EP.0 左利きの神様
「おじいちゃん、うまくできん」
小学生の光月寛奈は、祖父に借りたギターを手に、祖父の家にやってきた。一週間前から毎日のように通っては、このギターと格闘していたが、どうしてもうまくいかない。
寛奈は祖父の部屋を見回す。祖父の好きなミュージシャンやバンド写真が壁一面に飾られているのが見える。レッド・ツェッペリン、ローリングストーンズ、イーグルス、クイーン、そしてビートルズ。他にも古いレコードジャケットが額に入れられ、大切に飾られている。
「うちもうまくなりたいな」
寛奈は再びギターを手に取った。左手で弦を押さえるのは何とかできる。でも右手が、どうしてもうまくいかない。ピックを持ってストロークしようとすると、ぎこちなくて音がかすれたり、狙った弦を弾けなかったり。
「うーん、なんでやろう」
右手首の角度を変えてみたり、ピックの持ち方を変えてみたり、いろいろ試してみるが一向に上達しない。まるで右手が自分のものじゃないみたいに感じる。
「おじいちゃん、やっぱり難しいわ。みんなこんなに苦労しとるんかな?」
寛奈は祖父の部屋のミュージシャンたちの顔ぶれを見ながらつぶやいた。ふと、ある写真に釘付けになる。寛奈はその写真に目を見開いた。
「あ、この人みんなと反対にギター持っとるよ!」
寛奈が指差したのはビートルズの1964年頃のコンサートをしている写真だった。他の二人とは確かに逆向きにギターを構えている。
「ああ、ポール・マッカートニーや。左利きやけんな」
寛奈は目を輝かせた。
「おじいちゃん、うちも左利きなんよ。このポールなんとか言う人といっしょやけん」
祖父はハッとした。
「かんちゃん、そういや左でお箸持っとったねぇ。ちょい待っとき」
祖父は寛奈に貸していた自分のギター、エピフォンのマスタービルトシリーズ、テキサンというモデルの弦を外し始めた。寛奈は興味深そうに見つめている。
「この人、ポール・マッカートニーって言うんよ。ビートルズっていう世界で一番有名なバンドのベーシストでな。この人もかんちゃんと同じ左利きで、右利き用のギターを逆さまに持って弾いたりもするんよ」
「逆さま?」
「そう。普通は右手で弾いて左手で押さえるんやけど、左利きの人は左手で弾いて右手で押さえる方が自然なんよ。でも左利き用のギターは数も少ないけん、右利き用を逆さまに持って、弦も上下逆に張り直す人もぎょうさんおるんよ」
寛奈は目をキラキラさせながら聞いている。
「それで、このポール・マッカー…トニーって人は上手なん?」
「上手なんてもんやない。天才や。ビートルズの楽曲の200曲ちょいのうち、70曲はこの人が作っとるし、ベースもギターもピアノも何でもできる。世界中の音楽家が尊敬しとる人や。しかもまだ現役や」
新しいエクストラライトの弦を取り出し、太い弦と細い弦、さっきとは反対に取り付けた。6弦と1弦、5弦と2弦を入れ替えて、まるで鏡に映したように弦の配置を変えている。
「これで反対に持ってみ」
「あ、すごい、やりやすいよおじいちゃん!」
寛奈は全く違う手ごたえを得た。今度は左手がピックを握り、右手がフレットを押さえる。左手の動きが急に自然になり、ストロークも滑らかにできる。これならすぐに上達できそうだ。
「かんちゃん、これ見てみい」
祖父は改めて、パソコンの画面でポール・マッカートニーの写真をいくつか表示した。エド・サリバン・ショーでの若き日のポール、アビイロードのジャケット撮影の時のポール、そして様々な時代のライブでベースを弾くポールの姿。
「この人、かっこいいなぁ。なんか優しそうやし」
「ポールはな、バンドのまとめ役でもあったんよ。ジョン・レノンっていう相棒がおったんやけど、二人で世界中の人を魅了する楽曲を作り続けたんや」
寛奈はポールの写真を食い入るように見つめている。特に、テキサンを持っている写真に釘付けになった。
「おじいちゃん、この写真のギター、今うちが持っとるのと同じやない?」
「そうよ。これがエピフォンのテキサンや。ポールが愛用しとったギターの一つなんよ。『Yesterday』いう名曲もこのギターで生まれたんや」
「えー!すごぉ!イエスタデイなんかうちでも知っとる」
寛奈の目がさらに輝いた。自分が手にしているギターが、ポール・マッカートニーと同じものだと知って、胸が躍った。
「逆さまにしとんのもおんなじや!」
寛奈は喜び、その日は祖父にいくつかビートルズの曲を教わった。まだすばやくコードは押さえられないが、簡単なストロークパターンを覚えて、『Love Me Do』のイントロを真似してみた。左手でピックを持つと、右手の時とは全く違って音が自然に響く。
「かんちゃん、才能あるわ。きっとうまくなるで」
「おじいちゃん、ポール・マッカートニーみたいになれるかな?」
「なれるなれる。でも、ポールが本当にすごいのはギターだけやないんよ。ベースっていう楽器も弾くんや」
「ベース?」
「ギターより弦が太くて音が低い楽器や。バンドの土台を支える大事な楽器でな。ポールはビートルズではベーシストとして活躍したんよ」
「へぇ~、ベースか…」
寛奈はその言葉を心に刻んだ。まずはこのテキサンでギターを覚えて、いつかはポールみたいにベースも弾いてみたい。そしていつか、ポールみたいに素晴らしい音楽を作ってみたい。
「おじいちゃん、また明日も教えて」
「もちろんや。かんちゃんがポール・マッカートニーを超える日を楽しみにしとるけん」
寛奈は嬉しそうに笑った。家に帰る道すがら、頭の中ではビートルズのメロディーが鳴り響いていた。そして、ポール・マッカートニーという一人のミュージシャンへの憧れが、寛奈の心の中で確実に芽生えていた。
その夜、寛奈は家族に興奮気味に報告した。
「お父さん、お母さん、うちポール・マッカートニーって人みたいになりたい!」
「ポール・マッカートニー?古いなぁ」
「この人、おじいちゃんよりおじいちゃんやで」
両親は苦笑いしたが、寛奈の目の輝きを見て、この子の中で何か特別なことが起こっているのを感じ取った。
祖父が寛奈に与えてくれた音楽との出会い、そして運命的なポール・マッカートニーとの出会いが、小さな女の子の人生を大きく変えようとしていた。
登場人物
・光月寛奈
・祖父
・父
・母




