#01 「世界は一冊の本だ。世界を旅しない人は、ほんの1ページしか読んでないのと同じである。」— アウグスティヌス
「……知らない天井だ……」
朦朧とする意識の中で、俺はじっと天井を見つめていた。
いや、天井じゃない。青空だ。白い雲がゆっくりと流れている。
(……あれ?)
思考がまとまらない。体が重く、腕を持ち上げるのも億劫だ。
まるで何日もろくに寝ずに働き続けた後のような疲労感が全身を纏っている。
俺は地面に仰向けのまま、ゆっくりと記憶をたどる。
確か、昨日は……いや、昨日だったか?
あのクソ上司に無茶な要求を突きつけられ、俺はそれを無理やりまとめ上げる作業に追われていた。
いや、無茶な要求なんて、もはや日常だ。
契約が取れるなら何をやってもいい、数字さえ上げれば正義、そんな腐った価値観に染まった業界だ。
客のことなんて建前だけ。
売ってしまえば後は知ったことか——土地売って誰かを泣かせて……俺も泣きたかった。
最後に覚えているのは、深夜のオフィスでPCの画面と睨み合っていたこと。
スマホの画面には「まだか!?」の文字が躍る。
上司からの催促メッセージが矢のように飛んできていた。
「クソ……! 今、やってんだよ!」
怒鳴りながら、思わずスマホを床に投げつけ——ようとしたが、振り上げた腕を下ろした。
このスマホも会社からの支給品だ。壊したら、後で余計に面倒なことになる。
まるで首輪みたいなもんだ。会社に繋がれて、逃げることすら許されない。
「相馬、まだ終わらないのか?」 おそらく終電前だっただろう。
疲れ切った同僚が背後から声をかけてきたのを覚えている。
俺は笑って「すぐ終わる」と答えたが、それは完全な嘘だった。
何時間経っても終わる気配はなく、気づけば時計の針は深夜三時を回っていた。
カフェインで無理やり目を覚まし、肩を回してもうひと踏ん張りしようとした。
——その瞬間、視界が暗転した。
(……まさか、死んだ?)
ありえない話じゃない。
慢性的な睡眠不足、栄養不足、ストレス過多。
金のためなら何をしてもいい、という価値観に飲まれながら、心をすり減らして働き続けた。
そんな生活を数年も続けていれば、倒れてそのまま……なんてことも十分考えられる。
だが、俺は今も意識があるし、死後の世界にしてはやけに鮮明すぎる。
微かに土の匂いがする。木々を揺らす風が頬を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
——どう考えても、おかしい。 俺はゆっくりと上体を起こした。
「……森?」 都会の風景とはまるで違う。
アスファルトのひび割れや排気ガスの臭いはどこにもない。
耳をすませば、木々を揺らす風の音と、鳥のさえずりが聞こえる。
それはあまりにも静かで、穏やかで、まるで時間が止まったかのような錯覚さえ覚えた。
(……ここは、日本……なのか?)
会社の近くにこんな森があるはずがない。
それどころか、日本のどの山奥を探しても、こんな場所は見つからないだろう。
まるで、異世界の森のような——いや、そんなバカな。
頬を軽くつねってみる。
「……痛いな」 リアルすぎる感覚に、かえって冷静になる。
服装は、スーツのままだった。
ネクタイは少し緩んでいるが、ワイシャツの袖をまくった跡もそのままだ。
上着のポケットに手を突っ込むと、名刺入れ、財布。
そしてクソ上司からのメッセージがうるさくて、電源を切ったままポケットに突っ込んでいたスマホ。
そのスマホの電源を入れてみる——
「……圏外、か」 バッテリーは残りわずか。
スマホのホーム画面に一瞬、クソ上司の連続メッセージが表示されたが、そのまま電源が落ちた。
(つまり、連絡手段なし……か)
財布の中には日本円の札とカード類。
名刺には「株式会社ビクトリーエステート 不動産開発部、相馬直樹」と書かれている。
(……まさか、異世界?)
そんな馬鹿な、と思いつつ、俺は試しに、異世界モノのお約束をやってみる。
「ステータスオープン!」
———……。
森に、俺の声がむなしくこだました。
画面は出ない。 特別な力を得た感じもしない。
「……スキル発動!」
やけくそ気味に叫んでみたが、何の変化もない。
ならば、魔法はどうだ?
「ファイアーボール!」
手を前に突き出したが、指先から炎のひと欠片すら出てこない。
「ヒール!」
胸に手を当てたが、当然ながら何の効果もない。
「ケ○ル」…「ホ○ミ」、「ベギ○マ!」国民的ゲームなんかで知っている呪文をいろいろと試したが、結果は変わらなかった。
「……何もなし、か」
俺はため息をつく。
「せめて、この世界に呼んだのが女神でも王国の魔術師でもいいから、誰かがこの状況を説明してくれよ……」
だが、そんな都合のいい展開はやってこない。
ここが異世界なのかもわからない。
異世界だとして、世界のルールも分からない。
言葉が通じるかも怪しいし、まともに生きていける保証もない。
(……さて、どうする?)
このまま森の中を彷徨い続ければ、食料も水もなく、そのうち餓死する。
まずは人を探さないと。 言葉が通じるかは分からないが、人がいれば、何とかなる可能性がある。
スーツの裾を払い、ゆっくりと立ち上がった。
「……行くしかないな」
そう呟き、俺は歩き出した。
***
森の中はひどく静かだった。 それがかえって不気味に思える。
足元には厚く積もった落ち葉が敷き詰められ、歩くたびにかさりと乾いた音を立てる。
湿った土の感触が靴越しに伝わり、これが夢ではないと否応なく実感させられた。
生温い風が吹き抜け、木々の葉を揺らす。 だが、それ以外の音はほとんどない。
どこかでせせらぎの音でも聞こえてくれば、少しは安心できるのに。
だが、今のところ水の気配はない。
空腹はまだ感じないが、喉が渇いてきた。
飲めるものを探さなければ——。
時折、木々の隙間から小動物の姿が見える。
見たことのない生き物だが、そこまで異形の怪物という感じではない。
せいぜい、ウサギに小さな角が生えているとか、リスかハムスターのような小動物の牙が異常に長いといった程度だ。
その姿を見る限り、やはりここは異世界なのだろう……。
(……迂闊に触らないほうがいいな)
異世界ファンタジーなら、「可愛いマスコットキャラ」枠かもしれないが、これはゲームでも物語でもない。
どれも遠目には愛らしいが、牙の長いリスなんて、もし噛まれたらひとたまりもない。
首筋でもやられたら、出血や感染症の危険があるかもしれない。
慎重に歩を進めながら、俺はさらに森を見渡した。
「ゲームとかのパターンだと、ここで出てくるのはスライムとかゴブリンとかのはずなんだが……」
そう呟きながら、俺は地面に落ちていた手近な枯れ枝を拾い上げた。
それなりに太く、長さも腕ほどある。
軽く枝を振ってみる。 思ったよりしっかりしている。
(まぁ、素手よりはマシか)
こいつで戦えるとは思わないが、ないよりはずっといい。
何も持たずにこの森を歩くよりは、少しは心の支えになる。
(野生動物の危険はもちろんだが……もしもこの世界に魔物が存在するなら——)
その考えが頭をよぎった瞬間、遠くからかすかな喧騒が聞こえてきた。
金属がぶつかる音。
怒号と叫び声。
何かが地面を踏みしめる、重い足音。
(……戦闘?)
反射的に立ち止まり、耳を澄ませた。
方向を確かめるために、周囲の音を拾う。
(どうする……?)
普通なら、巻き込まれないように逃げるのが正解だ。
俺は戦えないし、こんな枝一本でどうにかなるとも思えない。
だが、戦いがあるということは、そこに人がいる可能性が高い。
(……行くしかない)
人がいれば、状況を聞くことができるかもしれない。
この世界がどこなのか、俺が今何をすべきなのか。
俺は慎重に音のする方へ進み始めた。
ご覧いただきありがとうございました。
第1話のタイトルに使用した
「世界は一冊の本だ。世界を旅しない人は、ほんの1ページしか読んでないのと同じである。」
この言葉は、旅や経験によって初めて“世界”を深く理解できるという意味で使われます。聖アウグスティヌスが実際に残したとされるフレーズで、多くの旅人や探求者に引用されてきました。
『異世界不動産』も、土地という“本”を読み解く物語です。
ページをめくるように、一歩ずつこの世界を旅していければと思います。
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