#57-2 「顔を殴られるまでは誰もが計画を持っている。」—マイク・タイソン
突然、背筋を氷の刃でなぞられたような感覚が走った。
空気の冷たさや湿気ではない――坑道そのものを満たす、得体の知れない流れ。魔力……マナの気配だ。
微かに漂っていたそれが、いまや確実に濃度を増し、坑道全体を押し包んでいく。
そしてすべてが、見えざる一点へと吸い込まれるように収束していた。
「……メリッサ。あなたも感じる?」
私は隣にいる治癒士へ声をかける。メリッサは蒼ざめた顔で頷いた。
「ええ……! 魔力が……生き物みたいに動いて、この先へ流れ込んでいます!」
治癒魔法に長けた彼女は、私よりはるかにマナの流れに敏感だ。彼女がここまで慌てるということは、私の感覚も決して錯覚ではない。
「どうしたんだ、メリッサ?」
ゼストが振り返る。怪訝な眼差し――剣士である彼にはまだ掴めていないのだろう。
「……坑道内、いえ、この山全体の魔力が、一箇所に吸い寄せられています。まるで――」
メリッサが言葉を続けるより早く、足元から「ゴゴゴ……」と低い唸り声のような振動が伝わってきた。最初は微かだった揺れが、瞬く間に大きくなっていく。
「な、なんだ!? 地震か!?」
コールが叫び、掲げた魔道具の光がぶるぶると揺れた。頭上から小石がぱらぱらと落ち、乾いた音を立てて跳ねる。
「……崩れる! 急げ、ここから離れるぞ!」
カイルの怒鳴り声に焦りが滲んだ。ドワーフであるグラムも、その表情を険しくしている。
「待って、この魔力は――!」
メリッサが叫びかけたが、その声をかき消すように轟音が走った。背後で天井が大きく崩れ落ち、土煙が視界を覆う。岩が砕け、火花のように破片が飛び散った。
「出口へ急げ! ぐずぐずするな!」
ゼストが叫び、セレナとメリッサを押し立てるように駆け出す。私たちも慌てて後を追った。
背後から響くのは、岩盤が裂け、砕け、落ちていく轟音。坑道そのものが呻き声を上げている中、私たちは必至で走った。
***
俺は広場に立ち、どんよりと曇った山の空を仰いでいた。
今回の作戦はシグリットが指揮を執っている。
騎士団での彼女の仕事振りは詳しく知らないが、一度共に戦った経験から、その胆力と判断には信を置いていた。この現場を任せる不安はないだろう。
広場は奇妙な静けさに包まれていた。
カイルたちが坑道に潜ってからの一時間、警備隊は入り口周辺に陣を敷き、鉱夫たちは荷車に腰を下ろして無言のまま手斧やランタンを弄んでいた。
待つしかない苛立ちと、奥から響くかもしれない戦いの音に耳を澄ます緊張が、場を張り詰めさせていた。
――またオークが飛び出してくるかもしれない。
誰も口にしなかったが、その不安は全員の胸に沈殿していた。若い衛士は落ち着かず剣の柄を握り直し、老人の鉱夫は煙管の煙だけを空へ逃がし、一度も口に運ばなかった。
特にやることもない俺は、そんな人々を横目に、全体の動きを見守っていた。
彼らの額に滲む汗、無言で作業する姿。
場の緊張を覆い隠すように、彼らはただ目の前の仕事をもくもくと熟している。
張りつめた空気の中で、ふと、坑道の闇を睨んだ、その時――。
――視界が揺らいだ。
次の瞬間、地面から光の線が滲み出し、葉脈のように広がった。
突如、ランド・オラクルが発動したのだ。
これは他の誰にも見えない、俺だけの視界――。
――――
大地を巡る脈動がざわめき、山の中心へと吸い込まれていく。
細い流れだったはずのマナが一斉に河の奔流と化し、ただ一点へ収束していく。
まるで山そのものが呼吸を止め、マナを飲み込むことだけに没頭しているように。
――――
「……マズい」
無意識に声が漏れた。
今、俺が視ている光景が何を意味するのかなんて、わからない。
だが、地脈のマナが不自然に山へと集められていることだけは確かだった。
マナが何かを理解していない、俺でもわかる——これは自然の理を逸脱した異常だ。
この鉱山で、何かが目を覚まそうとしている。
次の瞬間、山が呻いた。
ゴゴゴゴ……と低く重い音が腹に響き、地面が大きくうねる。俺は反射的に足を踏ん張ったが、足元の石畳が波打つように揺れ、膝が折れそうになる。
荷車が横倒しになり、積んでいた工具類が轟音を立てて転がり落ちる。
立っていた鉱夫が尻もちをつき、誰かが押し倒されるように転んだ。
空気に舞い上がった土埃が視界を霞ませ、鼻腔に鉄錆のような匂いが刺さる。
「地震だ!」
「退け、避難しろ!」
「こっちだ、広場の方へ!」
警備隊の怒鳴り声が飛び交い、悲鳴がそれをかき消す。
石壁からは小石が雨のように降り注ぎ、あちこちで瓦礫が砕ける音が重なった。
荷馬が嘶き、鎖を引きちぎろうと暴れる。人々は我先にと駆け出し、互いにぶつかり、転げ、叫んでいた。
広場は一瞬で混乱に呑まれた。
秩序を失った群衆は、恐怖の波に呑まれるだけの存在に変わっていた。
だが、俺の耳にはその喧噪は届いていなかった。
脳裏に焼き付いているのは、ランド・オラクルが視せた、地脈の異常な流れだけだ。
――止めなければ。
――このままでは、間に合わない。
その思いに突き動かされ、気づけば足は鉱山の入口へ向かって駆け出していた。
……カイルたちが、あの奥にいる。
この世界に来て、最初に出会った仲間。俺を受け入れ、支えてくれた大切な連中だ。
彼らをここで失うわけにはいかない――絶対に。
「ソーマ殿! どこへ行くのです!」
背後からシグリットの声が飛んだ。混乱の中でも彼女は俺を捉えていた。
だが、その声は遠い。胸を突き破りそうな心臓の鼓動と、カイルたちを助けねばという焦りが、すべてをかき消していた。
背を見送ったシグリットが舌打ちする。
「……くそっ! 勝手な!」
だが次の瞬間、彼女は即断した。
「アムス、カーク!ついてこい! ゲルト殿!警備隊は安全な場所で待機! 鉱夫たちをの安全確保を優先! 私たちは、ソーマ殿を追う!」
号令を受け、警備隊の男たちは動揺しながらも頷き散開する。混乱の中でも秩序をつなぎとめるのは、彼女の声に力があるからだ。
鎧が鳴り、剣が揺れる音が背後に迫る。シグリットが駆け出し、アムスとカークが後を追う。
俺は振り返らなかった。
瞳に焼き付いた幻視を胸に、黒々と口を開いた坑道の闇へ飛び込んだ。
背後ではまだ、悲鳴と怒号が渦巻いていた。
ご覧いただきありがとうございました。
今回のタイトルは、マイク・タイソンの名言「顔を殴られるまでは誰もが計画を持っている。」です。
計画は予期せぬ事態で狂う、という意味です。
ゼストたちとの予期せぬ遭遇、ガルム隊の不在、地脈異常、現場の混乱、主人公の突然の行動。立てられた作戦は、まさに次々と押し寄せる「パンチ」によって打ち砕かれてしまいました。




