。
桜の花びらが風に舞っていた。
四月の松山、石手川の土手沿いをシーは走っていた。朝六時。まだ街が目覚める前の静けさの中、シーの足音だけが規則正しく響く。
フード付きのランニングウェアをはおり、レギンスにショートパンツ、ナイキのシューズにキャップ、そしてイヤホンからはポンズセレクトの洋楽プレイリストが流れている。
ROCK STEADYの十五周年ライブが終わってから数日、あの熱狂がまだ体のどこかに残っているような気がした。
ライブハウスを守れた安堵と、これから始まる新しい挑戦への期待。中四国ツアーの発表に、客席が沸いたのを思い出す。
聴いている音楽が、着信の音に変わる。スマホを走りながら取り出すと、ポンズからだった。
それにしても、こんな早い時間帯にかかってくるのは珍しい。
立ち止まり、キャップを取って、仰ぎながら電話に出た。
「もしもし」
「シー、ごめん……」
鼻声だった。明らかに風邪をひいている。
「今日の路上ライブ、うち行けんかもしれん」
「声、ガラガラやん。大丈夫なん?」
「昨日の夜から熱出て……お母さんに絶対寝とけって言われとる」
「そりゃそうよ。今日はうち一人でやるけん、ポンズはゆっくり寝とって」
「ごめんね、シー」
「ええって。早よ治しいよ」
電話を切って、シーは呟いた。
「ポンズでも風邪ひくんや……」
そばにポンズがいたら「どういう意味や!」と突っ込んでくるかなと、少し笑った。
一人での路上ライブは久しぶりだ。フレイミングパイとして活動を始めてから、シーポンズで路上ライブをすることがほとんどだった。でも、もともとシーは一人で路上に立っていた。原点に戻るだけだ。
土手の向こう側から、誰かが走ってくるのが見えた。同じようにランニングをしている人だろう。ここは人気のコースだ。朝夕とランナーも多い。
その人影が近づいてくる。男の子だった。シーと同い年くらいか、少し上だろうか。背は高くないが、しっかりとした体つきをしている。
彼がシーの顔を見た瞬間、目を見開いた。
「あっ……おわっ!」
シーの顔を見て、何か気づいたようだったが、足がもつれ、彼は土手の斜面を転がり落ちていった。
「えっ!? ちょっと!」
シーは慌てて斜面に近づき、見下ろそうとした。しかし朝露で濡れた草に足を滑らせ、自分もバランスを崩してしまう。
「わっ……!」
転がりそうになるシーを、下で起き上がりかけていた彼が受け止めた。
二人とも草の上に倒れ込む。シーは彼の腕の中にいた。
数秒、時間が止まったような気がした。
彼の目が間近にあった。黒い瞳。驚きと、それから少しの戸惑い。
「……大丈夫?」
彼が言った。低くて、でも優しい声だった。
シーは弾かれたように体を起こした。
「ご、ごめん……」
「いや、俺が先に転んだけん……」
彼も起き上がり、草を払いながら苦笑した。そしてシーの帽子を拾って、丁寧に砂を払ってから渡してくれた。
気まずい沈黙が流れた。桜の花びらが二人の間を通り過ぎていく。
「あ、あの、怪我ない?」
「うん、平気。そっちは?」
「俺も平気……うん、中身が入れ替わったりはしてないみたい……」
「え...? ぷっ、ふふふ」
彼が、よくある恋愛映画やアニメのシチュエーションを言うものだから、シーは吹き出してしまった。
屈託なく笑うシーを見て、男の子は頬を赤らめ、思い切って声をかけた。
「あの……フレイミングパイの子だよね。俺、黒崎。黒崎拓巳っていいます」
彼が照れくさそうに名乗った。頬が少し赤くなっている。それはシーも同じだった。転んだからか、笑ったからか、それとも……。
「うちは、真白詩音、うちのこと、知っとるん?」
「詩音ちゃんか...うん、大街道でライブやってるの見たし、ポスターでも見たことあった」
「ああ」
「大街道のライブすごくカッコよかったよ」
拓巳は少し笑った。笑うと、思ったより柔らかい顔になった。目尻が下がって、どこか人懐っこい印象に変わる。
シーはそう言われて、少し照れくさかった。頬を赤らめたまま、ただ微笑んでいた。
「いつもランニングしてるの?」
「……毎朝、このへん走りよるよ」
言ってから、シーは自分の言葉に少し驚いた。なぜそんなことを教えたのだろう。
「俺は春休みから走り始めたんよ。頑張ってね、応援してる。じゃ」
拓巳は軽く手を上げて、土手を上っていった。シーはその背中を見送ってから、自分も走り出した。
心臓がまだ少し速く打っている。転んだせいだ。きっとそうだ。
◇
夕方、シーは大街道の路上に立っていた。
ギターを抱え、一人でマイクの前に立つ。久しぶりの感覚だった。フレイミングパイとして立つステージとは違う。でも、これが自分の原点だった。
一曲目を歌い始める。
通りを歩く人たちが足を止める。十五周年ライブの反響か、中四国ツアーの告知をSNSで見て来てくれたのか、新しい顔が多かった。制服姿の高校生グループがスマートフォンを構えていた。制服からして美咲と同じ学校だろうか。
美咲は、シーが中学生の頃から熱心に来てくれるファンの一人だ。今年に入って、大街道でのマツヤンプロジェクトのイベントにゲストに迎えてもらったが、そのイベント担当をしていたのが美咲だった。
三曲歌い終えた頃には、人だかりが大きくなっていた。いつもいる美咲は今日はいないようだったが、代わりに新しいファンが増えている手応えがあった。
「ありがとうございます。フレイミングパイ、来月から中四国ツアー始めます。松山のライブハウスROCK STEADYで定期ライブもやっとるけん、よかったら来てください」
用意していたチケットを何枚か手売りした。思ったより売れたが、それでも少し余った。
客が去り、機材を片付けていると、声をかけられた。
「詩音ちゃん」
振り向くと、朝の彼がいた。黒崎拓巳。
「あ……」
「やっぱり詩音ちゃんやった。すごいな、歌」
「見とったん?」
「途中から。バンドだけやないんやね。ひとりで弾き語りもするんや」
「いや、もともとソロでやってたんよ。今日はいつもの相方が風邪でお休みなん」
拓巳の視線がシーのギターに向いた。真剣な目だった。さっきまでの柔らかい表情とは違う、何かを見極めようとする職人の目。
「それ、見せてもらってもええ?」
「ギター?」
「うん。ちょっとだけ」
シーは不思議に思いながらも、ギターを手渡した。拓巳は丁寧にそれを受け取り、じっくりと眺め始めた。ボディの曲線を指でなぞり、ネックを確かめ、ペグを見る。まるで生き物を扱うように、大切そうに。
「弦...緩めていい?」
「うん、いいけど」
彼は一番細い弦、一弦から慎重に緩める。三弦にかかったところで言った。
「三弦って、緩めるときに切れない?」
「うん...うちは、グリスをナット溝に塗ってるよ」
「へえ、さすが!」
「なんか、動画で見た...でも今はライブ終わったら全部張り替えてるから」
「プロやん」
「一応プロやし」
二人は自然と笑い合った。弦を緩めると、拓巳はポケットから小さな鏡のようなものを取り出した。歯医者が使うような、柄のついた丸い鏡だ。
「何それ?」
「インスペクションミラー。ギターの中を見るためのもの」
拓巳はサウンドホールから鏡を差し込み、内部を覗き込んだ。その横顔は真剣そのもので、シーは思わず見入ってしまった。
「ヘッドウェイのHMJ-WX、これすごい職人さんが作ったギターでね、ブレーシングが特徴的なんよ」
「ブレー……何?」
「ブレーシング。ギターの中の骨組みみたいなもん。音の響きに影響するんよ。アコースティックギターは基本、表板の裏にこうXにブレーシングがあって、このギターはここにもう一つXがあるんよ」
拓巳は身振り手振りを交えながら説明してくれた。難しい話なのに、わかりやすく伝えようとしてくれている。
「あ、そういえば、”だからダブルエックスなんや”って聞いたわ」
シーは以前、ギターに詳しいおじさんに同じようなことを教えてもらっていたことを思い出した。
「すごい詳しいんやね」
「俺、ギタークラフトマンになりたいんよ」
「ギタークラフトマン?」
「ギターを作る職人。いつか自分の手でギターを作りたい」
拓巳の目が輝いていた。夢を語る人の目だった。シーは少し眩しいような気持ちでそれを見た。音楽のことを語る時の自分も、こんな目をしているのだろうか。
「詩音ちゃんは、いつからギター弾きよるん?」
「小3から」
「このギターは?」
「お父さんの形見……」
「え? ……ごめん」
「ええよ別に」
「でも、大事にしとるのがわかる。ええ音しとった」
拓巳がギターを返してくれた。その手つきが優しかった。形見だと知って、さらに丁寧になったような気がした。
「大切なギターやのにありがとう、何かお礼したいな」
それならと、シーはバッグの中からチケットを取り出した。
「来週、バンドの定期ライブあるんやけど。よかったら来ん?」
「うん! 行きたい!」
「1,500円になりまーす」
シーは悪戯っぽく笑って言った。拓巳は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「商売上手やね」
「当然」
拓巳は財布を取り出し、チケット代を払った。
「ありがとう。楽しみにしとる」
彼は手を振って去っていった。シーは手の中のお金を見つめた。
なぜだかわからないが、妙に嬉しかった。
◇
そして週末、ROCK STEADYでの定期ライブ。
ポンズは無事に復活していた。カグラもレアも、いつも通り。愛未やヤマケンが見守る中、フレイミングパイは四人でステージに立った。
シーは客席を見渡した。
いた。
後ろの方、壁際に立っている黒崎拓巳。目が合うと、小さく手を上げてくれた。
シーの胸が高鳴った。
「ほんじゃ、いこう!」
いつものポンズの掛け声より先に、シーが掛け声をかけた。バンドはいつものように全体でコードを大音量で鳴らし始める。そして、ポンズがいつもの声をあげる。
「フレイミングパイ、行っくでえええ!」
シーはより力が入った。声がよく出る。指が滑らかに動く。拓巳が見ている。自分の音楽を聴いてくれている。
その事実が、シーの演奏を押し上げていた。
ライブが終わり、楽屋に戻ると、ポンズが言った。
「シー、今日なんかいつもより弾けとったなあ」
「そう?」
「うん...なんか笑顔、多かったで」
レアもそう言うと、カグラも頷いた。
「声もよう出とったしな」
ポンズがそう言うと、シーは少し照れた。
「調子よかっただけやって!朝のランニングの効果よ!」
シーはごまかしたが、心の中では認めていた。
拓巳が来てくれたから。それだけで、こんなにも変わるものなのか。
◇
それから、朝のランニングで拓巳と会うことが増えた。
最初は偶然を装っていた。でも次第に、お互いが出会えそうな時間を調整するようになった。土手沿いを並んで走りながら、二人は話をした。
「拓巳くんは何でギター作りたいん?」
「中学の時、おじいちゃんのギター見つけたんよ。古いクラシックギターで、ボロボロやったんやけど、弾いたらすごくええ音がして」
「へえ」
「調べたら、もう潰れたメーカーのギターやった。修理してくれる人も見つからんくて、自分で直そうとしたんよ。そしたらギターの構造に興味が出てきて」
「それで職人になろうって?」
「うん」
拓巳は走りながらも、ギターの話になると目が輝く。手を動かしながら説明する癖があって、時々バランスを崩しそうになる。シーはそれを見るたびに、少し笑ってしまう。
「詩音ちゃんは? 何で音楽始めたん?」
シーは少し考えた。
「最初は寂しさを紛らわすため、父さんが弾いてたギターの音が恋しかったんやと思う。そのうち、自分で歌書くようになった」
「続けられた理由は?」
「……歌っとると、自分が自分でおれる気がするけん」
拓巳は黙って聞いていた。時に頷き、相槌を打つ。その仕草や声がとても優しく、ちゃんと聞いてくれているのがわかった。その静かな聞き方が、シーには心地よかった。言葉を受け止めてくれている、そんな感じがした。
「詩音ちゃんのギター、ブリッジのところ、少し浮いてきとるね」
「え、そうなん?」
「うん。今すぐどうこうはないけど、いつかメンテナンスした方がええかも」
「全然気づかんかった」
「普通は気づかんよ。俺が見すぎなだけ」
拓巳が笑った。照れたような、でも嬉しそうな笑顔。シーも笑った。
ギターのこと、音楽のこと、くだらない話、将来のこと。走りながら色々な話をした。シーは今まで興味のなかったギターの構造について、ずいぶん詳しくなっていった。
トップ板の材質で音が変わること。ブレーシングのパターンや削り方で響きが違うこと。ネックの反りやフレットの高さが演奏性に影響すること。
拓巳の話を聞いていると、ギターが生き物のように思えてきた。木が呼吸をして、音を出して、弾く人と一緒に成長していく。
知識が増えるたびに、自分のギターがもっと愛おしくなった。父の形見のギター。今まで以上に大切に思えた。
同時に、拓巳のことも。
◇
四月中旬は、雨の日が続いた。
松山の春は意外と雨が多い。桜が散り、緑が濃くなっていく季節。石手川の土手は、雨に濡れて走るには、少々肌寒く感じられる。
その日も朝から雨だった。シーは迷ったが、レインウェアを着て走りに出た。拓巳に会えるかもしれないと思ったからだ。
会いたい。その気持ちが、雨よりも強かった。
土手に出ると、案の定、拓巳がいた。彼もまたレインウェアを着て走っている。
「拓巳くん!」
「詩音ちゃん! 今日も来たんや」
「そっちこそ」
二人は顔を見合わせて笑った。雨に濡れながら、それでも会いたかった。その気持ちが同じだったことが、シーには嬉しかった。
こんな雨の中、わざわざ走りに来る理由なんて、一つしかない。お互い、わかっているはずだ。でも、それを口にはしない。
「強くなってきたね。あそこの橋の下、行こ」
拓巳が言った。二人は土手下の河川敷を走り、橋の下に駆け込んだ。
コンクリートの天井が雨を遮ってくれる。川の音と雨の音が混ざり合って、不思議な静けさを作っていた。
「ここ、ええ雨宿り場所やね」
「うん。夏はいい休憩場所になるよ。蚊が出るけど」
シーは息を整えながら、髪についた雨粒を払った。拓巳も同じようにしている。
二人きりだった。雨音に包まれて、世界から切り離されたような場所。
急に、静けさが怖くなった。雨の音しか聞こえない。自分の呼吸と、隣にいる彼の呼吸。それだけが、この空間を満たしている。
「詩音ちゃん」
拓巳が言った。いつもより少し低い声だった。
「ん?」
シーは拓巳の方を見た。彼も、シーを見ていた。
目が合った。
一瞬、息が止まった。彼の黒い瞳に、自分が映っているのが見えた。
「……いや、なんでもない」
拓巳が視線を逸らした。川の方を見ている。横顔が、少し寂しそうに見えた。
何を言おうとしたのだろう。聞きたかった。でも、聞けなかった。
聞いてしまったら、何かが変わってしまう気がした。この穏やかな時間が、壊れてしまう気がした。
今のままがいい。そう思った。毎朝会えて、一緒に走れて、話ができる。それだけで十分だと、自分に言い聞かせた。
「春の雨、うっとうしいよね」
「うん」
「……もうちょっと、ここにおろ」
「うん」
二人は並んで座り、雨が弱まるのを待った。肩が触れそうで触れない距離。その数センチが、とても近くて、とても遠かった。
シーは自分の心臓の音が聞こえそうで、少し怖かった。彼にも聞こえているんじゃないか。そう思うと、余計に鼓動が速くなる。
手を伸ばせば届く距離に、彼がいる。
でも、伸ばせない。伸ばしてはいけない気がした。
シーは自分の気持ちに気づいていた。拓巳のことが好きだ。でも、それを口にする勇気はなかった。
彼には夢がある。ギタークラフトマンになるという夢。その夢を邪魔したくなかった。
そして自分にも、音楽がある。フレイミングパイがある。武道館を目指すという、途方もない夢がある。
今はそれでいい。
シーはそう思うことにした。
雨音だけが、二人の間を流れていた。
その日から数日、拓巳は朝のランニングに現れなかった。
◇
四月下旬の土曜日。
大街道での路上ライブ。ポンズと二人で数曲を歌った。
路上ライブの客足は、アーケード街の通行に支障をきたすほど伸びていた。SNSでの口コミが広がっているのか、遠方から来てくれるファンもいる。顔なじみも増えて、その輪は温かい空気感であったが、そろそろ限界のような気がした。
「ありがとうございました! 来月からツアー始まるけん、しばらく路上には来れんけど、ファイナルは松山やから、そのときはライブハウスに来てください!よろしくお願いします!」
ポンズが元気よく締めくくり、観客が拍手をして二人に声をかけつつ散っていく。
観客たちがいなくなり、機材を片付けていると、シーは誰かの視線を感じた。
振り向くと、拓巳がいた。
「拓巳くん!」
数日ぶりに彼の顔を見て、シーは頬を赤らめた。いつもの柔らかい笑顔。でも、どこか違った。目の奥に、決意のようなものが見えた。
「よかった会えた!詩音ちゃん、ちょっとええ?」
「うん…」
二人は少し離れた場所に移動した。ポンズが不思議そうな顔でこちらを見ていたが、シーは気づかないふりをした。
「あのね、詩音ちゃん」
拓巳が口を開いた。まっすぐにシーを見ていた。
「明日から、岐阜に行くことになった」
「……岐阜?」
「ギターメーカーに就職が決まったんよ。たまたま空きが出て昨日まで面接行ったり、住むとこ決めたりしてね、で、すぐにでもおいでって言ってもらったん」
シーは言葉を失った。あの雨の朝、言いかけたのはこのことだったのだろうか。
でも、シーにはわかっていた。彼には夢がある。そのために努力してきたことも、いつかその夢に向かって羽ばたくことも。
でも、こんなに早いとは思わなかった。
「おめでとう」
声が震えないように、シーは必死だった。笑わなきゃ。泣いたらだめだ。彼の門出を、笑顔で送り出さなきゃ。
「ありがとう。詩音ちゃんに会えてよかった。ギターのこと、もっと好きになれた」
「うちも……拓巳くんのおかげで、ギターのこと詳しくなったよ」
もっと言いたいことがあった。一緒に走れて楽しかった。雨の日も会いに来てくれて嬉しかった。キミの夢を語る目が、好きだった。
でも、言葉にならなかった。言ってしまったら、きっと泣いてしまう。
「いつか俺が作ったギター、詩音ちゃんに弾いてもらうけん」
「……うん。いつか」
いつか。その言葉が、約束みたいに響いた。
拓巳が手を差し出した。大きくて、少しだけ荒れた手。ギターの木を触り続けてきた手。この手が、いつか素晴らしいギターを作るのだろう。
シーはその手を握った。
温かかった。この温もりを、忘れたくないと思った。
「元気で、詩音ちゃんの歌、聞いて頑張るけん」
「うん。拓巳くんも元気で、うちも頑張るけん」
笑顔で言えた。ちゃんと笑えた。
握った手を、離したくなかった。でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。
二人は名残惜しそうに、手をほどいた。指先が離れる瞬間、シーの胸がきゅっと締めつけられた。
拓巳はその手を振って去って行った。
その背中が見えなくなるまで、シーは見送った。もう一度顔を見たかった。でも、振り返らないでほしかった。振り返られたら、きっと追いかけてしまう。
「シー、誰今の?」
後ろからポンズの声がした。
「ポンズ……」
「どしたん、シー」
ポンズが心配そうに近づいてくる。
シーはあの時のことを思い出していた。愛未のことを誤解し、自分の気持ちをちゃんと話さなかったシーに、ポンズが怒ったあの日のこと。
『シーのあほ! 何か思うことあったら、うちに話してよ!』
あの言葉があったから、ポンズには素直になれる。
「ポンズ、前に怒ったよな。思うことあったらちゃんと話してって」
シーは背中でポンズに言った。
「うん……」
シーは振り返った。その頬には涙が伝っていた。
「うち、失恋したかもしれん」
声が震えた。涙が止まらなかった。
ポンズは何も言わず、シーを抱きしめた。
「よしよし……」
温かかった。ポンズの体温が、優しさが、シーの心に染み込んでいく。
「好きやったん?」
「……わからん。でも、会えんくなるの、すごく寂しい」
「それは好きやったんよ、きっと」
ポンズがシーの背中をさすった。
「泣きたいだけ泣きい。うちがおるけん」
シーはポンズの肩に顔を埋めて泣いた。
桜はもう散っていた。街路樹の緑が夕日に照らされて、オレンジ色に輝いている。
春が終わろうとしていた。
◇
翌朝、シーは土手を走っていた。
いつもの時間、いつものコース。
拓巳はもういない。今頃、岐阜へ向かう電車の中だろうか。
土手から河川敷のコースへ入ると、橋の下が見えてきた。雨宿りをしたあの場所。
シーは足を止めなかった。
振り返らなかった。
橋の下を通り過ぎながら、シーは思った。
この気持ちは、全部歌にしよう。
拓巳との出会い、一緒に走った朝、雨宿りの時間、そして別れ。全部、歌にしよう。
それがシーにできることだ。それがシーのやり方だ。
いつか、拓巳が作ったギターで、その歌を弾く日が来るかもしれない。
でもそれは、いつかの話。
今は、走る。前だけを見て。
フレイミングパイの中四国ツアーは、来月から始まる。香川、高知、徳島、広島、淡路。色々な場所で、色々な人と出会うだろう。新しい景色が待っている。新しい音楽が生まれる。
シーは走り続けた。
朝日が川を照らしている。
新しい季節が、始まろうとしていた。




