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#30 「彼らは荒廃をもたらし、それを“平和”と呼ぶ」— タキトゥス

 白樫亭の露天湯に、湯の音が静かに満ちていた。 奥まった岩の合間から、ゆらゆらと湯気が立ちのぼる。朝陽が湯面に差し込み、揺れる光がきらめくたび、水音がさざ波のように耳を撫でた。


 湯は、確かに戻ってきた。


 半月ほど前、長らく枯れていた白樫亭の温泉が復旧したという知らせは、瞬く間に街中に広まった。


「白樫亭がまた活気を取り戻したらしい」

「あの湯に再び入れるのか」

「今のうちに泊まっておくべきかもしれないな」


 ――通りは、そんな期待と興奮で持ちきりになった。


 最初に姿を見せたのは旅の商人たち。続いて珍しもの好きの冒険者たち。かつての常連客たちもちらほらと戻ってきた。


 今では、夕刻になれば食堂に賑やかな笑い声が響き、台所の火が絶えることはない。帳場の予約帳も、すでにほとんどが埋まりつつある。


 朝の陽が、湯けむり越しにやわらかく差し込む。 裏庭には湯の香りと薪の匂いがほんのりと漂い、どこか懐かしい匂いが鼻をかすめた。


 軒下では、斧の音が一定のリズムを刻んでいた。

 コールが、黙々と薪を割っている。宿の客である彼が、何の見返りも求めずに働くその姿に、もはや誰も違和感を覚えていない。


(……ありがたいが、こういうのが一番怖いな)


 善意はいつか“当然”に変わる。感謝は空気になり、いなくなった時にだけ、その存在の大きさに気づく。そんな脆さを、前の会社で俺は何度も見てきた。


(物事は、“仕組み”で回るべきだ。誰がいてもいなくても、滞りなく続いていくように。……だからこそ、グスタフは、仕組み、あるいは制度を利用してくるだろう。暴力ではなく、“正当性”の仮面をまとって)


 規則的だった斧の音がふと止まった。見ると、コールが割った薪を丁寧に積み直していた。その手つきに迷いも力みもない。


 俺は湯気の向こうへ視線をやった。


 白樫亭は、確かに生き返った。 アメリアは食堂で忙しく立ち働き、レナは鼻歌交じりに布団を干し、フィオナは帳場で客と談笑している。

 食堂からはカイルの明るい声が響き、厨房からは香草と鶏肉の食欲をそそる匂いが流れてくる。


 ――賑わい。そう、“音”が戻ってきたのだ。


 けれど、なぜだろう。陽射しは温かく、鳥はさえずり、人の気配も満ちているのに、空気の底に、氷のように冷たい、何かが重く沈んでいるように感じる。


 皆が信じている。「もう大丈夫だ」「嵐は過ぎ去った」と。

 だが、本当にそうだろうか? 俺には、そうは思えなかった。


 表向きの平穏が整っているほど、その均衡の薄さが際立っていく。

 何もかもが、整いすぎている。


 こういう空気は、一度崩れ始めれば早い。

 そしてそれを壊すのは、宿の中にいる誰でもない。グスタフだ。

 白樫亭から手を引いたように見せかけて、必ずまた現れる。


 その思いとともに、俺は立ち上がった。


 湯気の向こう、陽の角度がわずかに変わっていた。空は澄みわたり、風は止み、音は吸い込まれるように消えていた。

 すべてが穏やかだった。


 気づけば、隣にはエリシアがいた。いつからそこにいたのか、言葉もなく、同じように庭を見つめている。


「……静かすぎるな」

「ええ。静かで……暖かすぎるわね」


 深緑の瞳に朝の光が射しても、彼女の表情は揺れない。


「嫌な予感がするな。嵐の前の静けさ、ってやつか?」

「……違うわ。もう嵐は、始まっている。気づいてないだけで」



 足元には、柔らかな草が芽吹くように、安堵が広がりはじめている。

 平穏が戻ったという幻想に、皆は身を委ねている。

 その心地よさを、今さら壊すことはできなかった。


 だから、言わなかった。

 この平穏が、まもなく崩れるかもしれないことを。

 アメリアにも、カイルたちにも。


 ただ静かに、俺たちは“次”に備えていた。



     ***



 昼下がり。白樫亭の湯気のように穏やかな日常。

 その空気を、突然、一際通る声が切り裂いた。


「白樫亭の女将、アメリア・エヴァレット! そしてソーマ・ナオキ殿! ローデンブルグ領主・シュトラウス閣下より、至急の召喚にございます。おふたり、直ちに領主館までお越し願いたい!」


 張り詰めた声だった。玄関口から放たれたその言葉は、中庭の端々にまで響き渡り、すべての音をかき消す。


 一瞬にして、すべての動きが止まった。湯気を纏う者、談笑する者、働く者――それぞれの表情が、強張る。


 アメリアは鍋の蓋に手をかけたまま、ふと顔を上げる。奥から出てきたフィオナと目が合った。二人の間に緊張が走る。


「伯爵様から……?」

 アメリアはゆっくりと前掛けを外し、使者の方へ静かに歩み出る。

 俺もすぐに帳場を離れ、彼女の横に並んだ。


「ご指名は、確かに我々ふたりで?」

「左様にございます。急を要する案件とのことで、早急のご出立をお願い申し上げます」


 口調は丁寧だが、そこに猶予はなかった。 “お願い”ではなく“命令”だ


「……承知しました」 


 アメリアはフィオナの肩に手を置いた。

「フィオナ、あとはお願いね。夕餉の準備はいつも通り、レナさんと連携して。お客様の応対も、落ち着いて」

「……お母さん、なにかあったの?」


 かすかに震える声だったが、フィオナはしっかりとアメリアを見ていた。


「まだわからないわ。でも、伯爵様がこのような形でお呼びになるということは——白樫亭に関わることで何かあったのかもしれないわ」


 アメリアは娘の手を優しく握ると、俺の方へ振り返った。


「ソーマさん、よろしいですか?」

「はい、すぐに行きましょう」


 俺も支度など何もいらなかった。必要なのは覚悟だけだ。


 奥からコールとカイルが顔を出した。ふたりとも、風呂上がりの髪にまだ湯気を纏っている。


「なんだ、領主館? ソーマ、なにかあったのか」

「はっきりとは……だが、この呼び出しの仕方は只事じゃない。不動産ギルドがまた何か仕掛けてきた可能性がある」


 俺の言葉に、カイルが眉をひそめる。


「おいおい、もう終わったんじゃねぇのか? 温泉も戻ったし、客も毎日増えてる。ギルドも、さすがにもう白旗だと思ってたぜ」

「……俺も、そうであってほしかった。だが、どうやら何か“次の手”を出してきたようだ」


 アメリアが小さくため息をついた。


「まさか伯爵様が、ギルドの圧力に屈するような方ではないと思っているのですが……」

「俺もそう信じています。ただ……不動産ギルドが法律上の瑕疵や不備を突いてきたとしたら、伯爵とて無視はできません。だからこそ、急いで行って確かめる必要があるんです」


 カイルが口元を引き結んだ。真剣な表情になる。


「オレたちも行こうか?」

「ありがとう。でも……まだ何があるかわからない。ここを任せても大丈夫か?」


 俺がそう訊くと、コールが無言で頷いた。いつもと変わらぬ沈黙が、却って頼もしい。


「白樫亭は、俺たちが守る。行ってこい、ソーマ」

 カイルが断言する。その言葉に迷いはなかった。


「助かる」


 俺とアメリアは白樫亭を出た。見送る顔は、皆一様に不安そうだったが、誰も止めはしなかった。皆、それぞれに理解していたのだ。


 街を横切る風は、少し湿気を帯びていた。午後の陽は高く、石畳の上に長い影を伸ばしている。

 ローデンブルグの中心区へと向かう坂道には、ひと月前と同じ活気があった。商人が荷車を押し、冒険者の一団が歓談しながら歩く。路地からは子供の笑い声も聞こえる。


 だが、その喧噪の裏に、どこか得体の知れない“静けさ”があるような気がした。


 いつもなら陽気な挨拶が飛び交う道端でも、人々は顔を見合わせ、ひそひそと何かを囁いている。時折、俺やアメリアさんの姿を認めて、不安げな視線を向けてくる者もいた。


 白樫亭の女将が領主に召喚された——その事態が、街の住民にも小さな波紋を広げているのが伝わってきた。単なる宿屋の問題ではない。権力を持つ者たちの動きが、自分たちの暮らしにも影響するかもしれない。そんな緊張感が、街の空気に澱のように沈んでいるのを感じた。


 俺たちは無言で坂を登りきり、領主館の黒鉄の門の前に立った。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 衛兵がすでに通達を受けていたようで、俺たちの名を呼び、すぐに扉を開いた。


 敷地内に入り、領主館の石段を上りきったところで、俺とアメリアは一度だけ足を止めた。正面の鉄扉には、ローデンブルグ伯爵家の紋章——銀のユリと黒き塔が重々しく浮かんでいる。

 それはまるで、静かな威厳をもって“領主の判断”を見守るかのようだった。


 アメリアがかすかに息を吐いた。


「……ソーマさん、伯爵様が私たちをお呼びになった理由、わかりますか?」

「おそらく――俺たちを、あの男の前で立たせるためでしょう」

「……グスタフに、ですか?」

「はい。あの人なりの“牽制”でしょう。伯爵も不動産ギルドに対しては、まだ、正面からは言えない立場ですから」


 俺の予想にアメリアは驚きつつも、すぐに頷いた。


 そのとき、扉が静かに開く。


「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」


 現れた老執事は、礼儀正しかった。だが、目の奥にわずかな緊張が浮かんでいた。


 石造りの廊下を歩く音が、天井に反響する。

 やがて、見慣れた執務室の扉が見えてきた。


 そして、その奥には——“嵐”が待っていた。

ご覧いただきありがとうございました。


今回の名言「彼らは荒廃をもたらし、それを“平和”と呼ぶ」は、古代ローマの歴史家タキトゥスの言葉で、支配者が自身の利益のために引き起こした破壊を正当化する欺瞞を批判しています。

主人公たちが過ごす表面的な平穏の裏で、グスタフは「正当性」を装い新たな策を巡らせています。領主からの召喚は、彼がもたらす新たな争いの始まりとなるでしょう。


「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、作品の評価やブックマークを是非宜しくお願いします。

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