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#31 「理は時の娘であって、権威の娘ではない。」— フランシス・ベーコン

 通された執務室は、広い窓が開け放たれ、風に揺れる重厚な帳とともに、室内にひやりとした緊張が漂っていた。


 そこにはすでに、予想していた顔があった。


「おやおや。これはこれは……ご無沙汰しております、アメリアさん。そして、ソーマ殿。貴方とは先日、この館でお会いして以来ですね」


 グスタフ・ハインリヒ——その口調は変わらず丁寧だったが、俺を見つめる目の奥には、不快の色が隠しきれずに滲んでいた。


 アメリアが一歩後ろへ下がり、かすかに息を呑む。


「……グスタフさん」

「どうぞご安心を。本日は、ひとつの書面について、領主閣下のご判断を仰ぎに参っただけのこと。……ただまあ、私の話にアメリアさんだけでなくソーマ殿までお呼びになるとは。閣下もずいぶんと()()()()対応をなさる」


 最後の一言には、伯爵の"意図"を察した上での、皮肉が込められていた。


 そのとき、奥の扉が静かに開き、杖を突いた伯爵が落ち着いた足取りで入ってきた。


「お待たせした、エヴァレット夫人。突然の呼び出しに応えていただき、礼を言う」


 "バジリスクの呪い"が解けたとはいえ、伯爵の体調は完全とは言えないが、今日に限っては特に、やせた顔に、目に見えて疲れの色がにじんでいた。


「いえ……伯爵様。ご丁寧に、ありがとうございます」


 アメリアが深く頭を下げ、俺もそれに倣った。


 伯爵は短く頷き、机の上に置かれた一枚の羊皮紙に目を落とす。


「実は先ほど、王都よりある文書がもたらされたのだ。王都文書院から送られた正式なもので、王家による封印が施されていたものだ。さすがに私ひとりでは判断しかねた。……そこでグスタフ殿、そしてエヴァレット夫人、双方に話を伺いたく、こうして場を設けたのだ」


 俺は自然と、その文書へ視線を移した。折りたたまれた羊皮紙の中央には、赤い封印が押されている。この世界の王家ならではの荘厳な意匠が施されたその封印は、見慣れないものだったが、伯爵の口調とその慎重な扱い方から、それがただの文書ではないとすぐにわかった。


 グスタフが、待ちかねたように言葉を継ぐ。


「こちらは、かつて王家が推進していた『湯治療養院』構想に関する記録でして。……ちょうど白樫亭のある一帯が、その予定地として記録されておりましてね」

「……湯治療養院? 何のことですか?」


 初めて聞く言葉に、アメリアが信じられない顔で訊き返した。


「この計画は、この街がローデンブルグと呼ばれるようになる以前のもので、ご存じのように、実際に湯治療養院は建設されてはおりません。ですが、“建設予定地として王家が定めた”という記録が残っており、それが未だ正式に取り消されていないとなれば、話は別です」


 柔らかな口調で語るものの、グスタフの言葉の芯は、氷のように冷たかった。


「……ですが、白樫亭の土地所有権は、伯爵家より正式にエヴァレット家に移転されており、魔法による登記記録もあります」


 アメリアの声がわずかに揺れた。無理もない。制度上、正しいはずの登記に対して、時系列を遡った()()()()()が突きつけられたのだから。


「えぇ、通常であれば、領主が認めた土地の所有は疑いようがありません。白樫亭の登記も、私自身、過去に確認しておりますからな。しかし今回の文書は、それよりもさらに前――ローデンブルグがシュトラウス家の所領として認定される以前に、白樫亭の土地が王家の“利用地”として記録されていたというものなんですよ」


 そう言いながらグスタフが、封印の箇所を指で示した。


「この文書には、王家の正式な印章が付され、魔法による封印が施されています。つまり、この文書が“王家の記録である”という事実そのものは、誰にも否定できない。たとえ、それが今となっては不要と思えるものであったとしても、です」


 俺は黙ってその文書を見つめた。内容の正当性ではなく、記録の“存在そのもの”が制度上の効力を持つ。

 白樫亭の登記が間違っているわけではない。ただ、その根拠となる“この土地がシュトラウス家の所領であったかどうか”という一点が、古い王家の記録によって疑われている。


 ローデンブルグ領が王家より新恩給与(しんおんきゅうよ)が行われた所領であることに異論はない。だが、その新恩給与の()()が、明確に定義されたものではなかったとしたら―― 白樫亭の土地が、例外的に王家の直轄地として残されていた可能性がある。


 王家を絶対のものとする封建制を社会基盤とするこの世界においては、 それは制度上、十分に効力を持ちうる“疑義”だった。


「……しかし、領内の一部だけを王家の土地として下賜しないまま残しておく、などということがあるのですか?」

「はい、ございますよ」


  疑問を口にした俺にグスタフが、したり顔で頷いた。


「たとえばヴェイユ湖周辺などは、バルデンハイム領内にありながら、王家の保養所として直轄地となっております。例外がないわけではない、ということですな」


 伯爵が静かに口を開いた。


「エヴァレット夫人。私とて、この件に私情を挟むつもりはない。白樫亭の土地の所有権はシュトラウス家が与えたものだが……、もし文書に瑕疵がなければ、あの土地は王家のもの。我が身とて王家の決定に従わねばならん」


 その声音に、迷いはなかった。 伯爵は、王家に忠誠を尽くす“領主”として、ただ真っ直ぐに事実を伝えたのだ。



     ***



「遅れての参上、失礼いたします」


 そのとき、執務室の扉がふたたび静かに開き、副騎士団長のヴィクトールが現れた。 黒髪に銀糸を織り込んだ軍服姿。素都がない立ち居振る舞いだが、目元には人を試すような傲慢さが滲んでいるのは変わらない。


「……ヴィクトール、お前を呼んだ覚えはないが?」


 伯爵の声には、明確な不快と警戒が込められていた。かつて自らの執務室へグスタフを無断で招き入れた男に対する信頼など、とうに失われている。


「ええ、閣下の召喚でないことは承知しております。ですが、この文書に『王家の印』が用いられている以上、我が家門の立場上、形式的な立ち会いが求められると思いまして」


 ヴィクトールは涼しい顔で頭を下げた。その言葉は、儀礼的な響きを纏っていたが、有無を言わせぬ口調を含んでいた。


「我がグリード家は王都の法印局に古くから係累を持ち、重要な契約や登記文書に関わる席での立会いを慣例としていることは、伯爵様もご存じのはず。この場において王家の権威を代行するに最も相応しいのは、グリードを生家とする私であると判断いたしました」


「……王家の権威、か」 伯爵が短く吐き捨てる。


「私の所領において、ギルドの持ち込んだ文書に、王家の権威を乗せてくるとは……ずいぶんと回りくどいやり口だな」

「いえ、私はあくまで記録の証人です。判断する立場にはございません。……ただ、いざという時には、誰が何を証明すべきかについて、意見を述べさせていただきます」


 その言葉には、自身の立場を利用し、議論を誘導する意図が見え隠れしている。


「ふん。どこまでも()()()振る舞いだな。よかろう。好きに見届けるがいい。だが、口が過ぎれば、貴様の騎士としての立場にも相応の責任を取ってもらう」

「もちろん、心得ております」


 ヴィクトールは軽く微笑んで壁際へと身を引いた。その姿に挑発する様子はない。だが、ヴィクトールは、 "見届け人"という立場を名乗りながら――確実にこの場の空気に何かを植えつけに来ている。


 俺は改めて、机の上の羊皮紙へと視線を落とした。

 言葉や権力ではなく――視るべきは、土地や、紙に刻まれた“記憶”だ。


 目を閉じ、深く息を吸い、意識を研ぎ澄ませる。


 ランド・オラクルの感覚が、静かに世界を染め上げていく。

 視界がわずかに揺れ、机の木目、羊皮紙の繊維、そして押された封蝋の魔力痕が粒子のようにきらめいて見えた。


—――—

 その羊皮紙には、重なり合う二つの異なる“時間”の痕跡があった。

 文書に刻まれた文字列は、確かに七十年前の王家命令を示している。

 だが、そこに宿る封印のマナの波動と、記録の一部が語るのは、

 ごく最近——おそらく数週間前の記憶だ。

――――


(……やはり、“何か”が書き換えられている)


 俺は文書を見つめたまま、ひとつ深く息を吸った。


「……伯爵様。お願いがあります」

「申してみよ」

「この文書、たしかに形式上は整っています。魔法による封印もあり、署名や押印もある。ですが、いくつか不自然な点があるのは確かです」

「……不自然とは?」

「記述されている地番表記が現代の区画と一致しているように思えます。当時のローデンブルグが小さな宿場町であったというのであれば、果たしてそのような土地に詳細な地番が割り振られていたのかという点が疑問です」


 グスタフが口を開きかけたが、俺は制するように先を継いだ。


「断言はできません。ただ、文書に加筆が行われた可能性を視た者が、ここにいる――そうお考えいただければ幸いです」


 伯爵がわずかに目を細める。


「……かつて、我が家に取り憑いていた呪いの根を、おぬしは“視た”のだったな」

「……あのときは、エリシアが俺のことを、やけに持ち上げていたので」

「謙遜せんでよい。……確かに、おぬしが見出した地下道の入口と呪いの流れは、後の調査でも符号していた」


 伯爵は静かに頷くと、文書を持ち上げて指先で撫でた。


「ならば、この文書の“正しさ”も……おぬしの目に、何か見えたというのか?」

「確信とは言えません。ただ、“記録と記憶が一致していない”という違和感はあります。それを検証したいのです。……どうか、時間をください」


 ヴィクトールが沈黙を破った。 「……時間?」

 その声は、あくまで淡々としていたが、裏に張り詰めた糸のような圧があった。


「閣下。お言葉ですが、王家の正式文書に疑義を挟むことは、領内の法的安定にも影響します。“疑ってもよい”という前例を作ることになりかねません」

「承知している。だが、この男は我が家の命を救った。……その判断には一握の価値があると思うが?」


 ヴィクトールは笑みを絶やさず、静かに言葉を返した。


「閣下のお気持ちは理解できますが、これは王家が保管してきた文書です。そこに記された内容、あるいはその真正性に疑義を呈することは、王家の権威そのものに対する挑戦と見做されかねません。領主としての責務として、個人的な恩義よりも王家への忠誠が優先されるべきかと思いますが」

「……王家の権威、か。貴様の言うことも尤もだ。だが、真贋を確かめぬまま、すべてを鵜呑みにすることもまた、領主としての責務を果たしたとは言えん。この男の()()()に、我が家は救われた。せめてこの文書にソーマ殿が視た“違和感”の正体を確かめる時間くらいは与えよう」


 グスタフは、ひとつ肩をすくめると、口元に笑みを浮かべた。


「……結構。伯爵様がそこまで仰るなら、私共に異論はございません。しかし、ソーマ殿の“違和感”とやらが、この王家文書の重みにどこまで抗えるのか——楽しみにしておりますよ」


 伯爵は一度だけ目を閉じ、深く頷いた。


「七日だ。その間に、書面の真贋を見極めてみよ。私も、王家の文書に対して、これ以上軽々しく判断を下せる立場ではない。……七日を超えての猶予は与えられん。それ以上は、制度に従う」


 俺は伯爵に頭を下げた。

「ありがとうございます。必ず、真実を明らかにしてみせます」


 そして、その言葉の重みを、心の底にしっかりと刻みつけた。


ご覧いただきありがとうございました。


今回の名言「理は時の娘であって、権威の娘ではない。」は、フランシス・ベーコンの言葉です。「権威に従うだけでは真実に到達できない」という、近代科学の根本精神にもつながる考えを示します。

本話では、相馬が王家の権威を背景とした文書の「真贋」を見抜き、真実を検証する時間を勝ち取りました。第1章はこれからクライマックスに入っていきます。

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