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#08 「人は、行動によってのみ、自分が何者かを知る。」 — ジャン=ポール・サルトル

 傷はだいぶ癒えていたが、まだ体が重い。

 今日も結局、起き上がれたのは陽が高く昇った正午ごろだった。


 遅めの朝食——というより昼食を取ることにする。


 アメリアさんが、この時間でも食事を出してくれたのはありがたい。 料理は昨日のシチューをアレンジしたものだったが、スパイスが効いていて、これはこれで美味い。


 今日はまず神殿へ行き、その後、冒険者ギルドを覗いてみるつもりだ。


 ちなみに、魔法鑑定には金がかかるらしい。

 幸いなことに、金は、昨夜エレノアが貸してくれた。

「出世払いよ」と笑っていたが、妙に念を押された気がするのが気になる。

 だが、今は素直にありがたく受け取っておこう。


「……おかしいわね」


 食事を終えて準備のために部屋に戻ろうとしたとき、ふと、食堂の奥からアメリアさんの独り言が聞こえた。


 見ると、彼女は白樫亭の入口の方を気にしながら、落ち着かない様子で外を覗き込んでいる。


「どうかしましたか?」


 俺が尋ねると、アメリアはゆっくりと振り返った。


「フィオナがね、まだ帰ってこないのよ」

 普段は穏やかで落ち着いた彼女が、どこか不安げな表情をしている。


「朝からカリーネ神殿に行ったんだけど……もうお昼をとっくに過ぎだというのに、まだ戻ってこないの」


 俺は窓の外に目を向けた。

 陽は傾き始め、すっかり午後になっている。


「普段はどれくらいで戻るんです?」


「そうね……拾壱の刻までには帰ってくるはずなの。でも、今日はもう随分遅いのよ……」


(拾壱の刻……?)


 その言葉を頭の中で反芻する。

 まだこの世界の時間感覚が掴めていない。


「拾壱の刻って、日本の時間で言うと何時くらいですか?」


「にほん?」

 アメリアは不思議そうに首を傾げた。


「ああ……いや、だいたいどんな時刻か知りたくて」


「そうね、陽が高くなる頃よ。市場もにぎわって、家庭では昼食の準備を始める頃ね」


(なるほど、それなら……午前十一時くらいか)


 アメリアさんの話によると、この世界の時間は、元の世界と同じく一日が二十四時間で区切られているらしい。 違うのは時刻の呼び名だ。二十四時間は一時間ごとに「壱の刻」「弐の刻」といった数字による名称で区切られ、一日が、二十四刻こくに分かれている。


(つまり、フィオナは昼前には戻るはずだった……とすると、もう二時間近くも遅れているのか?)


 ——遅すぎる。


 アメリアの表情が曇る。食堂の空気が、ふと緊張に包まれた。


「……何か心当たりは?」

 俺が問いかけると、アメリアは少し口を引き結び、視線を落とした。


「昨日、君も見ていたのでしょう? この宿が不動産ギルドに目をつけられているとこ」


「はい……」


 アメリアは深く息をつきながら、ゆっくりと言葉を続ける。

「それだけならまだしも……実はソーマ君が来る前には、数人の男たちが宿に押し入ってきたこともあったりしたから……少し心配で」


「押し入ってきた?」


 俺が問い返すと、アメリアは険しい表情で頷いた。

「『ここはもう長くは持たない』とか、『さっさと出ていけ!』とか、大声で喚きながらね。挙句の果てには椅子を蹴飛ばしたり、物を壊したり……めちゃくちゃで。宿泊いただいていたお客様にお詫びして別の宿に移ってもらったりして、本当に大変だったの」


 俺は思わず眉をひそめる。

「あのときは、カイル君たちがいてくれたから助かったけど……」


「カイルたちが?」


「あの子たち、普段は頼りないけど、こういう時は本当にしっかりしてるのよ。宿に帰って来くるなり、その男たちを力ずくで追い出してくれてね。それに、最近は、ずっとここに泊まってくれているから、何かあったときも頼りになるわ」

 アメリアはくすっと笑ったものの、その表情はどこか落ち着かない。


「でも……今日に限っては、どうも胸騒ぎがするの」


「フィオナが戻らないことと、その男たちが関係がある……そう思ってるんですね」


 俺の言葉に、アメリアはゆっくりと頷いた。


「……一応、エディにフィオナを探してきてくれるようにお願いしたんだけど」

 その言葉とは裏腹に、アメリアの眉間には深い皺が刻まれている。


(まさか……)


 フィオナのことが思い出された。

 宿に戻ったとき、俺を優しく迎えてくれたフィオナの笑顔。

 傷を癒すために、疲れた体を押してまで手を添えてくれた細い指。

 可憐で、優しく、どこか健気な雰囲気を持った少女。


 そんな彼女が、今、危険な目に遭っているかもしれない——


 気づけば、俺は席を蹴って立ち上がっていた。


「俺も探してきます!」


「ちょ、ちょっと待って!」


 アメリアが驚いて制止しようとしたが、俺はそれを振り切るようにして食堂を飛び出した。



     ***



 フィオナが危ない。その思いだけが俺を突き動かした。

 だが、すぐに足を止める。


  広い石畳の大通りが広がり、人々の雑踏が喧騒を生んでいる。

 屋台からは焼きたてのパンや果物の香りが漂い、活気に満ちていた。


(……クソッ! どこへ行けばいい!?)


 一昨日着いたばかりの街で、道も建物の位置も分からない。

 ましてや、落ち着いて周囲を観察する余裕などなかった。


(まずはカリーネ神殿か……アメリアさんの話だと、フィオナは「カリーネ神殿に行く」と言って出かけたまま戻っていない。でも、どこにあるんだ……?)


 通りを見渡してみたが、それらしい建物は見当たらない。


(仕方ない、情報を集めるか)


 道端の露店の店主に声をかけた。


「すみません、カリーネ神殿はどこにありますか?」


「カリーネ神殿? ああ、南通りにある癒しの神殿のことかい? この大通りを南へまっすぐ行って、少し小道に入ったところにあるよ」


 指さされた方向を確認し、店主に礼を言って歩き出した。

 大通りを南へ進む。人通りが多く、目的の通りが見つけにくい。


「ソーマ?」


 近くで名前を呼ばれ、振り返る。


 エリシアが立っていた。

 深緑の装束に装飾の施された胸当て、腰には剣、腕にはガントレット。その鋭い眼差しは隙がない。


「あなたもフィオナを探してるの?」

 驚いている俺に、エリシアが問いかける。


「……どうしてそれを?」


「白樫邸に戻ったら、女将が蒼白になっていたのよ。話を聞いたら、フィオナが朝から神殿に行ったきり、戻ってこないって言うじゃない」


 なるほど、俺が飛び出した直後にエリシアも状況を知ったのか。


「それで、君も探しに?」


「ええ」


 エリシアは頷き、じっと俺を見つめる。

「……で、あなたは何をしてるの? 神殿に向かおうとしてたところ?」


「ああ、アメリアさんからカリーネ神殿に行ったって聞いて……」

 言葉に詰まる。この街の地理が全く分からないことを指摘されているようだった。


「あなた、この街のことを何も知らないのでしょう? 下手に動いて邪魔になるだけよ」


「……それは、まあ、そうかもしれないけど……」


「なら——」


「でも、俺だって何もしないわけにはいかない!」 思わず言い返した。


 昨日、助けてもらった。癒してもらった。

 あの、優しくて健気な少女が今、危険な目に遭っているかもしれないのに、ただ待っているなんてできない。


 俺の目を見て、エリシアがわずかにため息をつく。

「……分かったわ。ただし、私の指示には従いなさい」


「ああ、約束する」


 彼女が小さく頷く。


「だったら、急ぐわよ! カリーネ神殿はこっちよ」


 こうして俺たちは、フィオナの足取りを追い始めた。



     ***



 カリーネ神殿に着き、神官に尋ねる。


「フィオナ? ええ、今朝も来ていましたよ」

 対応した神官の女性は、にこやかに頷く。


「熱心に修行を続けています。今日も拾の刻と同時に修行を終え、帰ったはずですが……」


 俺とエリシアは顔を見合わせる。

「拾の刻……?」


 どうやら午前10時過ぎには神殿を出たらしい。いくらなんでも、帰りが遅すぎる。


「彼女が帰るとき、誰か一緒でしたか?」


「いえ、いつも通り一人でしたよ」


 俺の中で嫌な予感が膨らんでいく。

「神殿を出たのが昼前なら、とうに宿に戻ってるはずだ」


「……事件ね」

 エリシアの表情が険しくなる。


「すみません、このあたりで、昼ごろフィオナという栗色の髪でレースのエプロンを着けた女性を見かけませんでしたか?」


「ああ」 通りを歩いていた商人風の男は、警戒心を滲ませながらも答えた。

「いつも神殿に修行に来ている子だね。お昼前に見たよ。神殿の前で……」


「それから?」 俺とエリシアは、息を詰めて次の言葉を待つ。


「……黒いフードの男たちがいた。ずっとあの娘のことを見ていたから、おかしいなとは思っていたんだが……」 男の声に、不安の色が濃くなる。


「フィオナに何か?」


「近づいて話しかけていたが、少ししたら、あの娘さんに何かあったようで……急にぐったりした様子で。それを三人がかりで、路地の奥へ連れて行った。おかしい、とすぐに思ったんだが……」


 俺の心臓が、嫌な音を立てて高鳴る。胃の奥が冷たくなった。


(……やられたのか!?)


「エリシア!」 俺は彼女を振り返る。


「急ぐわよ!」 彼女の表情もまた、凍りついたように険しい。


「そいつらは、どこでフィオナに話しかけていた!?」 俺は男に詰め寄った。


 男が震える指で、神殿の脇にある細い路地を指さす。

「あっちの裏路地の方へ……」 男が言い終わるのを待たず、俺とエリシアは指さされた裏路地へと走り出した。


「エリシア、こんな時どうするべきだ?」 走りながら問う。


「まずは足跡や痕跡を探す。無理やり連れ去られたなら、どこかに痕が残っているはずよ」


 エリシアが地面を睨むように観察しながら、先行して路地に入る。

 彼女の目が、獲物を追う獣のように光っていた。


 そして——


「……あった」


 エリシアがぴたりと立ち止まり、地面の一点を指さした。


 そこには、土埃の中にわずかに乱れた足跡と、小さな布切れが落ちていた。

 泥に汚れながらも、見覚えのある淡い水色の生地。


 震える手で拾い上げると、それはフィオナがいつもエプロンにつけていた、飾りのレースの端だった。


「間違いない……フィオナだ」


 その瞬間、俺の中で何かが弾け飛んだ。怒りか、焦りか、それとも——


「急ぐぞ。まだ間に合うかもしれない!」


 エリシアと一瞬だけ目を合わせ、言葉もなく駆け出した。背後で、街の喧騒が遠ざかっていく。俺たちの耳に届くのは、自分たちの足音と、高鳴る心臓の音だけだった。



ご覧いただきありがとうございました。

今回のタイトルは、「人は、行動によってのみ、自分が何者かを知る。」 — ジャン=ポール・サルトル を引用しました。これは、自己の本質は思考や内省だけではなく、具体的な行動を通じて初めて明らかになる、という実存主義的な思想を表しています。


第8話で、主人公は危険に晒されたフィオナのため、「何もしないわけにはいかない」と行動を開始しました。この一歩は、異世界で自身の存在意義を見出そうとする主人公にとって、まさに「自身が何者か」を知るための行動と言えます。理不尽な状況に対し、彼がどのように立ち向かい、自己を定義していくのか。


「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、ブックマーク、作品の評価★を是非宜しくお願いします。また、感想をいただけると嬉しいです。

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