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#48 「数字は自らを語らない。我々が意味を吹き込むのだ」― ネイト・シルバー

 商業ギルドの資料室は、ギルド内の他の部署の喧騒や熱気とは対照的に、時が止まったような静けさに包まれていた。


 羽ペンの走る音。書棚をなぞる指の音。頁をめくる微かな紙のざわめき――そのかすかな音だけが、この空間に流れる動きのすべてだった。


 ユージンが紹介してくれた「彼女」は、この部屋にいるはずだ。

 案内された扉の前で、俺はそっとノックした。


「どうぞ」


 戻ってきた声は、落ち着きと芯の通った音色。乾いた木材のような響きがあった。 扉を開くと、紙とインクの香りがふわりと鼻先をくすぐった。


 机に向かう女性は、ダークブラウンの髪をきっちり束ね、白シャツに濃紺のベストを身につけていた。

 彼女は細い眼鏡の蔓に指をかけてくいっと位置を直すと、その琥珀色の瞳を帳簿からゆっくりと上げた。冷静で澄んだ視線が、まるで数字を見るようにこちらを捉える。


 装飾は最小限で、立ち居振る舞いには一切の無駄がない。ただ、そこにいるだけで、静かな規律を空間に与えるような気配があった。


 彼女の名は――カレン・アーデルハイト。

 ユージンが「帳簿で語れる娘」と表現した、商業ギルドの職員だ。


「初めまして。カレン・アーデルハイトと申します。グランツ商会のユージン氏より、ソーマ様が訪ねていらっしゃると伺っておりました」

「どうも。相馬直樹です。お忙しいところにすみません」


 名乗ると、彼女は丁寧に会釈し、すぐさま帳簿に視線を戻す。


「……少々お待ちいただけますか。現在処理中の帳票を一件だけ」


 俺が頷くのと同時に、羽ペンが音もなく走り出す。筆圧は一定。数字の文字が寸分の狂いもなく並んでいく。その均整に、俺は自然と見入っていた。


 ふと、彼女の足元に違和感を覚えた。


 完璧に整理された机の下――椅子の脚元に、革製の小さな財布のようなものが、半ば隠れるように転がっていた。


 落としたのか。あるいは、気づいていて無視しているのか。


 あるべきものがあるべき場所に収まっている——この徹底した完璧主義の空間に、ただひとつぽつんとあるその財布だけが、やたらと場違いに見えた。


「お待たせしました。では、ご用件を」


 帳簿を閉じたカレンが、再び視線をこちらに戻す。


「現在、私は伯爵閣下より正式に依頼を受け、ベルクシュタットの再開発計画を進めています。この国では、土地の所有権は貴族にあり、住民は借地あるいは使用権の下で生活している。収用令状さえあれば、事業のために住民を強制的に移転させることも可能ですが……私はそれを避けたいと考えています」


 カレンが小さく頷いた。


「再開発事業における土地収用と代替地の割当ですね」

「ええ。ただし今回は、ただ場所を奪って配置し直すのではなく、各戸の建物と使用権の価値を適正に評価し、事業完了後に元の土地・建物の価値に基づき再配分するスキームを考えています。資産評価に基づく合意型の調整モデルです」

「……強制収用ではなく、換地型の権利調整ということですね。土地再配置と資産再評価を前提とした」


 その応答は簡潔で、正確だった。


(早いな。内容の理解も、応答の切り返しも)


 再開発における最大の壁は、既存権利者の調整と、資産評価の正当性だ。カレンはその要点を的確に掴み、言葉にして返してきた。


「この国の収用制度は貴族に都合よく設計されています。けれど、住民が自ら戻りたいと思える再生でなければ、町は形だけで終わる。意味ある再定住のためには、制度の外にもう一段階、納得の仕組みが必要だと思うんです」

「……事業の成否を、建物や街並みの完成ではなく、住民の戻り方に置いているんですね」

「再開発というのは、物理的な工事ではなく、“街の意味の更新”だと思っています。地図の上の線引きではなく、誰がそこに居るかまで含めた再設計でなければ、真の再生にはならない」

「……言い回しに情緒がありますね」

「数字だけでは、人は動かせませんから」


 その瞬間――カレンの表情が、ほんのわずかに動いた。

 驚いたような、あるいは、興味深そうな、そんな曖昧な緩みだった。


「……確かに。なるほど。意味は理解しました。収支バランスと行政的正当性の見通しが立てば、制度化も可能だと思います」


 そう答えると、カレンは一枚の羊皮紙を広げ、さらりと筆を走らせ始めた。


「では仮に、既存建物の評価額を基準とした補償スキームを前提に、再開発後の新たな権利配分を構築する場合……」


 淡々とした口調のまま、彼女の手は止まらなかった。


 地代水準の換算係数、再配置先における容積率の調整枠、商業・住宅別の経済波及係数――

 俺がまだ言葉にしていない条件までも含めて、数字が構造として紙の上に現れていく。


(この女性……想像以上だ)


 ただ計算が速いのではない。漠然とした構想を具体的な制度へと落とし込み、その構造を言葉と数式で明確に示せる―—そういった能力を持つ人物だ。


「……ここまで、数分ですか。すごいですね」


 俺の言葉に、カレンは一度手を止め、ペン先を紙縁で拭った。


「いえ。この計算は仮定が多すぎて不正確です。現地の契約形態や建物規模、それから――住民の意向、ですね。……数字は、あくまで理論上の骨組みです。実情がなければ、形にはなりませんから」


 そう言ったあと、彼女の表情が、ほんのわずかに緩んだ。


「カレンさん、力を貸していただけますか?」


 カレンは筆を置き、真っすぐこちらを見た。


「はい。ソーマ様の構想は、数字を扱う者として、ぜひ向き合ってみたい奥深い課題だと感じています。制度と実務を繋ぐ、この新しい道筋を共に検証することに、大きな意味があると思います」


 言葉の一つひとつが明快だった。余計な感情を差し挟まない。だが、その“判断”にはどこか真っ直ぐなものがあった。


 合理的。……けれど、それだけじゃないようにも感じる。


 彼女は、理に従って選んでいる。だがその奥に、何か別の、静かな覚悟のようなものがある気がした。

 

 ―—その時だった。

 カレンが立ち上がろうと椅子を引いた拍子に、足元の財布がコツン、と音を立てた。


 ちら、と彼女の視線が足元へ。転がった財布を見つけると、すぐに視線を逸らし、何事もなかったような顔でこちらを向いた。


 俺は何も言わず、デスクの下からその財布を拾い、机の隅にそっと置いた。


 カレンの視線が、無言で財布に吸い寄せられる。


「その……っ、すみません! まさか、こんなところで落とし物を! 普段は絶対にありえないのに……! 本当に、たまたまです、たまたま!」

「わ、私としたことが……」

「――わかってますよ」


 彼女は目を伏せ、慌てた様子で財布を鞄にしまった。その頬は、耳まで真っ赤になっていた。


 いや、さっきまでの冷静沈着な姿とのギャップが、なんだかおかしくて。思わず、口元が緩んでしまう。数字や帳簿だけでは決して見せない、彼女の人間らしい一面に、妙に親近感を覚えた。


「カレンさん。近日中にベルクシュタットを視察しようと考えています。もし可能なら、ご同行いただけますか?」


 彼女はわずかに眉を上げた。


「視察、ですか?」

「ええ。現場でしか得られない情報があります。地図や帳簿だけでは測れない流れを見ておきたい」

「……現地確認は、確かに必要ですね。数字だけでは見えない実情こそが、制度の裏付けとなりますから」


 あっさりとした肯定だった。むしろ、現場こそが数字の裏付けと言わんばかりだ。


「ありがとうございます。では、日程が決まり次第、改めてご連絡します」

「はい。準備しておきます」


 その背筋は美しい。だが、ふと見ると、彼女の白いシャツの袖口に、ひどく目立つインクの染みがついていた。……しかも、それはどう見ても、さっきまで彼女が使っていた羽ペンから飛び散ったものだ。本人は全く気づいていない様子だが……。


 完璧な帳簿と緻密な計算。その裏にある、こんなにも可愛らしい“ゆるみ”こそが、カレン・アーデルハイドという女性の人間らしい魅力を、何倍にも増幅させているように感じた。

ご覧いただきありがとうございました。


今回のタイトルは、統計学者ネイト・シルバーの言葉です。これは「データそのものに意味はなく、解釈する人間が意味を与える」という趣旨を持ちます。


本話では、数字の専門家カレンと、それに「街の再生」という物語を吹き込もうとするソーマが出会いました。商売だけでなく、世の中のあらゆることに対して数字データは不可欠です。無機質な数字に人の想いが加わる時、物語は動き出します。


「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、ブックマークを是非宜しくお願いします。また、感想をいただけると嬉しいです。

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