#01 「世界は一冊の本だ。世界を旅しない人は、ほんの1ページしか読んでないのと同じである。」— アウグスティヌス
「……これ、契約するのかよ……」
つぶやいた声が、深夜のフロアに沈んだ。
午前一時十五分。壁掛け時計の針が、まるで俺を嘲笑うように、静かに秒針を刻んでいた。
築四十八年。雨漏りあり。耐震診断、未実施。
現地調査メモには、シロアリ被害の写真がクリップされていた。
にもかかわらず――見た目だけは綺麗にリフォームされたアパート。
チラシのキャッチコピーは、こうだ。
『駅近好立地! 想定利回り12%の優良物件!』
「どこが、だよ……」
苦笑が、喉奥で引っかかる。
明日の朝イチで、この物件を契約する相手は、老後の生活資金を不動産で運用しようとしている老夫婦だ。
数ヶ月前に孫が生まれて、「何か残せる資産を」と語っていたな。
あの笑顔を裏切るチラシを作ったのは、他でもない——俺。
机の上には契約書、重要事項説明書、図面や書類の山。
言葉ひとつ間違えれば契約が吹き飛ぶ。
けれど、言葉ひとつで真実を包み隠せることも、俺は知っている。
それが、この世界で“不動産屋”として生きるってことだ。
ブルッ
社用のスマホが震えた。
画面に表示された上司からの未読メッセージは、十件以上。
〈進捗送れ!〉
〈さっさと送ってこい!〉
〈朝一で部長確認があるの、わかってんのか!!〉
画面に滲んだ文字を見ていたら、スマホを叩き割りたくなった。
でも壊せない。これは会社支給の端末。買い替えは自己負担だ。
その数万円さえ、今の俺には重い。
通帳の残高はギリギリ。
母の入院代、家賃、奨学金の返済。
俺の人生はいつも、誰かの都合と計算に組み込まれてきた。
会社の数字、上司の評価、営業ランキング、契約率、クレーム率。
全部、俺じゃない“何か”が決める。
俺は、ただ従って、数字を作って、笑うふりをしてるだけだ。
……こんな世界で、もう何年も働いてきた。
パソコンの光が滲む。
目をこすっても視界は晴れない。
突然、耳の奥で低い「ゴウン……」という音が響いた。
最初は、プリンターの紙詰まりかと思った。
けど違う。もっと深く、足元の下、床——いや、地の底から響いてきたような。
(なんだ……今の……)
夜中のオフィス。エアコンも止まり、音は何一つない。
空気が妙に重い。
吸い込んでも肺に届かず、喉がつかえる。
頭が熱を持ち、視界の輪郭がにじむ。
指先にじんと痺れが走った。
(やばい……これは、マズい……)
立ち上がろうとした瞬間、世界が傾いた。
パソコンの画面が遠ざかり、天井の蛍光灯がぐにゃりと歪む。
耳鳴り。心臓の鼓動。吐き気。
「ッ……」
なにか、どこかが、ブチッと切れた気がした。
――そして、真っ暗になった。
***
草の匂いがした。
湿った土、陽を浴びた葉の香り。
さっきまでいたオフィスの、乾いた埃とトナーのにおいとはまるで違う。
ゆっくり目を開けた。
頭上にあるはずの天井はなく、そこには青空が広がっていた。
雲が一筋、風に流れていく。
「……空?」
つぶやいた声は、誰にも届かずに消えた。
動かそうとした手が重い。
喉の奥が乾いていて、指先が微かに震えている。
体中が鉛みたいに鈍く、内臓がどこか遠くで眠っているような感覚。
(さっきまで、オフィスにいたよな……)
意識が急速に浮き上がる。
契約書、プリンター、上司からのメッセージ……。
「……倒れた……のか?」
ゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡す。
そこには、周囲を囲むように見知らぬ森が広がっていた。
どこまでも続く木々。街灯もアスファルトもない。
風が葉を揺らし、ざわめきだけが耳を撫でる。
「まさか、俺……逃げてきた?」
ふと、一つの可能性が浮かぶ。
現実のすべてを投げ出し、無意識のうちに山奥へ――。
寒気が背中を這い上がった。
思い返しても記憶はない。でも、それを否定できる状況でもない。
(そこまで……壊れてたのか、俺は)
強い風が駆け抜けた。木々を揺らし、ざわりと音がした。
俺の心の奥で、なにかがきしむように鳴った。
「……どこだよ、ここ」
スーツ姿のままの自分を見下ろした。
ネクタイは緩み、シャツの袖はまくったまま。
ポケットを探ると、スマホがあった。
電源は入った。バッテリー残り3%。
画面に表示された最後の通知――
〈相馬ァ、まだかよ。寝てんじゃねえぞ!〉
その瞬間、電源が落ちた。
「……冗談だろ」
他に何か……名刺入れ、財布、社員証。
あのクソ上司が、今ごろ血相変えて俺を探し回ってることだろう。
「帰らなきゃ……」
ゆっくりと立ち上がった。
膝が少し笑っていたが、足に感覚はある。歩ける。
(とにかく……森を抜けよう)
方角も地形もわからない。
だが、じっとしていても答えは出ない。
緩やかな傾斜を選び、木々の合間を進んだ。
途中で枯れ枝を一本拾い、杖代わりに握った。
森の中は、驚くほど静かだった。
虫の声も少ない。風が葉を揺らす音だけが、一定のリズムで鼓膜を打つ。
数分も歩くと、喉の渇きが増してきた。
今朝の食事を思い出そうとして――思い出せないことに気づいた。
今日が何曜日だったかも、少し曖昧だ。
「……ほんとに、限界だったのかもな」
独り言が、やけに遠くへと響いていった。
もう一歩、そしてまた一歩。
ただ黙々と歩き続ける中で、ふと視界の端で何かが動いた。
「……ん?」
枝の間から覗いた地面に、小さな影が跳ねていた。
ウサギか? けれど、どこか妙だ。
その生き物の額には一本の角が生えていた。
しかも、根元から青白く光を放っている——ように見える。
「……なんだ、あれ……?」
目を凝らす。
見間違いではなかった。
次の瞬間、別の生き物が目端を横切った。
背中に羽のような膜が生えた小動物が、木の幹を駆け上がっていく。
自然の動物にしては、あまりにも異様だった。
(まさか、あれ……)
頭の奥に、ずっと押し込めていた疑念が浮かび上がる。
ここは――本当に、日本なのか?
現実なのか? 夢なのか?
それとも……
「異世界……?」
その声に驚いたのか、角ウサギはあわてて、草の間へと跳ねて消えた。
俺は、その背中を、ただ黙って見送るしかなかった。
もう一度、周囲を見回す。
森は静かで、風が枝を揺らす音だけが、ゆっくりと流れていった。
あのウサギもリスも、もういない。
あれが幻覚じゃないのなら――少なくとも、ここは日本じゃない。
ここは、どこだ?
何がどうなって、俺はこんな場所に転がっていたんだ?
不意に、口が動いた。
「……ステータス・オープン」
森に、俺の声がむなしくこだました。
画面は出ない。 特別な力を得た感じもしない。
「……スキル発動!」
やけくそ気味に叫んでみたが、何の変化もない。
ならば、魔法はどうだ?
「ファイアーボール!」
手を前に突き出したが、指先から炎のひと欠片すら出てこない。
「ケ○ル」…「ホ○ミ」、——「ベギ○マ!」
国民的ゲームなんかで知っている呪文をいろいろと試したが、結果は変わらなかった。
俺は数秒、その場に立ち尽くし、そして……
「……ですよねー」
小さく溜息をついて、頭をかいた。
だいたい、転生だの、召喚だの、転移だの、そんな事が現実に起こるはずがない。
アニメやラノベじゃあるまいし……。
「……とにかく、森を抜けよう」
そう呟いた声は、誰に届くでもなく、風に溶けていった。
深く息を吸い、また歩き出す。
木々の向こうに、少しでも“答え”があることを祈りながら。
ご覧いただきありがとうございました。
第1話のタイトルに使用した
「世界は一冊の本だ。世界を旅しない人は、ほんの1ページしか読んでないのと同じである。」
この言葉は、旅や経験によって初めて“世界”を深く理解できるという意味で使われます。聖アウグスティヌスが実際に残したとされるフレーズで、多くの旅人や探求者に引用されてきました。
『異世界不動産』も、土地という“本”を読み解く物語です。
ページをめくるように、一歩ずつこの世界を旅していければと思います。
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