#53 「偽りは飛び去り、真実はその後をひょろひょろと追ってくる。」—ジョナサン・スウィフト
それは、あまりに唐突だった。
白樫亭の自室で書類を整理していた俺に、カレンが報告をもたらした瞬間、手が止まった。
「ベルクシュタットで、再開発事業に否定的な噂が広まっています。複数の証言が確認できました」
「……噂?」
紙をめくる指先に力がこもる。
「権利変換と称して、土地や建物を取り上げられる、と」
「開発の名を借りて鉱山を乗っ取るつもりだ――そう囁かれているようです」
カレンは静かに言葉を重ねた。
「元鉱夫やその家族を中心に、反発が強まっています。話の内容や調子が似通っていて……意図的に流されている可能性が高いと見ています」
(……やはりギルドか)
言葉には出さなかったが、直感はそう囁いていた。 奴らは正面からではなく、水のように忍び寄り、証拠を残さないやり口を好む。白樫亭の時に嫌というほど思い知った。
そういえば――最近、資料室や商業ギルドの周辺で、妙に目につく影があった。気にも留めなかったが、あれは偶然ではなかったのかもしれない。
***
ベルクシュタットの広場に、男の怒声が響いた。
「出資だの権利の交換だの、耳障りのいい言葉ばかり並べやがって――結局は俺たちの家も暮らしも奪うつもりなんだ!」
足を止めた住民たちが顔を見合わせる。
「また貴族の都合で好き勝手にされるのか……」
「再開発なんて、一部の連中が儲かるだけさ」
露店の脇で布を畳む年配の女たちが、声を潜める。
「会館がきれいになったのは良かったけど、あのよそ者……信用できるかね」
「町が変わるって言うけど、私らの家はどうなるんだい?」
酒場の片隅では、かつて鉱夫だった男たちが黙々と酒をあおり、やがて低くつぶやいた。
「この町はな……前にも裏切られた。信じた末に、壊されたんだ。忘れられるもんか」
***
昼下がりのグランツ商会。
応接室に漂う香木の香りが、妙に濃く感じられた。
「……完全に先手を取られましたなぁ」
ユージンが差し出した報告書を手に取り、俺は目を走らせる。そこには噂の核心が、短い文で並んでいた。
『ソーマという男は、この町を乗っ取ろうとしている』
『権利変換は住民を追い出すための方便だ』
『鉱山を掘り返し、魔石を根こそぎ奪うつもりだ』
カレンは湯気の消えた茶を前に、長く瞼を伏せている。横顔には、思考の熱が張り詰めたような影が見えた。
「奪う、追い出す……言葉の選び方が巧妙ですね。私たちの意図と正反対の像を、印象だけで植え付けてしまっています」
「そうだな。俺たちは住民の暮らしを守るために制度を作ったはずなのに……届いてない」
「ええ、町の人たちには、根気強く、正確な情報を伝え続けるしかありません。住民説明会や帳簿の公開はもちろん、必要であれば一軒一軒、個別に説明に回ることも視野に計画を立てます」
カレンの声は落ち着いていたが、その端々には焦燥が滲んでいた。 理詰めの正攻法。それが彼女の信念だ。だが、敵は……そうした筋道を無視する手段で攻めてきている。
そのとき、ユージンが椅子の背にもたれたまま、ふっと鼻を鳴らした。
「……はは、なるほど。いやぁ、お見事や。不動産ギルドの連中、えらい手際やわ。住民の不安を煽る言葉だけ、見事に選りすぐって流しとる。タイミングも場所も、狙い澄ましたようや」
その語り口には、感心しているような響きすらある。
「面白がってる場合じゃない」
俺は低く返した。ユージンは肩をすくめる。
「いやいや、怒らんといてぇな。ボクかて、ソーマさんらの味方で動いてる身や。ただ……これはもう、情報戦や。“言葉”を握られた側は、反論する前に信頼を失う。冷静に言い返す間も与えられずに、や」
痛烈な指摘だった。
「……わかっています。だけど、戦うにも準備が要る。今すぐできることは限られている」
「ギルド側の情報網は、私たちの想定以上に広範です。ソーマさんが見たという白樫亭と資料室の出入りを見ていた男が、不動産ギルドの者だったとすれば……内部の動きも、早い段階で把握されていた可能性が高いです」
カレンの分析に、ユージンは苦笑を浮かべた。
「せやね。実際、うちのほうでも、商業ギルド内のいくつかの商会に打診をかけてみたんやけど……皆、口をそろえて時期尚早やら今は様子見やら。ソーマさんの構想自体は面白いけど、あの噂が本当なら出資は無理や……って、そんな話ばっかりやわ」
俺もカレンも、言葉を失った。
「慎重な物言いやけど、要するに、連中は噂をリスクとして認識しとる。 ボクとしても無理に押すことはできのやわ。こっちまで巻き込まれたと見なされるのは避けたい、いうのが大方の本音やね」
「……つまり、俺たちの信用が落ちている」
「というか、噂に反論していない状態そのものが、信用を削ってるってことやね。ボクも商人やさかい、気持ちはわからんでもないけど……」
ユージンは一息置き、真顔で続ける。
「いっぺん、伯爵閣下に正式に話を通してみたらどうやろ? この事業の枠組みだけやない、風評への対応という意味でも、後ろ盾ひとつあるだけで、風評の矢はかなり防げる。お上の言葉は、それだけ重たいんや」
俺とカレンは顔を見合わせた。 確かに、いま俺たちに必要なのは、制度設計でも工期の計画でもない――信頼を取り戻す、決定的な支えだった。
「……わかりました。手遅れになる前に動きます」
俺がそう告げると、ユージンはにやりと笑った。
「ま、あんまり真面目に考えすぎたら損するよ、ソーマさん。 この世界じゃ、真実よりも“信じたい物語”のほうが、先に人の耳に届くもんやからな」
その言葉にカレンは眉をわずかに寄せたが、俺は深く息を吐いて立ち上がる。
「早速、行ってきます」
部屋を出る俺の背に、ユージンのひと言が追いかけてきた。
「……伯爵閣下を安心させてあげてや。あの人だけやのうて、貴族は皆、秩序の乱れを何より嫌うんやからな」
***
ローデンブルグ領主館。
伯爵の執務室には、張り詰めた静けさが満ちていた。
深く椅子に腰掛けたシュトラウス伯爵は、杖の飾りを指先でなぞりながら、鋭さと静けさを湛えた眼差しで俺を迎えた。
礼を交わして席に着くと、すぐに口を開いた。
「ベルクシュタットの件で、ご相談とご報告があり参上いたしました」
「……ベルクシュタットに広がる噂のことだな」
俺はうなずいた。
「はい。いま進めている再開発について、住民の間で“家を奪う詐欺だ”といった噂が広がっています。広場や酒場でも耳にするほどです」
伯爵は短く頷き、続きを促す。
「誰が流しているか確証はありません。しかし……不動産ギルドの関与は、ほぼ間違いないかと」
ギルドは表向き沈黙を守りながら、裏で情報を集め、反撃の機を窺っていたのだろう。
「思い返せば、不審な点はいくつかありました。白樫亭で見かけた旅人と、後日商業ギルドの資料室で見た人物が同じ顔だったんです。最初は気にもしませんでしたが、今なら分かります。あれは監視でした。つまり、俺たちの動きは早い段階でギルドに筒抜けだった可能性が高い」
「ふむ……」
伯爵の視線が細められる。部屋に響くのは時計の針の音だけ。
「まだ、再開発に関する住民への説明会は開いていません。それなのに、誤解を含んだ情報が先に広まっている。“権利変換”という言葉が“奪う”という印象にすり替えられているんです。本来は暮らしと財産を守るための等価交換の仕組みなのに、それを逆手に取られ、詐欺のように扱われている」
思わず唇をかんだ。
言葉を握られる怖さを、改めて思い知る。
「噂を広める側の動きは迅速で的確です。住民の記憶や不安に寄り添う形で浸透させている。しかし制度の正しさを丁寧に伝えれば、時間はかかっても打ち消すことはできます。説明会を開き、帳簿を公開し、カレンと共に数字と手順を示しながら、一つずつ誤解を正していくつもりです」
「……だが、噂はそれだけではあるまい?」
伯爵の問いに、頷いて続けた。
「もう一つ、“俺たちが坑道で怪しいことをしている”という噂です。実際には、坑内に立ち入ってもいません。ですが再開発にドワーフのグラムを加えたことで、その存在が尾ひれを生んだのでしょう」
言葉を探しながら続ける。
「さらに、以前から坑道に怪しい人影が出入りしていたという古い噂があり、それと俺たちの計画が混同されてしまったようです。この状況で安易に否定すれば逆効果になりかねません。だからこそ、まず事実を掴む必要がある」
「調査を行うつもりか」
「はい。時期的に噂を助長する恐れは承知しています。ですが事実を知らぬままでは、根を断つことも不安を払うこともできません。ベルクシュタットの生活に直結することです。現地調査で実態を把握し、そのうえで情報を公開し、丁寧に説明する――それが必要だと考えています」
伯爵は視線を落とし、杖の柄を撫でながら口を開いた。
「……ソーマ君。君が進めようとしているのは、ただの再開発ではない。この町の在り方そのものを問い直し、新たな価値を探る試みだ。制度を持ち込むだけでなく、伝統や生活と真正面から向き合い、共存の道を探ること――その意義を忘れぬように」
「……肝に銘じます」
叱責ではない。だが胸に深く沈む言葉だった。
町を変えるのは、力でも論理でもない。
人と向き合い、言葉を尽くして積み上げること。
それこそが――土地を変えるということなのだ。
ご覧いただきありがとうございました。
「偽りは飛び去り、真実はその後をひょろひょろと追ってくる。」—ジョナサン・スウィフト(『ガリヴァー旅行記』の著者)のこの言葉は、嘘が瞬く間に広がり、真実が追いつくのに時間がかかる様子を表しています。
本話では、根拠のない噂が一度広まると、真実で打ち消すことの難しさ、そして町づくりにおける信頼の重要性を描きました。




