#50-2 「人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだ」— ジョン・レノン
「ただいま戻りました」
ベルクシュタットの埃っぽい空気を全身に纏い、俺は白樫亭の玄関をくぐった。
約三週間の現場作業で、肌は陽に焼けて精悍さを増し、衣服には土と木くずの匂いが染みついていた。その疲労感を一瞬で吹き飛ばすかのように、アメリアとフィオナが笑顔で俺を出迎えてくれた。
「ソーマさん! おかえりなさい!」
フィオナが小走りに駆け寄り、安心したように俺の袖をそっと掴んだ。その眼差しには、安堵と、かすかな心配の色が混じっているように見えた。
彼女の透き通るような白肌と、温泉宿の温かい空気。それが、埃っぽい工事現場との強烈なコントラストとなって、俺の五感を刺激した。
「みんな元気だったか?」
「ああ、おかげでな! ソーマがいない間も、宿は相変わらず大繁盛だぜ」
カイルが屈託のない笑顔で俺の背を叩く。コールの無言の頷きも、彼なりの歓迎の意だろう。
湯気が立ち込める白樫亭の浴場は、作業と長旅の汚れを洗い流すには最高の場所だ。湯に浸かり、目を閉じれば、凝り固まった筋肉がゆっくりと解けていくのがわかる。
疲労と共に、意識の奥底に張り詰めていた緊張も和らぎ、安堵が広がった。湯上がりの火照った体に、冷たい果実水が喉を潤す。
その日の夕食は、フィオナが腕によりをかけたご馳走だった。温かいスープ、肉厚のロースト、色とりどりの野菜。
カイル達も共にし、囲む食卓には、彼らの他愛ない冒険談や、フィオナの宿での出来事、アメリアの温かい眼差しがあった。
俺は、この穏やかな日常の中にこそ、異世界での自身の拠り所があることを改めて感じていた。ベルクシュタットでの目まぐるしい日々が、まるで遠い過去の出来事のように思えるほどに。
***
翌日、俺は白樫亭のサロンでカレンと向き合った。
机の上には、ベルクシュタットの地図、グラムの描いた進捗図面、そしてカレンが用意した資金計画書が広げられている。
「会館の改修工事は順調です。予定通り、来月には完了する見込みです。ただ――その先の街中心部の再開発には、比較にならない課題が控えていますね」
カレンの声は落ち着いていた。資料と俺の顔を的確に行き来する視線に、無駄はない。
「特に厄介なのは、土地の権利関係と、それに伴う立ち退きと補償の問題ですね」
「ええ。ベルクシュタットの土地は伯爵家が所有し、住民は借地契約を基に建物を構えています。ただし、その借地契約も時期や契約形態がまちまちで、転貸や建物の貸与も多く、権利関係は非常に複雑です」
「つまり、まずはそれを整理し、住民の利害を調整する必要がある、と」
「はい。再開発区域を定めたうえで、仮住まいや補償金の用意もしなければなりません」
カレンは資料の一頁を指し示す。仮住まいの候補地と補償費用の概算が、几帳面な字で記されていた。
「失礼します」
その時、扉が開き、フィオナが盆を手に入ってきた。湯気の立つ茶と焼き菓子。長引く打ち合わせを見越した、彼女らしい心配りだ。
俺の茶碗を替えたあと、フィオナはカレンの前にも手を伸ばした――が、ふと動きを止める。
カレンの横顔を、まじまじと見つめていた。
「……フィオナ?」
声をかけると、彼女は小さく肩をすくめ、気まずそうに笑った。
「いえ……すみません。カレンさん、とても綺麗で……」
そう言って、俯いたまま茶を置いた。
その一言に、カレンはわずかに目を見開いたが、すぐに微笑を浮かべた。
「ありがとうございます」
その返答は丁寧で柔らかかった。だが、置こうとした茶碗が思ったよりも滑り、ソーサーの縁にカツンと引っかかった。
慌てて持ち直し、何事もなかったように微笑を保つ――が、僅かに耳が赤く染まっているのが見えた。
フィオナは小さく頭を下げ、すぐに踵を返して部屋を出ていった。
ドアが閉まる直前、背を向けたまま、指先で自分の前髪をいじる仕草が見えた。
その背中に、何か言葉をかけるべきか迷ったが、結局黙ったまま見送った。
扉が閉まると、空気がまた仕事の場に戻っていく。
「……続けてください」
俺が促すと、カレンは再び資料へと視線を落とした。
「次に問題となるのが、土地の区画変更と再整備です。旧借地権に応じて新しい区画を再割り当てする必要がありますが、現状では、それを公正に行うための土地評価の基準が存在しません」
「……まさか、不動産ギルドでも土地の評価基準を持ち合わせていない?」
「いえ、不動産ギルドには土地評価基準があって、公的に運用されてはいます。ですが、それは地主優位の基準です。今回の再開発で住民の大多数が納得できる形にするには、私たちで新たな評価指標を構築しなければなりません」
俺は息を吐いた。
日本で経験した再開発事業の複雑さが、異世界でも別の形で立ちはだかっている。制度も前例も、すべてが手探りだ。
「そして……最大の課題は、資金です」
カレンの声が、思考を現実に引き戻す。
「通常なら商業ギルドや有力な商会に出資を募るところですが、鉱山からの権益が失われ、新たな産業もままならない今、従来の枠を超えた調達手段が必要です」
(資金……か。この規模のプロジェクトを支えるには、これまでの常識を覆すような調達手段が必要だ。こんな時こそ、日本の不動産業界で培った知識と経験が役立つかもしれない)
***
カレンが資料を片付け、一礼して部屋を出ていくと、サロンに静寂が戻った。
俺は背凭れに深く身を預け、ゆっくりと息を吐く。連日の激務で、頭の芯が痺れるような感覚だ。
「ソーマ!」
勢いよく扉が開き、カイルが顔をのぞかせた。
珍しく落ち着かない様子で、きょろきょろと部屋の中を見回している。
その背後には、腕を組んだまま小さな溜め息をついているコールの姿があった。
「なあ、さっきの女の子……あの資料持ってた人、名前なんて言ったっけ?」
「カレンだよ。カレン・アーデルハイト」
「ああ……カレン、っていうのか」
カイルは小さく頷くと、そのまま目線を伏せて、なぜかしみじみと反芻していた。
「カイル? どうした?」
俺が訝しげに問うと、カイルははっとして頭をかき、あわてて取り繕うような笑顔を浮かべた。
「いや、その……ただ、名前、聞いただけでさ。な、なんとなく!」
コールは横で無言のまま軽く肩をすくめ、視線だけで“やれやれ”とカイルに送っていた。
「あらあら、カイルったら、分かりやすいわねぇ」
エレノアがにやにやと笑いながら横から顔を突っ込むように現れ、隣のカイルの脇腹を肘でつつく。
コールは無言のまま、視線だけでゆっくりと頷いた。
「あの娘、昔、カイルが村で好きだったリゼットに似てるのよ。真面目で、お勉強ができる娘が好みだったじゃない、カイルは!」
「お、おいっ、やめろって、エレノア!」
カイルは顔を真っ赤にして手を振ったが、エレノアは笑いを堪えながら肩をすくめるだけだった。
「ソーマさん、カイルさんの恋、応援しましょう! この恋、絶対かなえるべきですっ!」
いつの間にか背後にいたフィオナが目を輝かせながらそう言い、カイルの背中をポンポンと叩いた。
「おいおい……いい加減にしろって!」
カイルは苦笑交じりに手を振り、頬をかすかに赤く染めながらも、やや強引に話を打ち切ろうとしている。
そんなやりとりを他人事のように眺めながら、ふと帳場に目を向けると――
アメリアが、穏やかな眼差しでこちらを微笑ましく見守っていた。
ああ、こういう空気も、悪くない。
肩に乗っていた疲労の一部が、どこかへ抜けていくようだった。
ご覧いただきありがとうございました。
本話はジョン・レノンの名言「人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだ」をテーマにしました。計画通りにはいかないからこそ、人生は面白いという意味です。
前半で描いた再開発という「計画」の困難さと、後半で描いたカイルの恋という予期せぬ「人生」を対比させています。そのギャップを楽しんでいただけたなら幸いです。
今の主人公にとって「ベルクシュタットの未来」という計画は最重要課題です。しかし、白樫亭に戻り、仲間と笑い合う何気ない時間こそが、彼にとっての本当の「人生」なのかもしれません。




