#19-1 「より少ないことは、より豊かなこと。」— ミース・ファン・デル・ローエ
再建計画に乗り出してから二週間。白樫亭の再建は一歩ずつ、しかし確実に進んでいた。
ユージンの協力によって、安定した食材の仕入れルートを確保できたのは、大きな進展だった。白樫亭は、いくつかの商会から食材の値上げを迫られていたからだ。
ギルドを介さず、信頼できる商人たちを通じて、農家や猟師と直接交渉してくれたおかげで、質のいい食材を適正な価格で仕入れることができるようになった。
「これで料理のバリエーションも増やせるね!」
フィオナは目を輝かせながら、新たなメニュー作りに取り掛かった。
白樫亭の料理は、彼女の腕にかかっていると言っても過言ではない。アメリアから仕込まれた彼女の料理は評判が良く、それが宿の人気の一つだった。
フィオナは、以前からカリーネ神殿に通い、週に一度の修行を受けていた。しかし、拉致事件を経て、安全を考慮した結果、現在は修行を一時中断している。
フィオナが癒しの魔法を使えることは知っているが、この世界では治癒の力にも異なる性質があるらしい。
癒しの魔法は大きく水属性と光属性に分かれ、それぞれ異なる特性を持つ。
水の魔法は外傷を治す力があり、傷口を塞いだり、出血を止めたりする。一方、光の魔法は病を癒す力を持ち、体内に潜む毒や悪性の影響を浄化する働きがある。
一般的にはどちらか一方を使える治癒士が多く、それだけでも十分に貴重とされる。しかし、フィオナはその両方を扱える稀有な才能を持っていた。
その力を知ったカリーネ神殿は、ぜひとも修行に来てほしいと彼女を誘った。
当初、フィオナ自身はあまり乗り気ではなかったが、宿に泊まる旅人に万が一のことがあった時に役立つのではないかと考え、神殿での学びを受けることに決めたそうだ。
この世界に満ちる魔力は、すべての人間が持つものであり、その者の性質によって得意・不得意が分かれる。
子供の頃から親や周囲に教わることで、多くの者が 「生活魔法」 を習得する。例えば、お湯を沸かす、光を灯すといった日常的な魔法は、ほぼすべての人が使えるようになる。 しかし、強力な魔法や特定の属性に特化した魔法を自在に操るには、個々の才能や修練が必要となる。
フィオナは、将来的には高度な治癒魔法を使いこなす可能性があると期待されていた。
誘拐事件以降、フィオナとアメリアが外出する際には、必ずカイルかコールが護衛として同行するようになった。
冒険者である彼らは、普段はギルドが斡旋した依頼を受けて報酬を得ることで生計を立てている。しかし、最近はほとんど白樫亭に張り付き、フィオナたちの安全確保を優先していた。
「冒険者の仕事をしなくても大丈夫なのか?」と俺が尋ねると、カイルは肩をすくめながら笑った。
「俺たちはそれなりに蓄えがあるし、一年くらいは問題ないさ」
彼らは Dランク冒険者 ではあるが、すでに Cランク昇格間近の実力を持っていると以前に聞いていた。
このローデンブルグでは、最も高いランクの冒険者パーティでも Bランク 止まりであり、Aランク以上の冒険者となると、この国でも有数のダンジョンを抱える都市や王都にしかいないという。
事実、この街の冒険者ギルド長も、元はBランク冒険者だったそうだ。
カイルたちはそれなりに稼ぎがあるようで、実はそれぞれが個人の家として賃貸で部屋を借りている。エレノアはたまに自宅へ帰ることもあるが、カイルとコールはほぼ白樫亭に常駐している状態だった。
「また何かあるといけないからな」 カイルはそう言って、にこやかに笑った。
警戒しながらも、それを表に出さず、あくまで自然に振る舞おうとするその姿勢には、頼もしさを感じた。
一方、アメリアは手紙をしたため、かつて白樫亭を利用していた冒険者や商人たちに向けて、宿の新しいサービスを積極的に宣伝し始めた。
「この宿はね、旅人たちの家みたいな場所だったのよ。だから、また帰ってきてもらいたいの」 彼女はそう言いながら、丁寧にペンを走らせていた。
白樫亭は、かつて冒険者や旅人にとって、気軽に立ち寄れる宿だった。そのコンセプトは変えずに、より快適に過ごせるよう改良を加えている。
かつての常連たちも、懐かしさからか、少しずつ戻り始めていた。カイルたちの冒険者仲間も協力してくれて、「あそこ、居心地いいぞ」とギルド内で口コミを広げてくれた。
客足はゆっくりではあるが、確実に増えつつあった。
ルーヴェ神殿で受けた魔法鑑定の結果は、宿に帰ってすぐエレノアに伝えた。
「……結論から言うと、俺の魔力は微弱すぎて、到底魔法を使えるレベルじゃないらしい」
エレノアは少しだけ考え込むように目を伏せた後、「そう、残念だったわね」と短く呟いた。
それ以上の追及はなかった。
「借りた金は、必ず返すよ」
俺がそう告げると、エレノアは微笑を浮かべながら、「いつでもいいわよ」と軽く手を振った。まるで、俺の言葉なんて最初から気にもしていないかのような、そんな気楽な態度だった。
宿の経営が軌道に乗り始めた矢先、新たな問題が浮かび上がった。
——人手不足だ。
客が増えるのは嬉しいが、その分仕事も増える。
俺たちだけでは、宿の業務を回しきれなくなってきた。
アメリアは以前白樫亭で働いていた従業員たちに声をかけ、戻ってきてくれるよう頼んだ。
そのうちの一人が、すぐに戻ってきてくれていた。
「今日から、またお世話になります、レナ・カーティスです」
彼女はハキハキとした口調でそう言うと、一礼してくる。
金髪のショートヘアが特徴的な三十代前半の女性で、以前は宿の掃除や管理を担当していたらしい。
「相馬直樹です。一緒に白樫亭を盛り立てていけたらと思ってます」
「ええ、よろしくお願いしますね。アメリアさんからも話は聞いてますし、手が足りてないのは見ての通りですから、さっそく働かせてもらいます」
「助かります。仕事の流れは、フィオナやアメリアから説明を受けてください」
「はい!」 レナは快活に笑い、手際よくエプロンを身につけると、すぐに掃除道具を手に取った。
新しい役割分担も決めた。
アメリアとフィオナは宿の受付と料理を担当。帳簿の管理もアメリアの仕事だ。レナは宿内の掃除や管理を中心に行い、俺は壊れた部分の修繕や庭の手入れを請け負う。エディはフィオナの料理のサポートだけでなく、俺やレナの手伝いもこなすことになった。
「よし、じゃあ今日も頑張るぞ!」
「うん! 僕ももっと料理、上手くなるよ!」
「それは頼もしいね。でも焦らず、丁寧にやることが大事だよ」
フィオナが微笑むと、エディは真剣な顔でコクリと頷く。
こうして白樫亭は、より強固な体制へと移行していく。
この宿をもう一度——かつて以上の賑わいを持つ場所へと成長させるために。
本日は前半と後半に分けて投稿します。