#57-1「顔を殴られるまでは誰もが計画を持っている。」—マイク・タイソン
十八番坑道の入り口は、外から見れば他の坑道とほとんど変わらない。
だが、一歩踏み入れた途端、空気が一変した。外の冷気とは質を異にする、薄い膜のような湿り気が肌にまとわりついてきた。
カイルが手にする魔道灯トーチは心許なく瞬き、コールの持つ魔具は直線的な光を放って闇を切り裂く。だが照らされた先はわずかで、周囲はなお深い闇に沈んでいる。
私は杖の先に淡い光を宿し、視界を補った。
湿った壁が鈍い輝きを返し、天井から落ちる雫の音がやけに大きく響く。足音さえ坑道の奥へ反響し、どこか異界に踏み込んだかのような錯覚を覚えさせた。
「コール、もう少し奥を照らして。前が見えないわ」
「了解だ。……やはり、まだ何もいないな」
コールの声が返る。
それも無理はない。 私たちに割り当てられた十八番坑道は、オークが飛び出してきた十三番坑道とは違う。
グラムやカイルのように討伐に燃える者からすれば、外れも同然だ。
けれど――この静けさが、かえって不自然に思えて仕方がなかった。
「さっさと進むぞ! 時間の無駄だ!」
背後で腕を組んでいたグラムが、鼻を鳴らして苛立ちを露わにした。
ドワーフの彼は夜目が利くのか、明かりも持たず真っ暗な坑道を平然と進む。その眼差しは闇の奥を貫き、まるで獲物を探す獣のようだ。
カイルはそんな彼を横目で睨み、低く吐き捨てる。
「くそ……急がねえと!」
――カイルはカレンをめぐる勝負で、ゼストたちより多くのオークを狩りたがっている。今の彼にとって、それがすべてだった。
いつも無茶をしがちなカイルだが、この焦りが悪い方向へ向かわないかと、私は懸念する。
「カイル、落ち着いて。オーク相手に焦れば、足元をすくわれるわよ。」
私が釘を刺すと、コールが肩をすくめる。
「オークが出ないなら、それはそれで幸運じゃないか」
「幸運なわけあるか! これじゃあゼストの奴に――」
カイルは声を荒らげた。その様子が、私にはむしろ可笑しく思えた。
「あらあら、熱心ねえ。……でもカレンさんが、あなたみたいなガサツな奴に靡くかしら?」
からかうと、カイルはむきになって振り向く。
「俺がガサツなのは関係ないだろ! 俺が気に食わねえのは、ゼストみたいな奴がカレンさんにちょっかいかけてることだ!」
「はいはい、分かってるわよ」
そこへコールがぼそりと呟く。
「確かに……あのゼストって奴、口が上手そうだ」
「そうだろ! 絶対ゼストなんかに渡さねえ! だからこそ、オークを早く見つけねえと!」
カイルの闘志が再び燃え上がる。カレンにいい格好をしたい一心なのだろう。
まったく……。相手はオークに限らない。暗く入り組んだ坑道にはハイオークや、それ以上の魔物が潜んでいるかもしれないじゃない。
この二人のお守りは慣れっことはいえ、カイルがこの調子だと、ますます気が抜けない。
常に油断するなと口癖のように言っていたくせに、今はその言葉をすっかり忘れているのだから。
――その時だった。
「……今、何か聞こえたか?」
カイルが低く問いかける。私とコールは同時に頷いた。
鼓動が早まる。期待と、わずかな恐怖が絡み合い、甘く張り詰めた緊張が全身を覆う。
耳を澄ませば、闇の奥から微かな音がした。
コールの魔道具の光では届かないさらに深い場所。小石が転がるような、あるいは何かが壁を擦るような――ほんの些細な物音。だが、静まり返った坑道の中では、異様なほど鮮明に響き渡った。
「……やっと出たか!」
グラムが唇の端を吊り上げた。獲物を見つけた獣に似た、獰猛な笑み。
「逃がさんぞぉ!」
叫ぶと同時に、グラムが弾かれたように闇へ駆け出した。ドワーフの短躯からは想像できないほどの俊敏さ。重いはずの足音は、むしろ獣の跳躍を思わせる速さで坑道に響いた。
「おい、グラム! 勝手に行くな!」
カイルが怒鳴り、剣を構えて後を追う。
私はコールも顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめた。
ため息まじりに足を速める。コールの魔道具が放つ直線の光が、闇に消えていくグラムとカイルの背中を必死に追いかけた。
――オークとの接触が目前に迫っていた。私は気を引き締め、暗黒の奥へと足を踏み入れた。
***
闇の奥が、ふいに開けた。眼前に広がるのは、これまで進んできた坑道とは比べ物にならないほど広大な、地下採掘場だった。天井ははるか高く、巨大な柱のような岩がいくつもそびえ立つ。足元には砕かれた岩石が散乱し、その荒々しい光景は、あたかも太古の巨人が掘り進んだかのようにも見えた。
その先に飛び込んできたのは、無数のオークの群れと、斬り結ぶ白銀の翼の面々だった。
「ゼスト!?」
カイルの叫びに、ゼストは剣を一閃させ、涼やかな笑みを口元に浮かべた。
「おや、カイル。随分と遅かったな。悪いが、もう何匹か、俺たちの手柄にさせてもらったぞ」
足元にはすでに数体のオークが屍を晒しているが、それでもなお十数匹が牙を剥き、獣のように蠢いていた。その中には、一回り大きく、粗末な鉄鎧を身につけた数体のハイオークの姿も混ざっていた。
――妙だ。この坑道は赤道の戦輪の担当だったはず。それなのに、なぜゼストたちが? 肝心のガルムたちの姿は、どこにも見当たらない。
その思考を、激しい咆哮が断ち切った。
「おい! その獲物、儂にも寄こせ!」
グラムが、戦槌を構えるやいなや突進した。低い体勢から放たれた一撃は、オークの棍棒を粉砕し、その頭蓋を容赦なく叩き割る。血と肉片が飛び散り、坑道の壁に醜い赤黒い染みを広げた。
「エレノア、援護を! コール、行くぞ!」
カイルの叫びに、私は矢継ぎ早に小型の魔法を放った。狭い坑道では大規模魔法は使いにくい。だからこそ、敵の動きを封じる一瞬の支援が肝要だった。
前衛のカイルは盾でオークの突進を押し戻し、コールがその隙を見逃さず戦斧を叩き込む。
二人の攻撃でオークは少しづつ数を減らしていた――だが、ゼストに勝ちたいとする焦りが、カイルの動きを荒くさせていた。わずかに呼吸が乱れ、コールとの連携に綻びが生まれる。
「まずい!」
私の胸に嫌な予感が走った瞬間、カイルの背後に回り込んだハイオークの鈍く光る大剣が横薙ぎに振るわれ、カイルの肩口を容赦なく打ち据えた。
鋼が砕ける音と共に、彼の身体は石床に叩きつけられる。
「カイル!」
私が声を上げるより早く、白銀の翼の治癒士メリッサが駆け寄る。
「任せて!」
掌から溢れた淡い光が砕けた鎧の隙間を満たし、血を洗い流すように傷へ染み渡る。裂けた肉が閉じ、荒かった呼吸が次第に整っていく。
「……悪い、メリッサ」
「貸し一つよ」
メリッサの言葉に、カイルは苦笑しながら立ち上がり、再び剣を構え直した。
その時、弓を構えたセレネが声を飛ばす。
「エレノア、あのオークを!」
「わかったわ!」
私は即座に風魔法を放ち、メリッサへ迫ろうとしたオークを絡め取る。もがいたその一瞬を逃さず、ゼストの剣が閃光のように走り、鮮やかに胴を断ち割った。
剣から血を払いつつ振り返ったゼストは、片目を細めて口角を吊り上げる。
「さすがは、エレノア嬢。……今度、礼に食事でもいかがですか?」
戦場に似つかわしくない軽口に、私は眉をひそめる。
「……さっきのカイルへの貸しは、これでチャラよ。それより、余計な口を利いてないで、前を見なさい」
冷ややかに返し、再び杖を握り直す。ゼストは肩をすくめ、飄々と敵に斬り込んでいった。
こうして三日月の剣と白銀の翼――二つのパーティーは言葉少なに息を合わせ、徐々に群れを追い詰めていった。
ハイオークは強敵だったが、オークが次々と倒れていく中で、圧倒的な数の不利は覆せない。
やがて最後の一体がグラムの戦槌に粉砕され、坑道には血の匂いだけを残して重い静寂が戻った。
「……終わったな」
ゼストが大きく息を吐き、血に濡れた剣を鞘に納めた。普段は余裕に満ちた美貌の彼でさえ、今は髪が乱れ、額に汗が滲んでいた。
それがまた、戦いを愉しむかのような涼やかな笑みに変わるのが癪に障った。
「チッ、こんなものか!」
グラムが戦槌を鞘に収めると、不満げに鼻を鳴らした。その表情には、まだ戦い足りないという苛立ちが色濃く残っていた。
「俺だって同じ気分だ……こんなもんで満足できるかよ」
カイルも剣を振って血を払いながら吐き捨てる。だが、苛立ちの矛先はオークだけではなかった。
ここまでで私たち三日月の剣が倒したのは七体とハイオーク一体。だが白銀の翼が倒したオークは十を超え、ハイオークも二体を倒している。
「……でも、おかしいわね」
私は周囲を見渡した。周囲には死骸が散らばり、血の臭気が漂っていた。けれど、これだけの数が棲みついていたにしては、あまりに様相が違った。食料の残骸も寝床の跡も見当たらないのだ。
「確かに……」
コールが眉をひそめ、低く唸る。「巣らしい気配が一つもないな」
弓を携えたセレネが、鋭い視線をこちらに寄越した。
「あなたたち三日月の剣は、本来なら十八番坑道を担当していたはずよね?」
「……ここは十三番坑道の魔石採掘場だな」
ゼストが顎に手を当て、周囲を見回しながら低く呟いた。
「作戦の時に見せられた地図を思い出せ。十八番坑道と、我々白銀の翼が入った七番坑道は、この十三番にある採掘場で合流するよう描かれていた。君たちがここにいるのも、その証左だろう」
「私たちは、あなたたちとは逆側から進んできたの。道中は横穴もなく、ずっと一本道だったわ」
セレネが細い指で示したのは、私たちが来た道とは反対方向。
つまり――この採掘場は十三番坑道の突き当たりであり、七番と十八番、両方の坑道がここで一つに交わる場所だ。
「だとすると……赤銅の戦輪は?」
私が口にした瞬間、場に沈黙が落ちた。
――ここにガルムたちの姿がない。それこそが、何よりも不自然だった。
「まだ辿り着いていない……にしては、遅すぎますね」
メリッサの声に険が混じる。途中で魔物の群れに足止めを食らっているのか、それとも――もっと深刻な事態に巻き込まれているのか。
「だったら、このまま十三番内を探すしかねえだろ!」
カイルが拳を握りしめ、声を荒らげた。苛立ちが滲むその声音には、ゼストに遅れを取っている焦りが透けて見えた。
「……同感だ」
ゼストが静かに頷くと、仲間たちも口々に同意を示した。
「我々も同行しよう」
カイルは渋々ながらも頷き、コールが魔道具の光を掲げて進み出す。一行は再び歩を進めた。
だが――どれだけ進んでも、ゴブリンの巣の痕跡は見当たらない。
「……妙ね」
私はふと天井に目をやった。吊るされた岩肌の模様が、どこか歪んで見える。
この坑道に入った時から、薄々感じていた違和感――それが今、よりはっきりと形を帯び始めていた。
魔力の流れが不規則に揺らぎ、まるで薄い膜を何重にも重ねたような圧迫感がある。
これは……知っている感覚だ。
(……ダンジョンの気配に、似ている?)
胸の奥にざわりと不安が広がる。
その違和感に導かれるように、私は前を行くカイルたちの背を追った。




