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#06「悪が栄えるために必要なのは一つ。 善人が何もしないことである。」— エドマンド・バーク

 エリシアとの会話が終わり、彼女が食堂を後にした後も、俺はしばらくその余韻に浸っていた。


 初めて出会ったエルフ。

 その美しさに目を奪われたのはもちろんだが、それ以上に、堂々とした振る舞いと鋭い眼差しが印象に残っている。

 まるで、こちらの内面まで見透かされているような——そんな錯覚を覚えるほどだった。


(エリシア……か)


 彼女の名を頭の中で反芻しながら、スプーンをシチューに戻した。

 少し冷めてしまったが、しっかりとした味は相変わらずだ。


 食事を終え、立ち上がろうとしたとき、宿の玄関先から聞こえてくる声に気づいた。


「おやおや、アメリアさん。いつまでそんな強情を張るつもりですか?」


 ねっとりとした低い声が響く。

 声のする方へ向かうと、そこでは、アメリアが三人の男たちと対峙していた。


 最前列に立つ恰幅のいい中年男は、仕立ての良い衣服を身にまとい、太い指には金の指輪がいくつも光る。

 その後ろには無精ひげを生やした筋肉質の男と、派手な服装の若い男が控えていた。


 中年男は脂ぎった笑みを浮かべながら、ひらひらと指を動かしていた。

「この宿がどれほど素晴らしいか、私もよく存じておりますよ」


「ですがね、アメリアさん。時代は変わるものです。宿屋はギルドの管理下に置いたほうが、より安定するとは思いませんか?」


 男はアメリアを見下ろしながら、ゆっくりと両手を広げる。


「それに、周りも続々と時代の流れに乗っていますよ。お隣の『黄金の林檎亭』さんも、私どもに所有権を移すことに合意してくださいました。この街に残っているのは、この白樫亭だけなんです」


「……何度も申し上げています。私たちの家族が代々守ってきた宿です。手放すつもりはありません」

 アメリアの声は静かだったが、その瞳には強い拒絶の意思が宿っていた。


 だが、中年男はまったく意に介した様子もなく、くっくっと喉を鳴らして笑った。

「それは困りましたねぇ……」


 わざとらしく首を振り、さらに一歩踏み出す。


「最近、この辺りの宿の評判があまりよくないと聞いています。特にこちらの宿は、夜うるさくて近所迷惑だという声もありましてね」


「何を言っているの? うちの宿では夜十時以降は静かにするよう厳しく指導しています。とんだ、言いがかりです」

 アメリアは毅然とした態度で返した。


「へぇ、そうですか? でも、不動産ギルドには確かに苦情が届いていますがねぇ」

 若い男が、わざとらしく腕を組んだ。


「それに、この宿では先日食中毒事件もあったらしいですね」


「食中毒? そんなことは一度もありません!」

 アメリアの声が強くなる。


「いや、あったんですよ。少なくとも、そういう噂が立っている。噂というのは恐ろしいものですよ。一度広まれば、真実かどうかなんて関係ない。実際、客も来ていないみたいですねぇ。これじゃあ、この宿も長くは持たないでしょうね」


 中年男はゆっくりと言った。

「アメリアさん、あなたも女手一つでこの宿を切り盛りするのは、さぞ心細いでしょうに」


 その言葉に、俺は思わず拳を握った。


 こいつ……。このねっとりとした声、脂ぎった笑顔、弱みを握っては巧妙に追い詰めていく手口……まるで元の世界で見た、悪徳不動産業者そのものだ。



(あの頃の俺は、何もできなかった……!)


 あのブラック企業に入りたての頃、法や制度の隙間をかいくぐる連中を前に、ただ歯噛みするしかなかった記憶が蘇る。

 あの時の無力感が、今、胸の奥底で灼けるような怒りとなって燃え上がっていた。


 中年男は歩き回りながら、宿の内装を見回した。

「この宿も、だいぶ古くなりましたね。柱も傾いているし、屋根も修理が必要そうだ。こんな状態で営業を続けるのは危険かもしれませんね」


「うちの宿は毎年きちんと点検しています。問題ありません」

 アメリアは冷静に答えた。


「そうですか? ですが、私たちには別の見解がありますよ」


 若い男が、テーブルの上に置かれた花瓶を手に取った。

「これも、だいぶ古いですね。壊れやすそうだ」


「それを置いてください」

 アメリアの声が強くなる。


「あぁ、すみません」

 若い男は花瓶を置こうとしたが、わざと手を滑らせ、床に落とした。


「あ、手が滑った。申し訳ない」


 花瓶は粉々に砕け散った。


 中年男はさらに歩み寄り、アメリアの手を取ろうとする。

「私なら、お力になれますよ? フィオナちゃんだって、美しい娘さんだ。二人とも、もっと楽に生きる道を選んではどうです?」


「……ふざけないでください」

 アメリアの声が鋭くなった。


「私は、あなたの施しを受けるつもりはありません。それに、娘にまで手を出そうとするなんて……最低ですね」


「おやおや、そんなに警戒しないでください。私はただ、未来の話をしているだけですよ?」

 中年男は薄ら笑いを浮かべたまま、ゆっくりと身を引いた。


「ただ、こういった不幸な事故は続くものです」


 粉々になった花瓶の破片を見ながら続ける。

「この街も夜になると危険な人間も出歩くようになる。特に、綺麗なお嬢さんがいる家は狙われやすい。気をつけた方がいいですよ」


「まあ、いずれにせよ、決断は必要です。近々、正式な書状を送りますので、心の準備をしておいてくださいね?」

 そう言い残し、三人の男たちはゆっくりと宿を後にした。


 その背中を見送りながら、俺は奥歯を噛み締める。

 こいつらが本気でこの宿を潰しに来ているのは明白だ。


 だが——。


「アメリアさん、今の男たちは……?」

 俺がそう尋ねると、彼女は深く息を吐き、俺を見た。


「……グスタフ・ハインリッヒ。不動産ギルドのローデンブルグ支部長よ。彼と彼の部下たちね」


 アメリアは無言のまま花瓶の破片を手に取りかき集める。

 その手は、わずかに手が震えていた。


「あっ、手伝います」

 慌てて破片を拾うと、「ありがとう」とアメリアは小さく言った。


 そして、片付けを終えると、ふっと小さく息を吐いて、そのまま奥へと引っ込んでいった。



 俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて部屋に戻ろうと歩き出した。


「ソーマさん!」 背後からフィオナの声が響き、思わず立ち止まった。


 振り返ると、フィオナが小走りに駆け寄ってくる。

 どうやら先ほどのやり取りを彼女も見ていたようだ。


 恐怖の名残が顔に色濃く残っているが、懸命に平静を装おうとしている様子だった。


「大丈夫か? あいつらは……」


「……はい、大丈夫です」

 強がっているような口調だったが、その声はかすかに揺れていた。


「でも、お母さんのほうが心配です。あんな脅され方をして……」

 フィオナはためらいがちにそう言うと、ふと思い出したように顔を上げ、心配そうに俺を見つめた。


「あ、そうだ、ソーマさんの怪我の具合はどうですか?」


「ああ、もうだいぶ良くなったよ」

 努めて軽く答えたが、フィオナは納得していない様子だった。恐らく話題を逸らしたかったのだろう。


「ちょっと、見せてください」

 フィオナはそう言うなり、俺の傷口にそっと手をかざした。柔らかな光が彼女の手から溢れ、暖かな感覚が傷口に染みわたっていく。癒しの魔法だ。


「……やっぱり、フィオナの魔法はすごいな」

 素直な感想が口から漏れた。フィオナは少しはにかんだが、すぐに表情を曇らせ、視線を足元へ落とした。


「ありがとうございます。でも……私、まだ修行中なんです。もっと上手に魔法が使えれば、ソーマさんの怪我なんてすぐに治せるのに……」


 彼女の声には悔しさと歯がゆさが滲み出ていた。

 その奥には、先ほどグスタフたちを前に何もできなかった自分自身への無力感も含まれているように思えた。


「いや、十分助かってるよ。ありがとう」


 俺の言葉に、フィオナは微かに頬を赤らめ、照れたように笑ったが、すぐにうつむいた。

「私、何もできませんでした。大切な花瓶も壊されて……お母さんもあんな風に脅されて……」


「それは君のせいじゃない。あいつらが卑怯なだけだ」


 フィオナの震える声に、俺は思わず彼女の肩に手を置いた。 その小さな身体に宿る恐怖と、それでも母や俺を心配する優しさが痛いほど伝わってくる。


「……何ができるかわからないけど、俺も何か力になれたらいいと思ってる」


 その言葉に、フィオナは小さく目を見開いた。心の奥に届いたのか、わからない。けれど、ほんのわずかでも支えになれば、それでいい。


「……ありがとう、ございます」

 かすかに震えながらも、彼女の声には少しだけ温度が戻っていた。



     ***



 部屋に戻った俺は、ベッドに身体を伸ばし、静かに天井を見上げる。



 俺はなぜ、ここにいる?


 気がついたらこの異世界にいた。

 最初は夢かとも思ったが、二日経っても目が覚めない。


 となれば、これは現実なのか?

 それとも……俺は元の世界で過労死してしまって、ここは死後の世界だったりするのか?


 いやいや、そんなバカな話があるか。


 第一、死後の世界にしてはずいぶんと物騒すぎるし、腹は減るし、痛みだってしっかり感じる。

 もし本当に死後の世界だったら、もうちょっと待遇が良くてもいいだろう。


 このまま時間がたてば、元の世界に戻れる? いや、何かイベント的なものをこなす必要があるのか?



 ……まあ、考えたところで答えは出ない。


 ここの世界が何であれ、帰り方がわからないならば、結局のところ、ここで生きていくしかないんだ。

 

 生活慣習に違いはあるだろう。

 それでも幸いなことに、言葉は通じる。

 文字もなぜかはわからないがローマ字にそっくり——というより、日本のローマ字だった!


 元の世界では、合理的に考え、損得を計算し、負け戦を避けるのが俺の信条だった。

 だが、この世界に来て、それだけでは通用しないことを痛感している。


 現実の厳しさは変わらないが、ここでは利益だけでなく、人の意志や歴史が強く絡み合っている。

 この世界には、理不尽なルールもある。

 貴族やギルドの力が絶対で、金と契約だけでは解決しない問題が多い。

 俺はそれを変えられるのか?


 さっきのアメリアたちの話だって、そうだ。


 不動産ギルドの嫌がらせ、不当な立ち退き、流されるデマ……

 こんなこと、今時、反社まがいの悪質な地上げ屋だってやらない。

 やつらのやり口は、俺が元の世界で最も嫌悪していたものだ。



 それにしても……転移してすぐ、あの体験は本当に不思議だった。


 カイルや魔獣の動きが、わずかに先読みできたこと。

 地面が輝き、光の粒子がカイルたちや魔物を形づくったように見えた。

 あの一瞬、頭の中に、あの場の情報が流れ込んできた気がする。


 異世界転移の代償に、こんな力を得た……?


 だったら、もっと分かりやすいチート能力が良かったよな!

 例えば一振りで竜を倒せる剣技とか、最強魔法が勝手に使えるスキルとかさ!

 なんでよりによって、「なんかよくわからない直感」みたいな能力なんだよ!


 ……とはいえ、愚痴ってる場合でもない。

 現実問題として、俺は今、無一文だ。


 この宿に泊まれるのはあと二泊。

 カイルたちを助けたお礼に、怪我が治るまでの三日間は彼らが宿代を出してくれているが、それを過ぎれば路頭に迷う。


 まずはどうやって金を稼ぐか……当てがない。 

 とりあえず、カイルたちが戻ったら相談してみるか。


 ……頼むから、最低限食える仕事がありますように。


ご覧いただきありがとうございました。


第6話では、宿の女将に対する不動産ギルドの悪質な嫌がらせを描きました。主人公は目の前の不正行為を目撃し、過去の経験からくる無力感と怒りを感じます。


今回のタイトルに引用した名言「悪が栄えるために必要なのは一つ。 善人が何もしないことである。」——エドマンド・バーク は、まさにこの状況を示唆しています。悪が横行するのは、善意を持つ人々が傍観するからだという意味です。


主人公は今、「何もできない」という状況と向き合っています。この異世界の理不尽に対し、彼がどう立ち向かうのか。今後の展開にご期待ください。


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