#36-1 「この世には、誰もが見ているのに、誰も気づかない“明白な事柄”が溢れている。」— アーサー・コナン・ドイル
一歩踏み出す。部屋の空気が、張り詰める。
グスタフとヴィクトールが、警戒した視線を向ける。
奴らの目に映る俺は、もはや追い詰められた男ではないだろう。
「グスタフ、ヴィクトール」
俺は低く、しかし確かな声で言った。その声には、これまでなかった響きが宿っている。
「これから示すのは、お前たちの論理への反論でも、俺たちの憶測でもない。この文書に刻まれた、誰にも否定できない物理的な偽造の痕跡だ」
グスタフは目を細める。ヴィクトールは眉をひそめた。警戒の色は強いが、俺の言葉の真意を掴みかねているようだった。
俺は、グスタフの文書を示しながらゾルタンに目を向ける。
「ゾルタンさん。この文書には、俺の『視え方』では――明らかな魔力の『歪み』がある。まるで、後から無理やり情報を『重ね貼り』したかのような不自然さです。もし、用意周到な偽造犯が、後の発覚を恐れて魔力を流し込むことで痕跡を消せるような特殊なインクを用いたり、何らかの魔法で文書に『嘘』を書き加えたとすれば……」
俺は語りながら、旅人や商人たちからせっせと情報を集め、ランド・マップを更新していた日々を思い出していた。
「ゾルタンさんの専門的な視点から、どんな兆候が現れる可能性がありますか? そして、それを誰にでも確認できる形で示す方法は?」
ゾルタンは目を輝かせ、文書に近づく。彼の指先が、文書の表面をなぞる。
「ほう…面白い。あなたの『視え方』…それはまさに、文書鑑定における未踏の領域を示唆しているのかもしれない! 特殊なインクや意図的に操作された魔力の定式は、紙の繊維に独自の『マナの痕跡』を残します。私の専門はその痕跡の解析ですが、この文書にも、不可解な、微弱な痕跡が感じられますな……」
ゾルタンは顎に指を当てる。
「そして…ああ、これはあくまで推測の域を出ませんが…かつて聞いたエルフが使うという魔法の応用で、紙媒体に定着したマナの残滓を、対となる媒体に転写する術があるとか……。もし、この文書の偽造にそれが用いられているならば、その術式を逆手に取れば、本来の記録層と後から重ねられたマナの層の差異を物理的に露呈させられる可能性がある! ただし、私自身はそのような特殊な術式を扱えないのが、研究者としてはなんとも歯がゆいところですが……」
最後の部分についてゾルタンは残念そうに言う。
その言葉に、俺は隣に立つエリシアに目を向けた。
ゾルタンの言葉が、ランド・マップの原理と完全に繋がった。
「エリシア――あのランド・マップの力で、この文書に潜む痕跡を写し出せないか? ゾルタンさんが言うように、対となるもう一枚の紙に転写して、『歪んだ層』、つまり偽造された部分を、浮かび上がらせるんだ!」
エリシアは一瞬息を呑み、すぐに俺の言葉の意図を理解したようだった。
彼女は小さな羊皮紙、ランド・マップの片割れを取り出し、真剣な声で答える。
「…やってみるわ」
だがその時、グスタフが声を荒げて遮った。
「待て! 何をする気だ? 王家の文書に勝手な魔法を施すとは何事だ! 王家の記録を穢す行為を、この審問の場で許すわけにはいかない!」
空気が張り詰める。グスタフの言葉は、王家の権威を盾にした最後の抵抗だ。
俺が言い返えそうとする前に、別の声が静かに響いた。
「私が許可しましょう」
澄んだ声で前に出たのは、この場に同席していた女騎士シルヴィアだった。
ヴィクトールが、軽蔑を込めた声で吐き捨てる。
「何者かは知らないが、ギルド職員の付き添いの騎士ごときが、貴族の審問の場に口を挟むか」
「私は、第二王女レティシア殿下の使いとして、この場に立っています。王女殿下より、この場における裁定に必要な行為は、すべて許可すると承っています」
「なに!」
グスタフは、シルヴィアの言葉に息を呑んだ。
「第二王女レティシア殿下の使いとして」――その言葉に、ヴィクトールは目を見開き、驚愕を隠せなかった。
伯爵が目を細め、シルヴィアを見やる。
「確かに、シルヴィア殿の、レティシア殿下の代理としての立場に疑いはない」
シルヴィアは視線を俺に向ける。
「王家の文書であろうと、ここで真実を示すためならば――全く問題ありません」
そしてシルヴィアは、エリシアを見やり、柔らかく笑った。
「エリシア様の魔法は、地脈を通じて一方の紙に残されたマナの痕跡を、もう一方に写し取るものです。特に、特殊なインクを使って、魔力を通して書かれた文字や絵柄は、地脈の力を通すことで強調され、優先的に転写されると伺っています。――今、私がした説明に嘘はありません。レティシア王女殿下付きの近衛騎士としてその試みを許可します」
エリシアはシルヴィアに軽く頭を下げると、微笑んで言った。
「…シルヴィア、感謝するわ。じゃあ、ソーマ――やるわよ」
ゾルタンが興味津々に頷く。
「おおお!これはまさしく! 噂に聞く地脈魔法の実演ですか! しかも、文書鑑定の可能性を広げる…! 素晴らしい…! このゾルタン、血が滾ってまいりましたぞ!」
エリシアが小さく息を吐き、集中を高める。彼女が文書に手をかざす。もう一方の手にはランド・マップの片割れとなる羊皮紙。
「魔力はマナ。地脈を通じてマナの通り道を作り、この文書に潜む痕跡を対となる紙に転写する」
そして、静かに、しかし確かな力をもって呪文を紡ぎだす。
「地脈よ……我が呼び声に応え、汝らを経て……マナの流れの道を開け!この一対の紙へ注ぎ込まれ… Lineae Telluricae... ad vocem meam respondete, per vos! Fluxus Manae, viam aperite! Ad haec par chartarum se infundat! Et vestigia celāta, manifestāte——」
囁くような呪文の声。静かに、しかし確かに魔力が広間に満ちていく。文書の表面に、一瞬、微かな、異質な光が走る。その光が、地脈を通じて羊皮紙へと移っていく。
最初は何も見えなかった。審問官たちの視線が集まる中、張り詰めた沈黙が続く。
——しかし、数秒後。
置かれた羊皮紙の表面に、徐々に、文字と紋様が浮かび上がってきた。それはインクで書かれた文字ではない。地脈に導かれたマナの響きが、光の痕跡となって顕現したのだ。
現れたのは、二種類の緑色の光。
一つは、文書の原本に記されていた正規の本文、署名、そして王家の印に対応する、淡く、今にも消え入りそうな緑の線と紋様。
まるで、長い年月を経た記録の静かな溜息のようだった。
そしてもう一つ。その上に、あるいはその隙間を縫うように現れたのは、濃く、深く、異様な響きを持つ緑の文字と紋様だった。それは、この文書に本来あるべきではない、人工的に「重ねられた」痕跡。
偽りのマナが、より強い輝きをもって現れたのだ。
ゾルタンは、転写されて浮かび上がった文字や紋様を見て、息を呑んだ。彼の瞳が、興奮と確信の色で輝く。
「…信じられん…! この痕跡…そして、この浮かび上がった文字…! 正規の記録の層と、後から重ねられた層…その『差異』が、これほど明確に物理的に可視化されるとは! 特にこの濃い緑の痕跡…これこそが、文書に偽造のために後から、特殊なインクを用いて書き加えられた部分の魔力の履歴だ! 真実の記録は淡く、魔力が込められた偽りの記録はかくも濃く…! まさしく、偽装の術式を逆手に取った結果だ!」
ゾルタンの声が、決定的な響きをもって広間に響き渡った。




