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#39 「世界をより良くし始める前に一瞬たりとも待つ必要がないことは、なんて素晴らしいことだろうか。」—アンネ・フランク

 白檫亭の湯けむりが、ゆっくりと空へのぼっていく。

 まるで、ここに集う人たちの夢や想いまで包みこんで、空の向こうへ届けてくれているみたいだ。


 私は湯殿の煙を見上げながら、小さく息をついた。


 白檫亭は毎日大忙し。でも、不思議と疲れは感じない。みんなの笑顔が絶えないからだと思う。


 冒険者たちが、肩の力を抜いて湯に浸かりながら、次の冒険のことを話していたり、商人の皆さんが、サロンで和やかに談笑していたり。


 この宿に泊まるお客さまの表情がふっと和らいでいるのを見るたび、ああ、ここはちゃんと“休める場所”になれてるんだなって、しみじみ思う。


 私にとっても、それが何よりうれしい。


「ユリウス様、そんなに走ったら危ないです!」


 廊下の向こうから聞こえたのは、シグリットさんの声だ。銀色の髪をすっきりまとめた、かっこいい女騎士。

 つい先日、ローデンブルグ騎士団の副団長に昇進したそうだ。

 鎧に身を包んだ姿はぴしっとしてて、近寄りがたい感じなのに、今聞こえた声には、いつになく慌てたような響きがあった。


 私の目の前を、ユリウス様が駆けていった。

 ユリウス様は、領主さまのご子息だ。病気でずっと寝たきりだったと聞いていたけれど、今はすっかり元気になって、よく笑う。


「エディ、待ってよ!」

「へへっ、ユリウス君、遅いよ!」


 白樫亭の中を、ユリウス様とエディが駆けていく。木の床を叩く足音と笑い声が、空気にふわりと溶けていく。


 身分なんて関係なく、ふつうの友達として遊んでいる姿を見るたび、胸の奥がじんわりあたたかくなる。


 ユリウス様とエディ、二人に大切な“ともだち”ができたんだなぁって。


 湯けむりの向こうでは、鎧を脱いだ騎士団の皆さんが果実水を片手に談笑していて、それももう、いつもの光景になっていた。


 こうして、みんなが気を緩めて過ごせるこの宿が――白樫亭が――私にとっての誇りだ。


「フィオナ嬢、今日も良い湯だったぞ」


 背後から聞こえた低く落ち着いた声に、私はくるりと振り返った。


 立っていたのは、ローデンブルグ騎士団の団長のレオポルドさんだ。

 いつもの威厳はそのままに、湯あがりのせいか、どこか表情がやわらかい。

 厳しくて近寄りがたい印象の方だけれど、こうして白檫亭にいると、少しだけ肩の力を抜いてくださっているような気がする。


「団長さん、すっかり常連ですね」


 そう言って笑いかけると、レオポルドさんは短く頷いてから口を開いた。


「温泉の効能もさることながら、この宿の雰囲気が良い。白檫亭は、今やローデンブルグの名物だな」

「そう言っていただけると嬉しいです」


 その言葉に、私も自然と笑みがこぼれる。


 実は、ソーマさんの提案で、白樫亭では温泉を昼間に開放し、日帰り入浴を始めた。

 昔は宿泊しないと入れなかった温泉を、昼間だけ開放するようにしたことで、街の人や旅の途中の方も気軽に立ち寄れるようになった。

 温泉が枯れる前には考えられなかったことだけれど、今ではすっかり“いつもの風景”になっている。


「温泉なんて、宿に泊まらないと入れないものだと思ってた」と驚かれることも多かったけど、「日帰りでも使える場所」として定着するのは早かった。冒険者の人たちも、冒険帰りや休憩に立ち寄ってくれている。


「やっぱり、白樫亭は最高だな!」


 そんなカイルさんの声が、広間の奥から響いてきた。


「疲れが取れる。体も軽くなる。これ以上の場所はない」


 コールさんも頷きながら、いつものようにフルーツ牛乳を手に取っていた。


 浴衣姿のエレノアさんが広間に現れると、それまで落ち着いていた空気がさざ波のように揺れた。

 ソーマさんの故郷の服装だという装い(浴衣)。そのさらりとした生地が、エレノアさんの落ち着いた雰囲気とよく似合っていて、思わず見とれてしまう。頬に残る赤みと、浴衣のやさしい色合い。

 私から見ても、その佇まいには思わず見とれてしまうような“大人の女性らしさ”があって――きっと、私にはまだ少しだけ遠いものなんだろうな、と感じた。

 

「湯治だけじゃなく、街の活性化にもなるだろう」そう言っていたソーマさんの言葉どおり、最近は近隣の方々も白檫亭に来てくれるようになった。

 湯あがりに楽しんでもらえるよう、これもソーマさんが考案した「フルーツ牛乳」もすっかり人気になっている。


 ソーマさんの発想で、“気軽に使える温泉”という新しい価値が生まれ、白樫亭はさらに開かれた場所になった。

 昼も夜も、誰かの笑い声や湯の音がどこかから聞こえてくる。そんな日々が続いているのは、ソーマさんの発想と行動力が、この場所を今も守り、育ててくれているからだと思う。


 白樫亭が活気を取り戻したことで、街の人たちの顔も、少しずつ明るくなった気がする。

 いつもの八百屋さんの声が大きくなっていたり、道ばたで子どもたちが走り回っていたり――そんな些細なことに、ふと気づくようになった。


 だけどこの町には、まだ光の届かない場所もたくさんある。


 薄暗い路地に埋もれた古い建物、壁の剥がれたままの廃屋、誰にも振り返られないような静かな通り。


 ソーマさんは、ときどきそんな場所をじっと見つめている。まるで、そこに誰かの声が残っていないか、耳を澄ましているかのように。


 ああいう場所にも、白樫亭と同じように、新しい命が吹き込まれる日が来るのかもしれない。

 ソーマさんなら、きっとできる。ふと、そんな想いが心に浮かんだ。


 ソーマさんと、エリシアさん――二人がこの宿に現れてから、止まっていた景色が動き出した。


 温泉が蘇り、沈んでいた白樫亭に、明るさとぬくもりが戻ってきた。


 まるで奇跡みたいだった。


 でも、エリシアさんは白樫亭の問題が一段落したあの日、そっと旅立っていった。


 やさしい微笑みだけを残して――。


 出立の前に、ソーマさんと何か言葉を交わしていたみたいだったけど、ソーマさんは何も語らなかった。


 ただ一言だけ。


「また、戻って来るさ」 そう言って、遠くを見るように笑っていた。


「すっかり賑やかになりましたね」


 私は広間の様子を見渡しながら、ソーマさんにそっと笑みを向けた。この広間は、湯殿の横に増築した休憩所――その発案者も、やっぱりソーマさんだ。


 窓の外に目をやっていたソーマさんは、少し照れたように口元を緩めた。


「そうだな。白樫亭がここまで変わるとは思わなかった。これが“湯の力”ってやつだな」


 窓越しに見える街路には、湯煙がふんわりとたなびき、行き交う人々の影が重なる。かつては閑散としていたこのあたりにも、次々と新しい店が建ち始め、通りに活気が戻ってきたのがわかる。


「ソーマさんがいなかったら、今の白樫亭はありませんでしたよ」

「いや、俺だけの力じゃないさ。みんなが、それぞれの場所で頑張ったからだよ」


 私の言葉に、ソーマさんは少しだけ困ったように笑って首を振った。


「それでも、あなたが皆に火を点けたのよ。私たちは、それに感謝してるの」

 果実水を補充しに来た母が、やさしく微笑んでそう言った。


 その言葉を受けて、ソーマさんは少し目を伏せ、言葉を選ぶように小さく息をついた。


「……ありがとうございます」


 その一言には、ほんの少しの照れと、素直な気持ちが混ざっていて――私は胸の奥があたたかくなるのを感じた。


「ユリウス様、もう少し落ち着いて歩いてくださいね!」


 広間の向こうからレナさんの声が響いた。モップを片手に、廊下を走るユリウス様を懸命に追いかけている。


「レナさん、大丈夫ですか?」

「ええ、なんとかね。でも……忙しいけど、こうして賑やかな毎日が戻ってきて、ちょっと感動しちゃうわ」


 レナさんが目を細めて笑ったとき、瞳の端に光るものが見えた。


「本当に、そうですね……」


 私も、心からそう思う。前は静まり返っていたこの宿が、今は人の声と笑顔で満ちている。


「ソーマ兄ちゃん、見てよこれ!」


 エディとユリウス様が元気よく駆け寄ってきて、手に抱えた木製のパズルをソーマさんに見せた。顔がぱっと輝いている。


「これ、グラムさんに教えてもらって、ユリウス様と一緒に作ったんだよ!」

「へえ、よくできてるな。二人とも、器用なんだな」


 ソーマさんがそう褒めると、ユリウス様が照れたように笑い、エディも胸を張るように頷いた。そのやりとりが、なんだかとても愛おしくて、私は思わず笑顔になる。


「二人は本当に仲良しですね。ユリウス様が、あんなふうに笑ってくれるなんて……温泉の力もあるけど、やっぱり、エディという友達ができたことが大きいんですね」


 そう言うと、ソーマさんはふっと目を細めて、静かに頷いた。


「そうだな。ユリウスにもエディにも、きっと“友達”ってやつが必要だったんだろうな」


 私は少しだけ迷いながらも、勇気を出して問いかけてみた。


「ソーマさん……何か、考え事ですか?」


 ソーマさんは、ほんの一瞬驚いたような顔をして、それから肩の力を抜いたように笑った。


「いや、大げさなことじゃないさ。ただ、白樫亭がこんなに賑わってるのに……俺自身が、()()でどこまでやれるのか、まだちょっと自信がなくて」

「ここで……ですか?」

「うん。白樫亭がうまくいったのは、本当に嬉しい。けど、俺自身がここでなにができるのか――それを、まだ探ってる最中なんだと思う」


 湯煙がゆらめく窓の向こう、少しだけ遠くを見つめるような目をしていた。


「一人とか、小さな商会じゃできないこともある。もっと大きな仕組みを作らないといけないのかもしれないって、なんとなく考えてるんだ」


 その声には、不安というよりも、まだ見ぬ未来を探る静かな熱が込められていた。


 広間には、夕暮れの光が差し込んでいた。柔らかな橙が床に溶けて、人々の笑い声が天井に揺れる。


 白樫亭が、ソーマさんにとっても、ちゃんと“居場所”になってくれたら――

 そう願わずにはいられなかった。


 賑わいの中にも、ふとよぎる静かな思い。それごとこの宿に包み込まれて、今日もまた、白樫亭には優しい時間が流れている。


 そして私は、その時間をそっと胸に抱きながら、忙しい夕方の準備を始めた。


お待たせいたしました。ようやく、第二部がスタートしました。


その始まりとなる第39話では、主人公によって活気を取り戻した白樫亭と、人々の笑顔を描いています。

本話のタイトルとしたアンネ・フランクの言葉は、「より良い世界のために、即座に行動することの大切さ」を教えてくれます。

この世界に主人公がもたらした変化は、まだほんの小さなものかもしれません。

けれど、一歩を踏み出す勇気が、自分自身と周囲の現状を動かしていく——

そんな姿を、この先も描いていければと思います。


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