#43-1 「最も深遠な真実は、時として、最も無邪気な問いから始まる。」 — アイザック・アシモフ
まるで嵐が過ぎ去ったかのように、ミノタウロスの凶暴な気配が一瞬で霧散した。
——え?
その声は、先ほどまでの狂気が嘘のような、無垢で好奇心に満ちた子供のような声だった。
赤色の瞳が、夜空に瞬く星のように煌き、じっと俺を見つめている。
その笑顔——笑顔なのかはわからないが、その顔はどこか無邪気に見える。
巨大な牛頭が首を傾け、その仕草は遊び道具を見つけた幼子のようだ。
怪物の姿とあどけない笑み——その異様な対比が、背筋を冷たくさせる。
震える声で、俺は思わず問いかけた。
「な、なんだ……お前……?」
「普通の生き物は、みんなマナを持ってるんだよ? でも君には、まったくマナが感じられない。面白いねぇ!」
ミノタウロスはにこりと笑うが、その笑顔は歪み、瞳は探求者のように俺の内側を見透かそうとしていた。
その巨体から漂う威圧感は変わらない。だが、先ほどまでの殺意は、その巨体からすっかり消え去っていた。
「ねぇ、教えてよ。なんでマナがないのに生きているの? いや……違うな。マナがないのに何でここにいるの?」
「そんなの俺にもわかんねぇよ!」
俺が語気を荒げると、ミノタウロスは首をかしげ困惑した。
「そうなんだ。君も知らないのかぁ……。でも、興味があるなぁ。ねぇ、君、僕に付いてこない?」
「は?」
「だって、君、すごく特別だし。僕、君のことをいろいろと調べてみたいんだ」
ミノタウロスは無邪気に笑いながら、手を差し出してくる。
「調べるって、何するんだ!?」
「うーん、頭の中とか、身体の中とか、全部調べてみる。解剖って言うんだっけ?」
その言葉に悪気は一切ないように聞こえるのが、逆に恐ろしい。
「解剖って……おい、ふざけるな!」
「さぁ、行こうよ!」
その巨大な手が、まるで小動物を捕まえるかのように、俺の頭上に影を落とした。
「待て待て待て! 行くって、どこに?」
「んー……このダンジョンの奥に研究する場所を作ろう。そこなら君をもっとよく調べられるし……」
「いやいや、そんなの冗談じゃない!」
俺が拒絶すると、ミノタウロスは不満げに鼻を鳴らす。
「なんで? 君、怖がりなの? せっかく僕が誘ってあげたのに……」
「バラバラにされて殺されるのに、誘われてついて行くバカがどこにいるんだよ!」
ミノタウロスは肩を落とす。
「ふぅん……そうなんだ。じゃあ、無理やり連れて行くしかないね」
「な、なんでそうなるんだよ!」
ミノタウロスは両手を広げ、俺を捕まえようと突進してきた。
「待て待て待て!」
ランド・オラクル発動! 視界が淡く輝き、一瞬先の動きを見切る。
(右にステップ、左へダッシュ!)
ミノタウロスの動きは速い。だが——
(ん? こいつの動き、なんか変だぞ……)
ミノタウロスの動きは、先程までと大きく違っていた。
(単調になってる!?)
本来の力強さや素早さが発揮できていないように見える。そのおかげで、俺は、捕まえようとする手をすり抜け、やすやすと逃げることができた。
「くそ、なんで捕まらないんだよ!」
不満げに吠えるミノタウロスの声が背後から響く。俺はその声を聞きながら、広い空間を縦横無尽に駆け回り、逃げ続けた。
「君、すばしっこすぎるよ……おかしいなぁ……」
ミノタウロスの声が少し苛立っている。
(このまま振り切るか……でも、入口は閉じてるし……)
そう思いながらも、油断はできない。巨大な腕が広間の壁を叩き、石が砕ける音が響いた。
ランド・オラクルで次の動きを見極めながら、俺は駆け回り続ける。
しばらく逃げ回った末、ミノタウロスはついに肩で息をしながら座り込んだ。
「うう……なんでだよ……」
その姿は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
「やっと落ち着いたか……」
俺が息を整え振り返ると、ミノタウロスは尻尾を垂らし、うつむいている。
「ついてこないから、無理やり連れて行くしかないって思ったのに……」
「いや、だから、捕まって解剖されるバカはいないだろ!」
俺が指摘すると、ミノタウロスは「そうなの?」と素直に首をかしげる。
「まったく……なんなんだよ、お前……」
俺が呆れていると、ミノタウロスはふと真剣な顔でこちらを見る。
「だって、君、気になるんだ。マナがないのに、なんで動いてるの? おかしいじゃん。そんなの世界の理から外れているよ」
「そんなの俺にもわかんねぇよ……」
そう答えながら、胸の奥に妙な違和感が広がった。
(今、こいつは俺の存在を「世界の理から外れている」って言ったか? もし、俺がこの世界にとって本来存在しない『異物』だとしたら……? こいつは、そういう異物をどう扱うんだろう……? 何か利用しようとするのか?)
この存在の無邪気な好奇心が、底知れぬ恐怖に変わる。逃げなくては。こいつにとって、俺はただの珍しいサンプルに過ぎない。
ミノタウロスは無垢な瞳で俺を見つめる。その無邪気さが逆に恐ろしく、不気味だった。
俺は警戒を解かず、少し息を整えながら尋ねた。
「……お前、何者だ?」
その問いに、ミノタウロスは一瞬首を傾げ、やがて得意げに胸を張る。
「僕? 僕はタナト。君たち人間にとっては、神の一柱だよ!」




