EP.1 ストリート・ミュージシャン
「ポール師匠、行ってきまーす!」
光月寛奈は、部屋のドアを開ける前に、壁に貼られたポール・マッカートニーのポスターに向かってビシッと敬礼した。
ポスターの中のポールは、ヘフナーのヴァイオリンベースを構えて、いつものように優しく微笑んでいる。
「今日も頑張るけん、見守っとってね!」
この日課は、小学四年生の時に祖父の家でポールと出会って以来、もう六年も続いている。
*
寛奈が祖父からもらったものは、音楽への愛だけではなかった。
中学一年の誕生日。祖父は寛奈に特別なプレゼントをくれた。
「かんちゃん、誕生日おめでとう」
祖父が差し出したのは、大きなケース。開けてみると、そこにはヘフナーのヴァイオリンベースHCT-500が入っていた。ポール・マッカートニーと同じようにレフティモデルだ。
寛奈は涙が出そうになった。
「おじいちゃん……これ、すごい高いやつやん……」
「かんちゃんがポールを超える日のために、じいちゃんの貯金、全部使うたった」
「えっ、全部!? おじいちゃん、お金大丈夫なん!?」
「冗談や。半分くらいや」
「半分でも大変やん!」
祖父は笑いながら、寛奈の頭をぽんぽんと叩いた。
「かんちゃんがプロになって、武道館でライブする時、じいちゃんを招待してくれたらそれでええ」
「絶対する! 最前列の真ん中、おじいちゃん専用席にするけん!」
「そりゃ楽しみや」
寛奈は新しいベースを抱きしめながら、心の中で誓った。絶対にこの恩は返す。おじいちゃんを武道館に連れていく。そのためなら、何だってやってやる。
こうして寛奈は、祖父からもらったエピフォン・テキサンとヘフナーのヴァイオリンベースを手に、毎日毎日、練習に明け暮れた。
*
ビートルズの楽曲はもちろん、ポール・マッカートニーのソロアルバムも聴き込んだ。ウイングス時代の曲も、近年のアルバムも、手に入るものは全部聴いた。ポールの弾くベースライン、ギターのフレーズ、作曲のニュアンス。すべてを吸収しようとした。
すっかりポール・マッカートニーを崇拝するようになった寛奈は、同級生からは「ビートルズオタク」と呼ばれていた。
「ねえ寛奈、今度のカラオケ、何歌うん?」
「もちろんビートルズや! 『Let It Be』か『Hey Jude』か迷うなあ」
「……古い」
「古くない! 名曲は永遠なんや!」
同級生たちには全く話が通じなかったが、祖父の音楽仲間たちは違った。
祖父には、若い頃からの音楽仲間が何人かいた。みんな六十代から七十代で、今でも時々集まってはセッションをしている。寛奈がポールやビートルズについて熱弁をふるうと、彼らは目を細めて聞いてくれた。
「邦彦さんの孫、ええ子やなあ」
「うちらが若い頃と同じ熱量や。懐かしいわ」
「かんちゃん、今度一緒に演奏しようや」
寛奈は彼らと一緒に演奏したり、小さなライブに参加したりするようになった。おじさんたちから、コードの押さえ方、ストロークのコツ、ベースラインの作り方、機材のことやステージでの立ち振る舞い……プロではないけれど、長年の経験から培った様々なことを教わった。
そうやって実践を積み重ねるうちに、寛奈のギターとベースの腕前はめきめきと上達していった。最近ではボーカルも任されるようになっていた。
*
中学三年の冬。進路を決める時期がやってきた。
寛奈の胸の中には、バンド結成への憧れが日に日に強くなっていた。おじさんたちとの演奏は楽しいけれど、やっぱり同年代の仲間とバンドを組みたい。一緒に夢を追いかけられる仲間が欲しい。
「おじいちゃん、うちもバンド組めるかなあ?」
ある日、祖父の部屋で、寛奈はそう尋ねた。
「組めるやろ。かんちゃんの腕なら」
「でも、メンバーおらんのよ。学校でバンドやりたい子、全然おらんし」
「そうかあ。かんちゃんにも、ジョンみたいな相棒やジョージ、リンゴみたいのがおったらええのにな」
祖父は壁に貼られたビートルズのポスターを見上げた。1966年の日本公演の時の写真。日の丸を背景に、四人が並んでスタンバイしている。
「よし!」
寛奈は急に立ち上がった。
「うち、ジョン、ジョージ、リンゴを探すけん!」
「おお、そうか」
「絶対見つける! そして、目指せ武道館や!」
祖父は目を細めて微笑んだ。
「うん、おったらええねえ」
「おったらええねえ、やなくて、絶対見つけるんや!」
「はいはい、頑張りや」
祖父は笑いながら、孫の背中を叩いた。
*
寛奈が進学先に選んだのは、フレキシブルスクールと呼ばれる単位制の高校だった。
学業とアルバイトを両立し、バンド活動もしたい。そのためには、時間に融通のきく学校がいい。寛奈はそう考えて、この学校を選んだ。
当然、両親は反対した。
「寛奈、普通の高校に行きなさい。大学進学のことも考えて」
「お母さん、うちは音楽やりたいんよ」
「音楽なんて、趣味でやればいいでしょ。仕事にするのは難しいんだから」
「難しいかどうかは、やってみんとわからんやん」
母との平行線の議論が続く中、祖父が割って入った。
「かんちゃんの好きにさせたってくれんかな」
「お義父さん、でも……」
「親父まで…」
「わしも若い頃、音楽の道に進みたかった。でも諦めたんよ。いや、後悔しとるわけやない。今こうして家族があるんも、そのときの選択のおかげや。でも、現代はいろんな選択肢があるやろ。こうじゃないとあかんとか、この道やないとあかん、なんていうことはないはずやで」
祖父は静かに、しかし力強く言った。
「かんちゃんには…今の子供たちにはどんな選択肢を与えてやってもええやろ。失敗してもええ、やりたいことに挑戦させてやってくれ」
両親はそれ以上何も言わなかった。祖父の言葉には、長年の想いや経験の裏付けがあった。
「……わかった。でも、ちゃんと卒業はしなさいよ」
「まあ。父さんもこういうの、憧れだけで終わったしな…」
「うん! ありがとう、お父さん!お母さん! おじいちゃんも!」
寛奈は三人に抱きついた。
*
四月。高校生活が始まった。
フレキシブルスクールは制服がなく、私服で通学できた。寛奈は毎日、好きなバンドのTシャツを着て学校に行った。
授業は午前十時半頃から始まり、一日四コマを受講する。もう二コマ選択して受講することもできるが、寛奈は四年かけて卒業するつもりでいた。急ぐ必要はない。その分、音楽に時間を使いたい。
アルバイトは祖父の知り合いの紹介で、ポスティングの仕事を始めた。本当はライブハウスでスタッフとして働きたかったのだが、十八歳未満では雇ってもらえなかった。
「仕方ないか……あと二年の辛抱や」
ポスティングは正直、地味な仕事だった。チラシの束を持って、一軒一軒のポストに投函していく。自転車の乗り降りは疲れるし、夏は暑いだろうし、冬は寒いだろう。でも、時間の融通がきくし、道中、頭の中で曲を作ることもできる。
「まあ、これはこれでありやな」
寛奈は前向きに考えることにした。
*
学校とバイトに慣れてきた四月下旬の土曜日。
寛奈は松山のアーケード街を歩いていた。
大街道から銀天街へと続くこのアーケードは、松山の中心部を貫く商店街だ。歴史ある古い建物と、新しくできたおしゃれな店が混在している。頭上にはアーケードの屋根が続き、雨の日でも濡れずに歩ける。
路面電車がのんびりと街の中を走り、観光客や地元の人たちが行き交っている。道後温泉にもほど近いこの街には、どこか独特の温かい雰囲気があった。寛奈はこの街が好きだった。
アーケード街を歩く目的は一つ。バンドメンバー探しだ。
このあたりには、ストリートミュージシャンがよく出没する。ライブハウスや楽器店、CDショップには、バンドメンバー募集のチラシが貼られている。SNSでも探しているが、実際に足を運んで、自分の目で見て、耳で聴いて探したかった。
「えーと、今日のチラシは……」
寛奈はチケット販売も行うCDショップの掲示板をチェックした。
「ギタリスト募集……ドラマー募集……ボーカル募集……」
一通り見て、寛奈はため息をついた。
「SNS見てもチラシ見ても、まあベースだけ募集ってのはないな」
ベーシストはギターが弾ければ、ギタリストが転向することができる。そう思えばドラマーを探すよりは容易だ。逆に言えば、ベーシストがバンドメンバーを探そうという発想自体が稀少なのかもしれない。
「うちがバンド組むなら、ボーカルとリードギターと、ドラムやな……」
トボトボと歩きながら、寛奈は考え込んでいた。
*
その時だった。
少し先に、人だかりができているのが見えた。
ギターをかき鳴らす音。そして、少女の歌声が響いている。
寛奈は足を止めた。
(この声……)
自然と、頭の中でベースラインが動き始めた。彼女のギターに、低音を重ねていく。寛奈の癖だった。街で音楽を聴くと、つい頭の中でベースを弾いてしまう。
(弾き語りやけど……フォークっぽくはないな。これはロックや)
寛奈は人だかりをかき分けて、そのストリートミュージシャンが見える位置まで進んだ。
*
少女は、ショートカットにメッシュの入った髪をしていた。
年齢は寛奈と同じくらいか、少し下か。破れたデニムのパンツに、シンプルな黒いTシャツ。小柄な体で、ブラウンサンバーストのアコースティックギターを抱えている。
見た目は小柄で華奢なのに、歌声は力強かった。腹の底から声を出している。ギターのストロークも荒々しく、でも正確だ。
足元には開けられたギターケース。その横に手書きのポップが置かれている。
「真白詩音 - Shion Mashiro - 15歳 CD 1,000円 ライブのあとお声がけください」
(真白詩音……十五歳か。うちと同い年やん)
寛奈は彼女の演奏に聴き入った。
*
彼女の楽曲は、シンプルで力強いコード進行だった。
Am - F - C - G の循環コードを基調としながら、時折EmやDmを織り交ぜて感情の起伏を作っている。ありきたりな進行と言えばそうだが、メロディーラインが秀逸だった。覚えやすいのに、どこか切ない響きがある。
歌詞は、聞き取れる範囲では、日常の中の小さな痛みや希望について歌っているようだ。大げさな言葉を使わず、等身大の感情を丁寧に紡いでいる。
(この子の歌、すごくいい……!)
寛奈は思わず息を呑んだ。
そして、頭の中で、彼女の楽曲にベースラインを重ね始めた。
Amから始まるイントロ。ルート音を基調としたシンプルなラインから始める。ドーン、ドーン、と低く響く音が、彼女のギターの下を支える。
Fに移るところで、ベースが先行してコードチェンジを示唆する。ラ、ソ、ファ、と滑らかに下降していく。そうすることで、楽曲全体の流れがより自然になる。
Cでは安定感を。Gでは次への期待感を。サビに入ったら、もう少し動きのあるラインに切り替える。
そして、彼女のボーカルにコーラスを重ねる。三度上のハーモニー。彼女の声を邪魔せず、でも確実に厚みを加える。
頭の中で、彼女の音楽が劇的に変化していった。
*
観客たちは彼女の音楽に聞き入っている。
通りすがりの人も足を止め、小さなライブ空間が自然に形成されていた。中学生くらいの女の子が目を輝かせて聴いている。サラリーマン風の男性が仕事帰りに立ち止まっている。おばあさんが買い物袋を下げたまま、じっと聴き入っている。
松山の人たちの温かさが、この小さなライブを支えているようだった。
彼女のライブが佳境に入ると、楽曲はますますヒートアップしていった。声量が上がり、ストロークが激しくなる。オーディエンスを自分の世界に引っ張り込もうとしている。
寛奈もまた、引きずり込まれそうになった。
彼女の力強い歌声。感情のこもったギターストローク。観客たちが彼女の音楽に身を委ねていく中で、寛奈も同じように魅了されそうになる。
でも。
寛奈はただ受け身で引きずり込まれるわけにはいかなかった。
(うちも、そっち側におりたい)
自分も自分の音楽で聴く人を魅了したい。ただ聴くだけではなく、彼女と同じステージで音楽に参加したい。その気持ちが、胸の奥から沸き上がってきた。
寛奈は引きずり込まれるのではなく、彼女と同じところで踏みとどまった。
彼女が観客を自分の世界に引き込もうとする、その瞬間。寛奈は頭の中で、自分の音楽を重ね合わせた。
*
想像の中で、寛奈は彼女の傍に立っていた。
ヘフナーのベースを構え、彼女のギターに合わせて弾く。彼女の歌声に合わせてコーラスを入れる。二人で、オーディエンスを魅了する。
その光景が、頭の中で鮮明にイメージされていく。
寛奈のベースラインが、彼女のAmコードに深みを与える。Fコードへの移行では、ベースが先導してコード感を強調する。Cコードでは安定感を、Gコードでは次への期待感を演出する。
寛奈のコーラスが、彼女のメインボーカルにハーモニーを添える。楽曲の感情表現が何倍にも広がっていく。
想像上のベースラインが彼女のギターと絡み合い、頭の中で歌うコーラスが彼女のメインボーカルを支えていく。一人では表現しきれない音楽的な厚みが、寛奈の脳内で鮮やかに響いている。
路上では、実際には何も変わっていない。彼女は一人でギターを弾き、一人で歌っている。
でも、寛奈にとっては全く違う音楽に聴こえていた。
まるで二人で演奏しているような。バンドとしての完成された音楽として響いている。
これこそまさに「化学反応」だった。
音楽への愛情と、彼女への憧れが混ざり合って、寛奈の心の中で特別な瞬間を作り出していた。
(見つけた……!)
寛奈の心が、大きく跳ねた。
*
ライブが終わった。
観客から拍手が起こり、彼女……真白詩音は深くお辞儀をした。そして、手作りのCDを購入するための列ができ始めた。
寛奈は迷わず、列の一番後ろに並んだ。
心臓がドキドキしている。さっきまでの興奮がまだ冷めていない。頭の中では、彼女と一緒に演奏するイメージがまだグルグルと回っている。
(落ち着け、落ち着け……。ちゃんと話さんと)
列はゆっくりと進んでいく。前の人たちが彼女と言葉を交わし、CDを受け取って去っていく。
「ありがとうございます」
「頑張ってね」
「また聴きに来るね」
詩音は一人一人に丁寧に対応している。表情は真剣で、でもどこか不思議な雰囲気がある。
そして、寛奈の番が回ってきた。
*
「あの、CD一枚ください」
寛奈は千円札を差し出した。
「ありがとうございます」
詩音がCDを渡そうとした時、寛奈は思い切って口を開いた。
「かっこよかったです」
「……ありがとうございます」
詩音は少し戸惑ったような表情を見せた。「かっこいい」と言われることには慣れていないのかもしれない。
「はい、CD」
「あの!」
CDを受け取りながら、寛奈は声を張り上げた。
詩音と目が合った。真っ直ぐな目だ。芯の通った、強い意志を感じる目。
「わたしと、バンドやりませんか?」
「は?」
詩音は怪訝そうな顔をした。いきなり何を言い出すんだ、という表情だ。
*
「わたしが、あなたの音楽を持ち上げてみせます」
寛奈は真剣な表情で言った。
「……持ち上げるって、どういう意味?」
詩音の声には警戒心が滲んでいた。
これまでも何人かの人から声をかけられたことがあった。「バンドやろう」「一緒にやりたい」。でも、大抵は詩音の音楽性を理解せず、単に「可愛い女の子のシンガー」として見ているだけだった。「顔が可愛いからメジャーデビューできるよ」「アイドルみたいにプロデュースしてあげる」そんな薄っぺらい言葉ばかり。
詩音は、自分の音楽を理解しない人とは組みたくなかった。
「さっき、あなたの楽曲を聴いていて、頭の中でベースラインをつけてたんです」
寛奈は真剣な表情で続けた。詩音の警戒心に気づいているのかいないのか、言葉が止まらない。
「一人でも十分素晴らしいけど、バンドでやったらもっと表現の幅が広がると思って……」
「…………」
「あなたの楽曲のAm-F-C-Gの進行、ありきたりな進行なのに歌の旋律がとても美しいです」
詩音の目が、少しだけ変わった。
「それにベースが入ることで、もっとダイナミックになるし、コーラスが入ることで歌詞の世界がより立体的になる。一人だからできることもあるけど、複数だからこそできることもあるんです」
詩音は少し驚いた表情を見せた。
音楽的なことを、こんなに具体的に話してくれる人に出会ったのは久しぶりだった。いや、もしかしたら初めてかもしれない。
*
「キミ、楽器できるの?」
詩音が聞いた。さっきより、少しだけ声が柔らかくなっている。
「ベースとギター、少しボーカルも。うち、ポール・マッカートニー大好きで……」
「ポール・マッカートニー……ビートルズの?」
寛奈の目がパッと輝いた。
「知っとる!? ポールのこと知っとるん!?」
「まあ……名前くらいは」
「すごい! うちの周り、誰も知らんのよ! ビートルズ古いって言われるし、ポールって誰って言われるし……」
寛奈が興奮気味に話し始めると、詩音は少し引いた表情になった。
「あ、ごめん。つい熱くなって……」
「……いや、別に」
詩音は首を傾げた。変な子だな、と思いながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「で、そのポール・マッカートニーがどうしたん?」
「うん! うち、ポールと同じ左利きで、ベースもギターも歌もやるんよ。でも一人じゃできんこともあるやん。だから、あなたみたいに才能のある人と一緒に音楽をやってみたいんです」
寛奈は真っ直ぐに詩音を見つめた。
「一人で届けられる音楽もあるけど、仲間と一緒やからこそ届けられる音楽もあると思うんよ。あなたの歌を聴いとったら、そう思った」
*
詩音は黙り込んだ。
正直、心が少し揺れていた。
この子は、これまで声をかけてきた人たちとは違う。自分の音楽を、ちゃんと聴いてくれている。コード進行のことも、メロディーのことも理解している。そして何より、目が真剣だ。
でも。
詩音には、譲れない夢があった。
「……ごめん」
詩音は首を振った。
「うちは一人でやっていきたいんよ。バンドは……考えてないけん」
「…………」
寛奈の表情が曇った。
「どうして? 一人より、複数の方がもっと……」
「うちには、ソロデビューの夢があるけん」
詩音はきっぱりと言った。
「一人で作詞作曲して、一人で歌って、一人でステージに立つ。それがうちの目標なんよ。バンドを組んだら、その夢から離れてしまう気がするけん」
「そうか……それがあなたの夢なんやね」
寛奈は静かに頷いた。詩音の夢を否定する気はなかった。夢は人それぞれだ。大切にしているものを踏みにじる権利は誰にもない。
「……ごめんね。せっかく声かけてくれたのに」
*
寛奈はがっかりした表情を見せた。
でも、すぐに顔を上げて、笑顔を作った。
「わかった。今は無理やね」
「……うん」
「でも、もしよかったら、いつかセッションとかせん?」
「セッション?」
「うん。バンドやなくていいけん、一回だけ一緒に音を出してみたいんよ。あなたの音楽、本当に素晴らしいから。うちの音と合わせたら、どんな音になるか聴いてみたい」
寛奈の目は、さっきと変わらず真剣だった。諦めの悪い子だな、と詩音は思った。でも、不思議と嫌な感じはしない。
「一回だけ?」
「うん。一回だけ。それで合わんかったら、もう諦める。でも、もし化学反応が起きたら……」
「化学反応?」
詩音は首を傾げた。変な表現を使う子だな。
「音楽やってると、たまにあるんよ。別々の音が合わさった時に、予想もせんかった新しい何かが生まれる瞬間。それが化学反応」
「…………」
「さっき、あなたの歌を聴いとる時、頭の中で楽器鳴らしとったら、それが起きた気がしたんよ。だから、実際に音を出して確かめたい」
詩音は寛奈の顔をじっと見つめた。
この子の目は、嘘をついていない。本当に、自分の音楽に何かを感じてくれたんだ。
*
「……考えとく」
詩音はそう答えた。
「ほんと!?」
寛奈の顔がパッと明るくなった。
「考えとくって言うただけやけん。やるとは言うてないよ」
「うん、わかっとる! でも嬉しい!」
「……変な子やね、キミ」
「よく言われる!」
寛奈は胸を張って答えた。詩音は思わず吹き出しそうになった。
「じゃあ、どうやって連絡するん?」
詩音が聞くと、寛奈は少し困った顔をした。
「あ……そうか、連絡先」
「一応、毎週金曜か土曜、このへんで路上ライブしとるけん」
詩音はそう言って、アーケードの一角を指差した。
「来週も?」
「たぶん。天気がよければ」
「じゃあ、来週また来る! 返事、聞かせて!」
「……わかった」
詩音は少し呆れたような、でもどこか嫌ではない表情で頷いた。
「あ、うち、光月寛奈。みつき、かんな。よろしく!」
「……真白詩音。まあ、ポップに書いとるけど」
「詩音ちゃんって呼んでいい?」
「……好きにしたらええ」
「じゃあ、詩音ちゃん! また来週ね!」
寛奈は詩音のCDを大切に抱えて、手を振った。
*
「……うん」
詩音は小さく手を振り返した。
寛奈が去っていくのを見送りながら、詩音は不思議な気持ちになっていた。
(変な子やったな……)
でも、嫌な感じはしなかった。むしろ、久しぶりに音楽の話で盛り上がれて、少し楽しかったかもしれない。
(セッション、か……)
詩音は空を見上げた。夕焼けがオレンジ色に染まり始めている。
ソロデビューの夢は、変わらない。一人で歌って、一人でステージに立つ。それが自分の目標だ。
でも……一回くらい、セッションしてみてもいいかもしれない。
あの子の言う「化学反応」が、どんなものなのか。
少しだけ、気になった。
*
一方、寛奈は足取り軽く、松山の街を歩いていた。
頭の中では、詩音の楽曲がリピートされている。そして、さっきの「化学反応」の瞬間を何度も思い出していた。
(断られたけど……でも、セッションは考えてくれるって言うてくれた)
「考えとく」だけだけど、それでもゼロではない。来週、また会える。
(あの子の音楽は、本物や)
寛奈は確信していた。真白詩音は、特別な才能を持っている。あの歌声、あのメロディーセンス、あの歌詞の世界観。
そして何より、あの真っ直ぐな目。芯の通った、強い意志。
(あの子が……うちにとっての、ジョンかもしれん)
寛奈は心の中でそう思った。
ポール・マッカートニーにとってのジョン・レノン。最高の相棒。一緒に曲を作り、一緒に演奏し、お互いを高め合った存在。
もちろん、詩音にそんなことを言うつもりはない。詩音は詩音だ。真白詩音という一人のアーティストだ。誰かに当てはめるなんて失礼だし、そんなことをする気もない。
でも、心の中で、そう思わずにはいられなかった。
今日、自分は真白詩音と出会った。
これは、何かの始まりかもしれない。
「よーし、帰ったらCD聴くぞ!」
寛奈は詩音の手作りCDを胸に抱きしめながら、陽が沈んだ後の松山の街を歩いていった。
路面電車が、ゆっくりと寛奈の横を通り過ぎていく。
アーケードの灯りが、一つ一つ点き始めていた。
*
その夜、寛奈は部屋で詩音のCDを聴いた。
路上で聴いた曲以外にも、何曲か収録されていた。どれも、シンプルだけど心に響く楽曲ばかりだった。
寛奈はヘフナーのベースを手に取り、CDに合わせて弾いてみた。
頭の中で想像していたベースラインを、実際に音にしてみる。詩音のギターと歌声に、自分のベースが重なっていく。
(うん……合う)
悪くない。でも、何か違う気もする。
寛奈はベースを置いて、今度はエピフォン・テキサンを手に取った。祖父から借りっぱなしの、あの蜂蜜色のアコースティックギター。
CDを最初から流し直して、今度はギターで合わせてみる。
詩音のストロークに、自分のベースラインやアルペジオを重ねる。詩音のコードの隙間を、自分のギターリフで埋めていく。
(あ、これや……!)
寛奈は目を見開いた。
ベースも合うけど、二人だけでやるなら、ギターの方がいい。詩音のギターと自分のギター。二本のアコースティックギターが絡み合う音。その方が、詩音の弾き語りスタイルを活かしながら、音に厚みを加えられる。
(セッション、するならテキサンやな)
寛奈は結論を出した。
壁のポスターを見上げる。ポール・マッカートニーが、いつものように微笑んでいる。
「ポール師匠、うち、最高の相棒見つけたかもしれん」
寛奈はポスターに向かって報告した。
「まだ、うんとは言うてくれてないけど……絶対、一緒にバンドやるけんね」
ポスターの中のポールは、何も答えない。でも、その微笑みは、どこか応援してくれているように見えた。
「来週、テキサン持って行こう」
寛奈はギターを抱きしめながら、そうつぶやいた。
小さな出会いが、大きな夢への第一歩になる。
それを、寛奈はまだ知らなかった。
登場人物
・光月寛奈15歳(高1)
・真白詩音15歳




