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#29 「正義とは、強者の都合ではない。」— プラトン

「——少々お邪魔いたします」


 領主館の執務室。その重厚な扉が低く軋むと同時に、室内に響いた湿った声が、場の温度を、数度下げた。


  入ってきたのは、仕立ての良い上衣を着た恰幅の良い男だった。鼻をくすぐるような香油で隙なく撫でつけた黒に近い焦げ茶色の髪。口元には整えられた口ひげ。

 その顔には仮面のような笑みを浮かべていた。


 ——グスタフ・ハインリヒ。不動産ギルドのローデンブルグ支部長だ。


 その背後には、ローデンブルグ騎士団、現職の副団長。ヴィクトールが立っていた。


「これはこれは……伯爵閣下」


 グスタフは胸に手を当て、芝居がかった口調で挨拶する。


「ご復調と伺いまして、いてもたってもおれず、お見舞いに参上いたしました。まことに慶賀の至りにございます」


 その言葉は丁寧で流麗だが、妙に甘すぎて逆に嘘くさく響いた。値踏みするような視線が、室内の全員をゆっくりと撫でてゆく。伯爵、俺、そしてエリシアへと。


 「……どういうつもりだ、ヴィクトール」


 伯爵の声には、怒りというよりも深い失望が滲んでいた。


 その問いに対し、ヴィクトールは優雅に一礼しながら薄く笑みを浮かべる。


「伯爵様。領内における不動産の動向は、我が騎士団としても注視すべき重要案件です。この度、白樫亭が"御用亭"とされた件については……、一介の宿屋に伯爵家のお墨付きを与える以上、しかるべき報告を不動産ギルドに行うのは当然かと」

「報告……か。不動産ギルドに?」

「はい。領内の不動産管理は、ギルドの管轄事項ですから。不備があっては困ります」


 騎士としての義務を盾にした言い回しだ。しかし実際には、領主の私的裁量をわざと外部に持ち出し、ギルドの介入を招いた——明白な越権であり、伯爵家に対しての裏切りに等しい行為を正当化しているに過ぎない。


 伯爵は目元をわずかに歪めた。その眉間に、疲労とともに深い憂いが刻まれる。


「……なるほど。私的な湯治先にまで、ギルドの監視が及ぶというわけか」


 グスタフは両手を軽く広げてみせた。指にはめられた金の指輪が鈍く光る。まるで、見えない糸を操る手つきだ。


「おやおや、伯爵閣下。それは早計というもの。断じて"監視"などではございません。あくまで、不動産ギルドとしての義務からの確認にすぎませんので」

「義務、とな」

「ええ。最近、白樫亭が再び活気を取り戻したと伺い、心から感銘を受けておりました。その上、枯れてしまっていた温泉までも復活したと! 私個人としても、あの宿には思い入れがございまして……」


 言葉に込められた、あからさまな皮肉。こいつの言葉は、うさん臭くて、いちいち癇に障る。


「しかしながら、"御用亭"という呼称には、少々——驚かされましたな」


 グスタフは歩を進め、伯爵と俺たちとの間にさりげなく割って入ろうとした。俺は無言で一歩前に出て、その進路を遮る。


「おや、これは失礼。どうやら少々お邪魔だったようで」


 笑みを浮かべたまま、目だけが獰猛な獣のように鋭く光る。その視線が、一瞬俺を射抜いた。


「差し支えなければ、認可の文書を拝見したく。あくまで登記上の整合性を確認するためでございます。このローデンブルグの土地は我々が共同で管理すべき"公共資源"でございますから」


 来た。役人の常套手段——"規定"、"名義"、"承認"、"登記"。形式を盾に、権限を侵食してくるやり口だ。制度の網を巧妙に使い、獲物を追い詰める。


 俺が口を開こうとしたその瞬間、伯爵が手を挙げて制した。その手に握られた杖が、床をわずかに叩く。


「ソーマ殿——この場は、私が受けよう」


 伯爵は静かに立ち上がり、杖をしっかりと握りしめた。その姿に、まだ病の気配は残るが、領主としての威厳が感じられた。


「グスタフ殿。"御用亭"とは、我が一族が湯治に利用する意思を示したにすぎぬ呼称。それ以上でも、それ以下でもない」

「ですが、それが民に誤解を与えることとなれば……」

「誤解とは、心の内に生じるものだ。ギルドはいつから、民の内面まで管轄するようになったのか?」


 その一言が、執務室の空気を一変させた。伯爵の言葉には、否定しがたい重みがある。


 グスタフは薄く笑い、「なるほど。確かに」と呟くと、視線をエリシアへと向けた。まるで、次の獲物を見つけたかのように。


「お会いできて光栄です、エリシア様。王国の"土地の守り手"——ルミナス家のご令嬢のご活躍は、常々伺っております」


 エリシアの表情がわずかに硬くなる。


「私はルミナスとして、この土地と人々のために力を貸しているだけ。ギルドに指図される謂れはないはずです」

「もちろん、もちろん。ただ……精霊の意思はしばしば、"現実の秩序"と衝突いたします。土地の声と人の制度、その両者を繋ぐのが我々、土地に携わる者の責務かと」

「精霊は制度の埒外にある存在です。あなた方の責務は、むしろ権力の安定に向いているように見えますが?」


 侯爵令嬢であるエリシアの冷ややかな言葉を前にしても、グスタフは表情を変えない。その目には若き侯爵令嬢の正義感に対する興味と、別種の冷たい計算が浮かんでいるように思えた。まるで、この場で返す言葉と、その効果を慎重に測っているかのように見えた。


「精霊や制度以前に、土地は"人が生きる場所"だ。あんたの言う公共資源ってのは、誰のためのものなんだ? 形式を守るために人の暮らしが壊されるなら、それはもう"公益"とは呼べない」


 二人の会話が意図せぬ方向へ進む前に、俺は口を開いた。この場で、俺自身の考えを明確にするためだ。


「……制度がなければ、混乱が生まれます。理想だけでは秩序は維持できませんよ」


 グスタフが穏やかな口調で返すが、その目の奥には一瞬、明らかな警戒が見えた。俺の言葉に、何かを感じ取ったのか。


「理想ってのは、現実を変えるためにある。土地は誰かを選んだりはしない。だが制度は、選んでしまう。この街には、まだ見えていない真実がたくさんある。俺にはそれが視える」

「ほう。真実、ですか……大変興味深い言い回しですな。なるほど。ソーマ殿、やはりあなたは面白い方のようだ」


 グスタフの目が細くなる。ゆったりと口角を上げたその顔には、もはや芝居じみた愛想笑いは見えなかった。その目に、俺に対する本心からの興味と、それを上回る警戒の色が滲んでいるのが分かった。


「あなたがこの街に現れてから、我々が力を尽くしても手の施しようがなかった伯爵閣下のご体調が快癒され、白樫亭は"御用亭"の称号まで得られた。いやいや、素晴らしい。これだけの結果を前にして、不動産ギルドとしても、もはやあなたを無視するわけにはまいりません」


 俺はその言葉を黙って受け流し、一歩、グスタフに近づいた。奴の冷たい目を、真っ直ぐに見据える。


「……あんたに一つ、聞いておきたいんだが」

「なんなりと」

「——あんた、五年前の"地下道"で、一体何をしていたんだ?」


 空気が揺らいだ。室内の温度が僅かに上がり、すぐにまた冷え込む。


 グスタフの背筋が、微かに硬直する。指にはめた金色の指輪が、一瞬だけ光を弾いた。だが表情は崩れない。むしろさらに柔らかく笑みを作り直し、こちらを見返してくる。


「地下道、ですか? 何のことか……この街の地下道は何年も使われておりません。不動産ギルドでも、いずれ調査しなければと思ってはおりましたが、ただ、その出入口が失われていましたから。おぉ、そう言えば、その地下道の入口を発見されたのは——ソーマ殿、まさにあなたでしたな」

「地下道がどうだったかなんて——関係ない。けどな、あの時放たれた"バジリスク"と、それを成した男の姿……土地は、その記憶を残している」


 それは俺が"視た"景色。八本足の黒トカゲの幼生。それを放った男の太い指を飾り立てる複数の金の指輪。

 名指しはしない。だが、俺だけが視た。そして——今、お前はその言葉に反応した。


 グスタフの肩が少し動いたように見えた。呼吸が一瞬止まったような気配。だがグスタフは、にこやかな顔を保ったまま答えた。


「土地の記憶、ですか——いやぁ、ソーマ殿。大変興味深いお話ではありますな。しかし、風聞は自由ですが、根拠のない発言は——ときに、ご自身の立場を危うくすることもありますぞ」

「忠告、ありがたく頂戴しよう。しかし、真実というものはいずれ明らかになるものさ」


 その一言で、グスタフの目にほんの一瞬、揺らぎが走った。ごく僅かに、視線が泳ぐ。俺の言葉が、奴の自信を揺さぶったように見えた。


 伯爵が静かに目を細めた。その視線が、ヴィクトールへと向けられる。


「……ヴィクトール。貴様、グスタフと通じていたとはな」


 ヴィクトールは何も答えず、ただ鼻で笑うように息を吐いた。その笑いに、開き直りにも似た傲慢さが滲む。


「何か問題でしょうか? 領地を守るのが貴族の務め。不動産ギルドと協力することは、むしろ当然の判断です。伯爵様のように誇りに固執される方には、理解されにくいかもしれませんが」


 明らかな挑発。だが伯爵は言葉を返さず、杖の石突で床を一度だけ、静かに叩いた。沈黙が、その場に重く響く。


 俺は再びグスタフに向き直る。最後の確認だ。


「街ってのは、制度でできてるわけじゃない。人がいて、働いて、集まって、生きてるから街になる。土地は"場所"だ。人が暮らすためのな」


 グスタフは静かに応じた。その仮面は戻っているが、目の奥の光は鋭い。


「お言葉ですが、ソーマ殿。この国の街も村も、すべては王と貴族の庇護のもとに成り立っております。領地が与えられ、それに従って人々は居住を許される——それがこの国の秩序です。誰が土地を預かるべきかを明確にせねば、争いの火種になるだけでしょう」

「けど、その"誰が預かるか"って枠組みが、今、この街を歪めてる。暮らしを押しつぶしてる。少なくとも、俺にはそう見える」


 その言葉に、ヴィクトールが鼻で笑った。侮蔑と嘲りの声だ。


「やれやれ。貴族による土地の管理体制を否定するとは、愚かというほかないな。ソーマ、お前のようなどこの馬の骨と知れない奴が、この国の土台に口を出すとは。分をわきまえろ!」

「俺は別に、この国の土地制度を否定している訳じゃない。街で生きてる人間の顔が見えるかどうか——ただ、それだけだ」


 ヴィクトールの挑発に乗るつもりはない。俺が見据えているのは、こいつらの言う「管理」や「秩序」じゃない。この街で生きている人間そのものだ。


 グスタフはしばし黙し、やがてその仮面のような笑みを少しだけ崩した。まるで、目の前の男が、予想外の存在であることを認めたかのように。


「……やはり、興味深い方だ、ソーマ殿。あなたの存在は、我々にとっても見過ごせないものとなりつつありますな」


 次からは、敵として扱うという宣言に近い。その言葉は、契約書に印を押す寸前の確認のようだった。


「いずれまた、しかるべき場でお会いすることになるでしょう。そのときにはぜひ、もう少し深く話を——」

「今日は挨拶だけで済ませておくよ。だが覚えとけ。白樫亭はもう、お前らの好きにはならない!」


 グスタフは口元にだけ笑みを残し、軽く一礼した。その目は変わらず、冷たい光を宿していた。

「……今後が楽しみですな、ソーマ殿」


 ヴィクトールを伴って踵を返すと、二人は執務室を後にした。その足音が、張り詰めた室内に残響として居座る。


 扉が閉まった後、伯爵が深くため息をついた。その肩から、一気に力が抜けたようだ。

「……随分と、大きな火を焚きつけたな、ソーマ殿」


「ええ。ですが、伯爵」 俺は答えた。グスタフが去った後の、静かになった空気の中で。

「この街には、その火で照らすべき闇が、まだまだあるようです」


ご覧いただきありがとうございました。


今回の名言「正義とは、強者の都合ではない。」は、プラトンが唱えた、真の正義は権力者の意向に左右されないという普遍的な概念です。本話では、王家の権利を代理するヴィクトールと、不動産ギルドを代理するグスタフが、それぞれの立場と制度を盾に介入を試みました。これはまさに「強者の都合」であり、相馬はそれに対し、街は「人が生きる場所」であるという視点から、真の「公益」とは何かを問いかけています。この思想は、相馬の根幹を成す信念であり、今後の物語の重要なテーマの一つです。


「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、作品の評価★、ブックマークを是非宜しくお願いします。

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