#52-1 「世の中のどんな力も、時が満ちたひとつの思想ほど強力ではない」—ヴィクトル・ユゴー
ベルクシュタット会館の改修は、まず成功した。稼働率も上々で、住民たちの表情にも、かすかな明るさが戻りつつある。
新しい会館は、町民の士気を高めるための公共施設として、その役割を十分に果たしていた。
白樫亭での帳簿整理を終えた俺は、カレンとテーブルを挟んで向かい合っていた。テーブルには、会館の運営状況を示す報告書が広げられている。
「会館のリノベーションの成果は良好です。しかし、点在する所有者不明地や荒廃区域を本格的に再開発するには、既存の商会の枠組みや個人の力では、目標達成は難しいでしょう」
カレンの淡々とした口調が、かえって課題の大きさを浮き彫りにする。
町の荒廃と人の流失で、建物の所在や権利者が不明な区画も多い。
加えて、鉱山閉鎖以降の税収減、累積債務……町を覆う構造的な困難は、そう簡単には拭えなかった。
「その通りです。……今の商会の枠組みでは、どうにも限界があります」
俺はゆっくりと頷き、視線を報告書からカレンに向けた。
「商会は個人商店の延長であり、信用も資金も当主個人に依存します。規模が大きくなっても、経営は個人の裁量に過ぎず、大手商会でも所詮は、『個の信用』が基盤です」
カレンは頷いた。異論はないようだ。
ここで、俺は一息置いて、身を少し乗り出した
「そこで……『株式会社』という概念を導入したいと考えています」
その言葉に、カレンの眉がわずかに動いた。
「……カブシキガイシャ、ですか?」
言い慣れない響きを慎重に口にしながら、彼女は首をかしげる。俺は、静かに続けた。
「はい。たとえば、伯爵家の持つ土地、住民たちの建物、我々の技術や労務、そして商人たちの資金―― それらを『出資』という形で一つの事業体に集約するんです。その事業体が新たな建築やインフラ整備を行い、そこから生まれた利益や権利を、それぞれの出資比率に応じて『分配』する」
「……なるほど。あらゆる方面から資産集めて、それを元手に共同で事業を起こす、と」
「ええ。そして、この仕組みで一番重要なのが、“出資比率に応じて、議決権、つまり意思決定権を持つ”という点です。誰がどれだけ出資したかによって、その事業体の運営方針にどれだけ関与できるかが決まる。つまり、資金・土地・建物・労務――形は違えど、“貢献”に見合った影響力をもつ仕組みなんです」
カレンは考え込むように眉を寄せたが、すぐに顔を上げた。
「では……貴族が土地を、商人が資金を、住民が建物や労働力を出す。全員が“事業体の一部”として権利を持ち合う、ということでしょうか?」
「その通りです。しかも、その事業体は誰かの死によって消えることもなく、継続的に運営されていく。都市の再生やインフラ整備、観光開発、鉱山の安全管理まで……一代では終わらない仕事にこそ、この枠組みが必要だと考えています」
「……個人や商会の枠を超え、継続的に機能する器。ベルクシュタットの再開発には、確かに——その仕組みはうってつけです!」
彼女の声には、いつにない感情が込められていた。それは驚きと、新しい可能性を見出した喜びが宿どった声だった。俺はさらに踏み込む。
「それに加えて、“権利変換”という考え方があります」
「……変換、ですか?」
「たとえば、老朽化した建物や、占有者が不明の土地。今は価値を失っていても、評価を行い、新たに建設される施設の所有権や収益と“交換”できれば――住民は過去の権利を失うことなく、“形を変えて持ち続ける”ことができる。それが可能になれば、複雑な権利関係も整理され、再開発に協力しやすくなるはずです」
「……権利を奪わず、形を変えて残す。たしかに、この町に必要な考え方かもしれませんね」
カレンの目に、再び静かながらも確かな、柔らかな感嘆の光が宿った。
「ええ。力で押し通すのではなく、構造で支える。それが株式会社の本質です」
しばらく沈黙が続いた。カレンは顎に手を添え、沈思の色を浮かべていたが、やがて目を開いた。
「……構想は理にかなっています。ただ、実現には制度の壁が多いと思われます」
「具体的には?」
「まず、その株式会社という“事業体”に明確な法的地位を与える必要があります。現在でも、ギルドや商会は会館や資産を所有できますが、登記上は代表者個人と結びついています。ソーマ様の構想は、明確に“組織そのもの”に財産と権利を帰属させる仕組みですよね?」
「はい、まさに組織そのものが独立して財産や権利を持つ形です。必要なら新たな制度として、伯爵の後押しを得るつもりです」
カレンは一度頷き、次に別の懸念へと視線を移した。
「もう一点――議決権の設計です。もし出資比率に応じて発言権が定まるのなら、伯爵家の影響力が過小評価される恐れもあります」
「ええ。そこは最初から調整前提で設計するつもりです。出資とは別の特別議決条項――特定の決議には伯爵家の承認を必要とするなど、現実に即したかたちで構築します」
カレンは静かに目を伏せ、そして再び俺を見た。
「……分かりました。大胆でありながら、この上なく理に適っていると思います。このような発想は、私にはありませんでした。制度設計とは、知識と構造、そして覚悟を秤にかけること。 ぜひ協力させてください、ソーマ様」
その言葉に、俺は心の底から――この出会いに、感謝した。
カレンが帳簿の一角に印をつけたタイミングで、俺はふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、新会社の構想について、ユージンにも相談してみようと思っています」
カレンの手元がわずかに止まった。
静かな間。
「気がかりな点でもありますか?」
問いかけると、カレンは目を伏せ、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「ユージン・グランツ氏。……彼は若くして現在の商会を築き上げた人物です。記録によれば、ローデンブルグに拠点を移し、商業ギルド支部に加盟したときにはすでに一定の資産と取引網を有していたようです」
「つまり……以前の経歴は?」
「はっきりしていません。少なくとも、旧来の商家や名門商会の出身ではないようです。ですが、その手腕は本物。今ではローデンブルグ支部の副ギルド長。卸売、小売、運搬に仲介業まで――各地に人脈を持ち、国内外に取引を広げている模様です」
そこまで聞いて、俺は軽く息を吐いた。
「……彼については、ルミナス侯爵家のエリシアから忠告を受けたことがあります。“あの人は一見柔らかく見えても、常に手の内を隠している。主導権を握られないように”と」
俺はその言葉を、忘れていたわけではない。
だが、白樫亭の一件で支援してくれた彼への感謝が、知らず知らずのうちに判断を甘くしていたかもしれない。
警戒すべきか――それとも、信頼に足るか。
だがその線引きを、いま決めつけるのは早計だとも思った。
ユージンは確かに商人であり、俺とは違う論理で世界を見ている。
だが、先日の会談の際に、彼がくれた言葉は、明確な利害の上に立ったうえでの理解だった。
「彼の狙いがどこにあるのか、今はまだ測りかねます。ですが少なくとも、こちらの思惑を真っ向から否定するような相手ではない。……今の俺たちとしては、それだけでも十分なはずです」
わずかに視線を上げたカレンの表情には、不安の中にも、理解しようとする意思が宿っていた。
「出資者としての協力は否定しません。ただし……議決権や経営方針への影響を含め、グランツ氏との関係性の整理は慎重に行うべきです」
「確かに。会社にとって誰が“支援者”で、誰が“構成者”か――その線引きは明確にしておきたい」
「……でしたら、事前に出資比率と役員構成に制限を設け、契約書の草案を準備しておきますね」
その口調に、いつもの冷静さと、わずかな安心が混ざっていた。
俺は静かに頷き返す。
疑念と信頼のあいだで、バランスを取ること。
それもまた、制度を創る者の責任だ。




