#61 「彼が杉を打つと、木は悲鳴をあげ、その頂は砕かれ、枝は剥がれ落ちた。杉の芳香が天へと昇った。」—『ギルガメシュ叙事詩』第5板より
「ゴゴゴァァグァァァ——ッ!」
竜の喉奥から、岩盤を砕くような咆哮が広間を貫いた。
それは獣の吠え声ではない。森が軋み、山そのものが悲鳴を上げるような音だった。
耳をつんざく衝撃波が壁を震わせ、天井から岩屑がざらざらと降り注ぐ。鼓膜の奥が焼けつくように痛み、思わず肩をすくめた。
巨体が弾かれたように動く。
先ほどまでの鈍重さは消え失せ、竜と化したそれは石床を裂きながら突進してきた。
岩の爪が床を抉る——ガリッ!と耳障りな音とともに火花と瓦礫が四散する。
「カイル!」
エレノアの叫びより早く、尾が横薙ぎに振り抜かれる。直径一メートルを超える、樹の幹のような尾。その圧倒的な質量が突風を巻き起こし、前衛を薙ぎ払おうと迫った。
瞬間、カイルの全身から青白い光の粒が立ち上がる。
——マナを気へ。血の流れのような律動で光が筋肉と腱を駆け抜け、盾へと収束していくのが視えた。
「うおぉぉぉっ!」
突き上げた盾が火花を散らし、尾の軌道をわずかに逸らす。
その隙に、背後からコールが戦斧を振り下ろした。濃く脈打つ光を纏った刃が尾を叩き落とし、ズガン!と衝撃が広間を震わせる。砕けた鱗片が飛び散り、竜の咆哮が木霊した。
しかし、背から伸びた角の先から無数の蔦がしなり、二人を飲み込もうと襲いかかる。
「Flammenpfeil!」
エレノアの炎矢が正確に蔦を撃ち抜いた。火が走り、黒く焦げた蔦が床に落ちる。
「おりゃあっ!」
カイルが剣で残った蔦を一気に断ち切った。
右翼が持ちこたえる間に、左翼では白銀の翼が動いていた。
ゼストの剣が青白く閃き、鱗の継ぎ目を寸分違わず貫いた。
続けてセレネの矢が飛び、関節部を撃ち抜く。竜が短く身をこわばらせる。
だが、返すように蔦がゼストを襲った。
彼は剣を抜き払い、横薙ぎに叩き切ったが——本が左腕を掠めた。革籠手が裂け、鮮血が飛び散る。
「ゼスト!」
セレネの声に応じるように、後方から柔らかな光が伸びた。
メリッサの掌から流れ込んだ治癒光が裂傷を縫うように覆い、皮膚の奥へと溶ける。傷は瞬く間に塞がっていった。
咆哮とともに竜は前足を振り回す。暴風のような岩爪が広間を薙ぎ、冒険者たちは慌てて距離を取る。
冒険者たちが竜の相手をしている隙に、シグリットは呪文の詠唱に入っていた。
迫る竜。その直前に飛び出したカークとアムスが盾を構え、青い光に包まれる。
振り下ろされた岩爪を——ガァァン!
二人の盾が受け止めた。
盾は砕けず、光が衝撃を吸収して力を流す。
「隊長、今です!」
シグリットの剣先から透明な奔流が迸った。
ドンッ!
衝撃波が竜の胸板を叩き、岩鱗が弾け飛ぶ。巨体がぐらりと揺れた。
背から伸びた蔦が襲いかかるが、アムスの盾が薙ぎ払い、カークの剣が叩き切る。
その背でシグリットが再び力場を展開し、竜の顎をゴンッ!と突き上げた。
——冒険者は自由に舞う。
対して騎士たちは「陣」として立ち、三人で一枚の大盾となる。
彼らの息の合った動きに、俺は思わず息を呑んだ。
だが竜は怯まない。振り上げた尾が再び床を砕き、広間全体が揺れた。
「下がってろ! ここからは俺たちがやる!」
赤銅の戦輪が吠え、ガルムの巨躯が前へ躍り出た。
ヨナスの雷撃が竜の脚を撃ち抜き、ジンの短剣が継ぎ目を裂く。反撃が迫るたび、メーゼの治癒光が戦線を支えた。
「ガルム!今だ!」
「応よォッ!!」
ジンの声に応え、ガルムの大剣に赤銅の気力が燃え上がる。熱気が刃を歪め、空気を震わせた。
巨竜が大口を開き、森と岩が軋むような咆哮を放つ。
その咽喉めがけ、ガルムは渾身の剣を振り下ろした。
「おぉぉりゃああああッ!!!」
ズガァァァァァン!!
斬線が口腔から胸郭へ走り抜ける。岩と樹を編んだ装甲が裂け、粉塵と赤黒い光が炸裂した。巨竜がのけぞり、広間が震えた。
ゼストの号令で矢と魔法が四方から放たれ、岩鱗がはじけ飛び、むき出しになった生樹の身体に矢が突き刺さる。
獣じみた悲鳴が広間を揺らした。
だが巨体はなお倒れない。
爪を床に突き立て、砕けた岩盤を踏みしめながら、じっとこちらを睨む。岩と樹を纏った大地の竜——その圧倒的な存在感が、未だ広間を支配していた。
ガルムが放った一撃は、竜の胸を深々と切り裂いていた。
俺の眼は、その裂けた胸の奥から覗く異様な光を捉えていた。
砕けた装甲の内側——肉とも岩ともつかぬ組織の隙間に、歯車を無数に組み合わせた球体——ダンジョン・コアが顔を出していた。
幾重にも噛み合う歯車が狂ったように回転し、ギリギリと軋むたびに赤黒い光がドクンと明滅する。
その脈動に呼応して、大地から無数の光の筋が吸い上げられ、割れた床石や砕けた岩の隙間から奔流となって立ち昇る。すべてがコアへと収束していった。
やがて吸い上げられた光は血潮のように竜の体内を駆け巡る。
四肢の筋肉が赤く脈動し、尾の根元にまで熱が送り込まれていく。
まるで透けた血管を覗き込み、生命の流れを直に見ているかのようだった。
コアは心臓だ。
明滅のたびにマナを送り出し、竜の巨体を駆けさせ、爪を震わせる。
大地が血を与え、竜がそれを喰らい尽くしていた。
——俺だけが、それを視ていた。
俺にはわかる。あれは怪物などではない。
土地そのものが心臓を与えられ、命ある存在へと歪められているのだ。
気づけば、視界が異質なものへと変わっていた。
胸奥から脈打つ気配に呼応するように、足元から淡い光の粒子が立ち昇る。
霧のように漂い、空気そのものが震える。大地の鼓動が肌の裏側に伝わってくるような錯覚。
――ランド・オラクル。
視界が揺らぎ、色が反転し、時間の流れそのものが軋んだ。
そして俺は“視せられた”。
竜の胸奥に露わとなったコアを通じ、この土地に刻まれた過去の残響を――。
——苔むした大地。霧に煙る山の中腹。
そこに立つのは、巨人の姿をしたランドヴィッテルだった。土と岩と樹を身にまとい、その瞳は、深き森の奥の泉のように澄んでいた。
巨人の前に、三つの影が現れる。
一人は白髪の男。長いローブを纏い、杖を手にしていた。だが奇妙なことに——その容貌は、どうしても焦点が合わない。姿は確かにそこにあるのに、俺の視界は彼の顔を“認識できない”。
残る二人は、フードを深く被った男と女だ。男は細剣と石弓を下げ、女は小杖を抱えている。その表情もまた影に覆われ、判然としなかった。
白髪の男と巨人は、言葉を交わしていた。だが音はなく、唇の動きすら霞んでいる。
互いに説得するようにも、威圧するようにも見えたが——すぐに、それは決裂した。
巨人が咆哮する。山そのものが軋むような声。
その瞬間、巨人の姿は変容した。大地を踏み砕き、樹をなぎ倒し、竜の形へと身を変えていく。岩の鱗が隆起し、枝の鬣が風を裂いた。
戦いが始まった。
竜の尾が振り抜かれ、大地が裂ける。剣を抜いたフードの男が跳躍し、刃を閃かせて応じた。女の詠唱から奔流のような炎が放たれ、竜の鱗を焼く。
白髪の男は一歩も退かず、杖を掲げて呪文を紡いでいた。その姿は不気味なほど揺るがず、まるで勝敗を初めから知っているかのようだった。
やがて、竜は動きを封じられる。
白髪の男の呪文が完成し、光の鎖が幾重にも重なって竜の巨体を絡め取った。大地の咆哮が悲鳴へと変わり、山の空気そのものが震えた。
そして——男は懐から、一つの球体を取り出す。
歯車を組み合わせた異様な器機。ダンジョン・コア。
それが竜の胸奥へと押し込まれる瞬間、光景は焼きつくように強烈だった。
竜の身体がのけぞり、赤黒い光が噴き出す。
血とマナが逆流するように、大地の脈動が歪められていくのが見えた。
土地の守り神であったものが——その瞬間、何か別の存在へと変質してしまった。
俺は息を呑んだ。
土地の守り神——ランドヴィッテルを“怪物”に変えたのが誰なのか。
その光景はただ、その答えを突きつけてきていた。
ご覧いただきありがとうございました。
本話のタイトルは、『ギルガメシュ叙事詩』より、自然の力たる杉が打ち砕かれ、その本質が昇華する様子を描写した一節です。
ダンジョン・コアによって変質させられた大地の竜、そして過去の因縁が描かれた本話において、自然の摂理が歪められる悲劇性を表現するため引用しました。




