#05 「我々人類が経験しうる最も美しいものは、神秘である。」— アルバート・アインシュタイン
目が覚めた瞬間、体が鉛のように重かった。
ひどい傷だったが、ポーションとフィオナの魔法のおかげで、命に別状はない。
驚くほど回復した。
だが、それでも体はまだきつい。熱っぽく、関節が軋むように痛む。
昨夜の戦闘で受けたダメージが完全に抜けたわけではない。
むしろ、急激な回復の反動か、全身に倦怠感がまとわりついているようだった。
窓の外から差し込む光を見るに、もう昼を過ぎている。
これ以上寝ていても仕方ないと思い、なんとか体を起こした。
スーツはしわくちゃで、脇腹のあたりには血が滲んだまま固まっている。
寝ている間に汗をかいたせいで、気持ち悪さも倍増だ。
(着替えがないのがつらいな……)
ぼんやりと思考を巡らせながら、俺はようやくベッドから這い出した。
階段をゆっくり降りると、食堂はほとんど人気がなかった。
昼前という時間のせいだろうか。
カウンターの奥では、宿の女将が帳簿をつけていた。
俺の姿に気づくと、そっと顔を上げ、優しげな笑みを浮かべる。
「ふふっ、ようやくお目覚めね。体の具合はどう?」
「……何とか」
答えると、女将はほっとしたように頷いた。
「そう、それならよかったわ。でも、無理はしちゃだめよ?」
そう言いながら、彼女は帳簿を閉じ、優雅な仕草で俺に向き直った。
「そういえば、きちんとご挨拶していなかったわね。私はアメリア・エヴァレット。この宿《白樫亭》を切り盛りしているの」
「相馬直樹です。しばらくお世話になります」
「ええ、こちらこそ。フィオナともども、よろしくね」
アメリアは柔らかな微笑みを浮かべた。
その表情には、長年宿を守り続けてきた女将としての包容力と、母親らしい温かさがにじんでいる。
彼女は厨房の奥へと消え、ほどなくしてさ料理が乗ったトレイを持って戻ってきた。
木のトレイの上には熱々のシチューとパンがのっている。
湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。
(……何の肉かわからないが、うまそうだ)
パンをちぎりながら、シチューに浸して口に運ぶ。
見た目に反して、味は悪くない。
むしろ、しっかりとした旨味があり、スパイスの風味が効いている。
「うまい」と呟きかけたとき、ふと視界の端に人の気配を感じた。
遅い朝食をとるのは俺だけではなかったようだ。
食堂の隅に、一人の女性が座っていた。
エルフだった。
淡い金色の髪がさらりと流れ、陽の光を受けて柔らかく輝いている。
細く長い耳が、髪の間から覗く。
彼女は、何の気なしにスープをすくい、ゆっくりと口へ運んでいた。
気品を感じさせる所作だったが、決して気取っているわけではない。
肩には緑色のケープを纏い、シンプルなデザインの衣服を身につけている。
その横顔を見た瞬間、俺は思わず見惚れてしまった。
透き通るような白い肌に、凛とした表情。
森の奥深くを思わせる深いエメラルドグリーンの瞳。
長くしなやかな指が、静かにスプーンを握る。
(……美しい)
無意識にそう思うのは、俺だけではないはずだ。
ファンタジーでは、エルフという種族自体、神秘的な存在として語られることが多いが、目の前の彼女はただの幻想ではなく、"気品"と"凛々しさ"を併せ持った美しさだった。
気づけば、俺はじっと彼女を見つめていた。
「……何の用?」
低く、警戒するような声音が俺を現実に引き戻した。
エルフの女性が俺の視線に気づき、訝しげに眉をひそめている。
親しみのある口調ではない。むしろ、探るような、少し鋭い響きがあった。
「……すみません」
慌てて目を逸らし、言い訳を探す。
「エルフなんて初めて見たもので」
それが正直な感想だった。
昨夜、ここに来るまでの街中でも、耳の長い種族を見かけることはなかった。
エルフが珍しいからなのか、それとも俺が気づいていなかっただけなのかは分からない。
だが、その言葉に、エルフの女性はさらに怪訝そうな顔をした。
「そんなにエルフが珍しいの?」
「少なくとも、俺の知っている世界では」
俺が答えると、彼女はふっと小さく鼻を鳴らした。
「エルフなんかより、あなたの格好の方がよほど珍しいわよ」
そう言って、視線を俺の服に向ける。
俺は、自分の姿を思い出した。
昨夜は疲れ果てて、スーツの上着を着たままベッドに倒れ込み、そのまま寝てしまっていた。
もちろん、この世界に着替えなどあるわけもなく、今の俺は血と泥にまみれ、脇腹のあたりが裂けたスーツ姿のままだ。
現代日本でこんな姿の男がいたら、間違いなく職質される。
「……確かに、その通りですね。すみませんでした」
俺が素直に謝ると、エルフの女性は少しだけ警戒を緩めた。
「それで?」
「それで……?」
「私の顔に何かついてた?」
少しだけ、からかうような響きを含んだ言葉だった。
俺はどう答えるべきか迷ったが——
正直に言ってしまった。
「いえ……あなたが、あまりにも綺麗だったもので」
エルフの耳がピクリと動いた。
そして、沈黙——
(やっちまったー!!)
心の中で絶叫する。
言い訳はいくらでもある。
昨夜は熱にうなされ、まだ少しぼんやりしているとか。
知らない世界に突然放り込まれて、いきなり魔獣に襲われた興奮が冷めていないとか。
ゲームやアニメでしか見たことがないエルフに出会ったからとか——。
とはいえ、こんな血まみれスーツ姿の怪しい男が、出会ったばかりで「あなたが綺麗だったから」などと言ったら、普通に気味悪がられる。
(これ、もう通報案件だろ……)
警察のような組織がこの世界にあるのかは知らないが、あったとしたら確実に職質されるレベルの発言だった。
どうやって、この場を言い逃れようか——そう考えていた矢先。
「何、新手のナンパ?」
エルフの女性がジト目で睨んできた。
冷たい視線が突き刺さる。
「いえ、すみません……」
また謝ってしまった。
なんか、先程から謝ってばかりな気がする。
(あれ? この世界にも“ナンパ”なんて言葉があるんだな)
場違いだとは思うが、不思議と愉快な気持ちになる。
「……まあ、いいわ。言われ慣れてるし」
エルフはため息をつきながら、スプーンをスープの中に落とした。
俺はふと、彼女の横顔を盗み見る。
鼻筋がすっと通り、長いまつげが微かに影を落としている。
まるで彫刻のような、整った美しさだ。
でも、それ以上に気になるのは——
(このエルフ、やけに堂々としてるな……)
エルフといえば、神秘的で寡黙な印象があるが、彼女はどこか人間臭い。
嫌味っぽさはないが、堂々としていて、少し気の強そうな雰囲気を持っている。
沈黙のままスープをすする彼女を前に、俺は改めて尋ねた。
「……あなた、エルフなんですよね?」
エルフはスプーンを口元に運びながら、ちらりと俺を見た。
「そうだけど? まさか今さら『本物なのか?』とか聞くつもりじゃないでしょうね?」
「いや、そういうわけじゃ……ただ、街中でもエルフを見かけなかったから、珍しいのかなと思って」
そう口にすると、エルフの女性は少しだけ眉をひそめた。
「……あなた、この街に来るのは初めて?」
「ああ、まあ、そんな感じです」
俺の曖昧な答えに、エルフはさらにじっと俺を観察するように視線を向けてきた。
「あなたこそ、その格好、珍しすぎるんだけど。旅人?」
「まぁ、旅人みたいなものです」
「へえ……」
エルフは興味深そうに俺を見ていたが、それ以上は深く突っ込んでこなかった。
(助かった……)
それにしても、なぜかこのエルフの視線には妙な鋭さを感じる。
まるで、俺の隠し事を見透かそうとするような——そんな目だ。
「ところで、あなたのお名前は?」
俺が尋ねると、エルフは少しだけ考えるそぶりを見せてから、答えた。
「エリシア」
「……エリシアさん、ですね」
「さん付けしなくていいわよ。それより、あなたの名前は?」
「相馬直樹です。ソーマでいいです」
「ソーマ……」
エリシアは小さくその名を繰り返すと、ふっと微笑した。
「変わった名前ね。どこか遠くの国の人?」
「まあ、そんなところです」
相変わらず適当な返答しかできない。
エリシアはそれ以上詮索せず、残っていたパンをかじると、満足げに席を立った。
「まあいいわ。話せて面白かった。じゃあね、ソーマ」
そう言って、彼女は軽やかな足取りで食堂を後にした。
俺は彼女の背中をぼんやりと見送りながら、ふと気づく。
(……なんだろう。何か、不思議な人だったな)
エリシア。 彼女との出会いが、俺にとってどんな意味を持つのか——
この時の俺は、まだ知らなかった。
ご覧いただきありがとうございました。
「我々が経験しうるもっとも美しいものは、神秘である。」——アルバート・アインシュタイン
この言葉は、科学者アルベルト・アインシュタインのもので、既知を超えた「神秘」への畏敬や探求心こそが、最も価値ある経験であるという思想を表しています。
第5話では、主人公が異世界で初めてエルフのエリシアと出会いました。彼女の存在や雰囲気は、まさに主人公にとって未知の「神秘」であり、その美しさや不思議さに触れることで、新たな世界の広がりを感じたことでしょう。この出会いが今後の物語にどう影響するのか、ぜひご期待ください。