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#40-1 「港にいる船は安全だ。だが、船は港に留まるために造られたのではない。」 — ジョン・A・シェッド

 白樫亭の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。湯煙はほんのりと漂い、宿全体を優しく包む。

 カウンターで帳簿を整理しながら、ふと手を止めた。月明かりが庭を淡く照らしている。


 温泉復活で、白樫亭は大繁盛。フィオナ達も笑顔を取り戻した……。

 確かに、俺がやったことは間違っていない。この異世界での第一歩として、これ以上の成果はないだろう。

 白樫亭が繁盛し、この界隈も潤い始めた。伯爵もユリウスも元気を取り戻し、宿にはひっきりなしに客が来る。


 この三ヶ月、俺はただ生き延びることに必死だった。必死に走って、もがいて、どうにかこうにか居場所を見つけた。


 けど——

 俺がこの世界に来た理由……これで良かったのか?


 そんな疑問が、夜の静けさに紛れて頭をよぎる。

 もしこれが神様の気まぐれなら、ずいぶんと無責任な話だ。


 俺は、勇者でも賢者でもない。特別なスキルもない。おまけにどうやら魔力すらなく、魔法も使えないらしい。

 ただの一般人。いや、この世界で魔法が使えない俺は一般人以下だ。


 ただ、不動産の知識があるだけのビジネスマン――あのブラック企業でこき使われていた自分をビジネスマンと呼べるならだが。


 土地開発や都市計画の知識を振りかざしたところで、魔物退治や戦争を解決できるわけでもない。

 それが、今は異世界で温泉を復活させ、宿の経営までしている。人生ってのは皮肉が効きすぎだ。


(それだけで本当にいいのか?)


 白樫亭の再建は、確かにこの世界での大きな一歩だった。でも、俺が本当にやりたいこと、俺にしかできないことって、もっと他にあるんじゃないか?


 不動産の力で、この街の、いや、この世界の土地や建物が持つ可能性を、もっと引き出せるかもしれない。


 眠っている価値を掘り起こす——そういう仕事が、俺には向いている気がする。


 だけど、それを実現するには、資金も必要だし、もっとこの世界のことを知る必要がある。


 この世界に来た意味が、温泉宿の再建だけで終わりだなんて、なんだか納得がいかない。

 何かもっと大事なことがある気がしてならない——俺がやらなければならないことが、まだこの先にある。そんな気がしている。


 ……だけど、それが何なのかはさっぱり見えない。


 火灯の明かりが揺れ、広間の静寂がゆっくりと広がっていく。

 湯煙の向こうに見える淡い月明かりが、どこか遠い世界への窓のように感じられた。


「……風呂に入って休むか」

 帳簿を閉じ、静かに立ち上がった。



 湯殿には、夜の静けさが訪れていた。湯気がゆらゆらと立ち上り、月明かりが湯面を照らしている。服を脱ぎ、湯に肩まで浸かると、体がじんわりとほぐれていく。


「ふぅ……」 思わず息が漏れる。

 温かさが体に染み込み、凝り固まった心までも少しずつ解かされていくようだ。


(異世界転移して、温泉宿の経営に携わってるやつなんて俺くらいだろうな……)


 普通、異世界ものって言ったら——聖剣を手に取って魔王を倒すとか、最強スキルでハーレム作って無双するとか、もっと派手な展開があるもんだろ。


 それが現実は、温泉復活だ、まさかの宿屋経営だ。


 俺がラノベの主人公だったら、読者がキレるレベルだ。「温泉を復活させて一旗揚げました!」とか言って、何が凄いんだって話だよな。

 異世界最高の宿屋マスター……いや、ないな。売れない。


 だけど、この世界に来てから、俺には「ランド・オラクル」という、地脈の流れを感知できる不思議な力が備わった。魔法じゃないらしいけど、地形やマナの流れを「視る」ことができる。


(この力、もっと何か大きなことに使えないかな……?)


湯気に包まれた静寂の中で、ぼんやりと考えていたその時――

扉ががらりと開いた。


「おーい、ソーマ、まだ入ってたのか?」


 カイルの声が湯に響く。

 続いて、寡黙な斧使いのコールも姿を見せた。


 温泉が気に入ったのか、白樫亭の問題が解決しても相変わらず毎日のように通い詰めている。エレノアも今頃は女湯だろう。


「お前らか。今日は遅かったな」

「いや、今日は結構ダンジョンの奥深くまで潜ってたからな!」


 カイルが湯に飛び込み、湯がはねる。


「やっぱり白樫亭の温泉は最高だなぁ」


 カイルが気持ちよさそうにため息をつく。

 コールも黙って隅に腰を下ろし、湯に浸かる。しばらく湯気の中、ぽこぽことお湯の音だけが響いた。


 ふと、カイルが俺を見て首をかしげた。


「ソーマ、なんか元気ねぇな?」

「え?」

「いや、なんかこう、ボーッとしてたからさ。どうした?」

「……まあ、ちょっと考え事をしてた」

「考え事? お前が?」

「失礼なやつだな…」


 俺は軽くため息をついた。


「白樫亭が落ち着いてきたから、次に何かやりたいなって思ってるんだ。でも…俺、金がないんだよ」

「なんだ、金の問題か」


 カイルが呆れたように笑う。


「そうなんだけどさ。アメリアさん、給金くれるって言うけど、住み込みで衣食住まで世話してもらってるからって遠慮しててさ…。でも、もし俺がこの街で何か新しいことを始めるなら、それなりにまとまった資金が必要になるだろうし…正直、金がないと動けないんだよ」


 コールが、腕組みしながら鼻を鳴らした。


「気にしすぎだろ。それだけ働いてんだから、貰っとけよ」

「いや、でもさ…」


「つまり、金がないから動けないってことだろ?」

 カイルがニヤリと笑う。


「稼ぐには、ダンジョン探索が手っ取り早いんじゃねぇか?」

「おいおい、俺、剣もダメだし魔法も使えないぜ?  冒険者ってのがそもそも無理あるだろ?」

「確かにな。でも、お前ならなんとかやるんじゃねえか?」

「いやいや、無茶だろ」

「バジリスクの時だって、なんだかんだでやり遂げただろ」

「そりゃそうだけど、あの時は必死だっただけだし…」

「白樫亭が盛り上がってきたら、次のこと考えたくなる気持ちは分かるけどな」

「それもあるけど、もっとこう、やれそうなことがある気がしてさ。でも金がないし、冒険者なんて俺にできるのか?」


 カイルが湯船の縁に腕をかけて笑った。


「白樫亭だけにこもってたら、見えないことも多いだろ? 外に出れば、違う景色が見えるかもしれないぜ」

「確かに……ダンジョン探索か。今の俺には刺激が足りないのかもしれない」


 カイルが湯船の縁を叩き、勢いよく立ち上がった。


「決まりだな! 明日、ギルドで登録して準備だ!」

「なんか話が勝手に進んでるんだが…」

「細けぇこと気にすんな!」


 カイルが肩を叩き、コールも静かにうなずく。

 

 なんだか押し流されるように、俺の冒険者デビューが決まってしまった。俺は湯船の中で呟いた。


「港にいる船は安全だ。だが、船は港に留まるために造られたのではない。」 —— ジョン・A・シェッド


 カイルがきょとんとする。


「なんだそりゃ?」

「いや、なんでもない。ただ、自分に言い聞かせてるだけさ」


 そう呟きながら、俺は少しだけ湯船の底を蹴って伸びをした。



     ***



 翌朝、白樫亭を出た俺たちは、街の中心にある冒険者ギルドへ向かった。


「ソーマ、ギルドは初めてか?」

「ああ、ギルド自体は初めてだな。街は仕事で色々見て歩いてるけど」

「へえ、そうなのか。にしても、昨日の話、まさか本当にお前が冒険者ギルドに来るなんてな! まぁ、俺たちが誘ったんだけどよ!」


 白樫亭から徒歩十分ほど。大きな二階建ての石造りの建物。入り口にはギルドの紋章が掲げられていた。


 「ギルド、相変わらず人多いな」


 エレノアが機嫌よさそうに笑みを浮かべる。


「そうね。新ダンジョン発見以降、冒険者の流入が増えたものね」

「エレノア、なんかご機嫌だな」

「別に? ただ、朝風呂に浸かってゆっくりしたから、気分がいいだけよ。ソーマがいなかったら温泉も枯れたままだったしね」


 エレノアはちらっと俺を見て、ふっと笑う。


「まあ、ソーマには感謝してるわよ。あの湯のおかげで日々の疲れが取れるんだから」


 冒険者ギルドは、危険地域の管理や討伐、探索を担う公的な組織だ。

 冒険者は、受けた依頼を熟し、その報酬で生計を立てている。


 ローデングラムでは数ヶ月前に新ダンジョンが発見され、冒険者ギルドは活気に溢れていた。


「あら、カイル、今日も元気そうね! エレノア、コールもおはよう!」


 カウンターで受付をしていた女性が声を掛けてきた。栗色の髪を肩口で結んだ、明るく親しみやすい雰囲気だ。


「おはよう、ミレイ」 「おう」 エレノアが手を振り、コールも頷く。


「ミレイ! 相変わらず朝から賑わってんな!」

「そうなのよ! 新しいダンジョンで魔晶石が見つかって、依頼がどんどん集まってきてるの!」

「そうか、俺たちもちょっと登録に来たんだよ。こいつを新規登録させたくてな」

「新規登録? この人が?」


 ミレイが俺を一瞥し、目を細める。


「まあまあ、荷物持ちだし、サポート役ってことで頼むよ」

「なるほどね。それじゃあ、こっち来てくれる」


 俺はカウンター前に立ち、ミレイから書類を受け取った。


「名前、年齢、職業を書いて。あとは身分証ね」

「ああ、分かった」


 カイルが背後から囁いた。


「お前、身分証あるか?」

「えっと…白樫亭の手伝いってことで、一応伯爵が発行してくれた証明書がある」

「お、バッチリだな!」


 俺は書類に名前と年齢を書き、証明書を提出した。ミレイが確認し、頷いた。


「あとは……魔力鑑定ね」

「魔力……鑑定?」

「ギルド登録は魔力適性確認が必要なの。ここの石板に手を置いてくれる?」


 カウンター横の灰色の石板は、約五十センチ四方。何やら俺には読めない文字が刻まれ、微かに青白い光を帯びていた。


(やばい…俺、魔力持ってないじゃん! あの時みたいに……)


 内心焦る。

 ルーヴェ神殿での魔力鑑定を思い出した。

 神官の驚愕した声、「あなたの魔力は……ゼロ」。エリシアすら動揺した、あの異様な空気……まずい!


「ソーマ、力を抜いてリラックスして。温泉のマナの影響で魔力の流れが鈍くなることもあるのよ。特に長く浸かってた場合は、一時的に鈍ってるだけだから」

「えっ? エレノア、そんなことあるの?」

「まあね。温泉地に長く滞在した人が、しばらく魔力が乱れて、魔法が使えなかったって話を聞いたことがあるわ」


 俺は、石板にそっと手を置いた。冷たさが広がり、体の芯を見透かされる感覚。

 石板が微かに震え、描かれた文字が淡く光った。


 一瞬、青白い光が広がりかけたが、すぐに消え失せた。


 ミレイが首を傾げたが、エレノアが笑って肩をすくめた。


「まあ、荷物持ちなんだし、マナが弱くてもいいんじゃない? そのうち回復するでしょ」


 ミレイは少し考えた後で、納得するように頷いた。


「まあいいわ。あなたたちが一緒なら大丈夫でしょうから」


(危なかった…エレノアがフォローしてくれなかったら終わってたな…)


 カイルが俺の肩を叩いて笑う。


「これで、無事に登録できたし、次は準備だな!」


 こうして、俺の冒険者登録は、なんとか終わった。

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