#15 「あらゆる逆境の中にも、それと同等か、それ以上の恩恵の種が隠されている。」— ナポレオン・ヒル
「それと、さっきあなたたちが話していた旅人への情報伝達の手段なんだけど——」
静かにそう切り出したのはエリシアだった。微笑を浮かべながら、彼女は腰のポーチから二枚の羊皮紙を取り出す。
「魔法を施した紙なら、最新の情報を自動的に更新することができるわよ。この紙に地図を描いて、その情報を上書きしていけば良いわ」
そう言うと、彼女は、ペンでさらりと一枚の羊皮紙の表面に文字を書く。
その瞬間、地図が淡く輝き——そして、もう一枚の紙の表面に細かな光の筋が走った。浮き上がった文字は、もう一枚の紙に書かれた筆跡とそっくりだった。
「この特殊な紙に魔力を流せば、魔力の流れに沿って情報が更新されるの。これなら、冒険者や商人たちも、素早く、より安全で効率的なルートを伝えることができるはずよ」
「へえ、すごいな!」
カイルが目を丸くして食いついた。皆も興味津々で地図を覗き込む。
「でも、それってどういう仕組みなんだ?」
「親となる地図を一つ作って、そしてその親地図と魔法的にリンクした子地図を用意する。親地図の情報が更新されるたび、リンクした子地図にも反映される仕組みよ」
エリシアの説明を受けながら、俺は手元の紙に視線を落とす。
「つまり、白樫亭に親地図を置いて、旅人が子地図を持ち歩く。そうすれば、どこにいても最新のルート情報が確認できるというわけか」
「そんなことができるのか?」
驚いたように地図を覗き込みながら、カイルが声を上げる。
「えぇ。ただし、魔力のリンクにはいくつか制約があるわ」
エリシアが軽く頷く。
「最初に供給した魔力が切れると情報は更新されないし、距離が離れすぎるとリンクが不安定になる。このローデンブルグ領内くらいが実用範囲の限界ね」
「魔法で、そんな便利なことまでできるのか……」 カイルが、エレノアへ視線を向けた。
「少なくとも、私の魔術じゃ無理ね。そもそも、そんな遠くまで情報を伝えるような魔法は聞いたこともないわ。もしかしたら……そういった魔法があるのかもしれないけど……」
エレノアが少し首をひねりながら応じる。
「だけど、自身の持つ魔力を触媒とする魔法で、遠くにある二つのものを同一にする、そんなことができるとは思えない。エルフが使う精霊魔法なら、精霊の力を借りて維持できるかもしれないけど……それでも、そう簡単な話じゃないわよね?」
その疑問に、エリシアは一瞬だけ目を伏せ、肩をすくめるように微笑む。
「精霊の力の流れをうまく活用すれば可能よ。いずれにしても、この地図を白樫亭で管理できれば、宿としての価値はぐんと高まるわ」
その言葉に、俺は少し引っかかりを覚えた。
説明は分かる。理屈も分かる。でも、どこか説明が“綺麗すぎる”。
それ以上は何も言わないエリシアの態度が、逆にその曖昧さを際立たせていた。
俺の頭に浮かんだのは、元の世界でいうところのオンラインマップの仕組みだった。情報を持つサーバーがあって、それを元に各端末の地図がリアルタイムで更新される——あの感じに似てる。
この世界でそれを再現するには、魔法でネットワークを作るというわけか。
「なるほど。この地図があれば、旅人向けの情報提供サービスも現実的になるな」
俺は地図を眺めながら呟いた。
先ほど保留になった情報提供の課題——情報の鮮度や伝達速度の問題を、この魔法の地図が解決してくれる可能性がある。
「安全なルートが分かる地図……銀貨三枚枚払っても安いくらいだな。」
コールが低い声で呟く。
「なあ、それってダンジョン探索にも応用できるんじゃねえか?」 カイルが身を乗り出してくる。
「未知のエリアで情報がリアルタイムで更新されるなら、探索の成功率は跳ね上がるだろ!」
「そうね……でもこの魔法を扱えるエルフは限られてるの」
エリシアが静かに言って、肩をすくめる。
「私の一族でも、できるのはほんの一握り。冒険者ギルドと連携して広く展開するのは、正直難しいわね」
「そんなにすごい魔法を……エリシアさん、本当にありがとうございます!」
フィオナが感激したように手を握りしめる。その素直な反応に、場の空気が少し和らいだ。
「ねぇ、エリシアはどうして白樫亭にここまで協力するの?」
ふと、エレノアが問いかける。言い方は淡々としていたが、その言葉には本心を探ろうとする色があった。
一瞬、空気が止まる。全員の視線がエリシアに集まった。
「そうね……乗りかかった船ってところかしら」
エリシアは微笑を浮かべたまま、静かに言葉を続けた。
「でも強いて言うなら、白樫亭の温泉には興味があるの。精霊たちも気にしているし……それに、私、不動産ギルドって嫌いなのよね」
その何気ない一言に、俺の中に違和感が芽生えた。
不動産ギルドを“嫌い”——その言い方には、単なる感情以上のものが含まれているように思えた。
何か過去があるのか、それとも個人的な因縁か……それを問うには、今は時期が早すぎる。
と、そこまで考えていた俺は、ふと気がついた。
「……エリシア。お前、いつから俺たちの話を聞いてたんだ?」
ちょっとからかうような調子で尋ねると、エリシアの耳がピクリと動いた。
「えっ……え、い、いつからって……その、最初から?」
焦った様子で答える彼女を見て、フィオナとエレノアがくすくすと笑い出した。
「エリシアが慌てるなんて珍しいわね」 エレノアが楽しそうに言いながら、じっとエリシアの顔を見つめる。
「もしかして、聞かれて困るようなことでもあったの?」
「そ、そんなことないわよ!」
エリシアは慌てて胸を張るけど、その必死な感じが逆に怪しいというか……可笑しいというか。
場の空気がふっと緩んで、食堂に小さな笑いが広がった。
このやり取りだけ見れば、何もかもが平和そのものだ。
緊張も、不安も、少し前まであった陰りも、すっかり消えたように見える。
——少なくとも、皆はそう思っているらしい。
だけど俺の中には、ほんの小さな違和感が、まだ残っていた。
エリシアが、白樫亭に妙に関心を示している——それが気になっている。
「温泉に興味がある」……まあ、分かる。精霊が関係しているって話も、理屈としては納得できる。
でも、どうしても引っかかる。エリシアが、ここまで積極的に関わろうとする理由が、いまいちピンとこない。
彼女は、基本的に他人に深入りしないタイプだと思う。傍観者寄りで、どこか距離を取っているようなところがある。
それが今はどうだ。俺たちの議論に自然と加わり、温泉の話に目を輝かせ、魔法の地図まで持ち出して協力している。
まるで、最初からここに関わるのが当然だった、というような動き方だ。
——なぜだ?
けれど俺は視線を逸らし、適当に肩をすくめて流した。
エリシアのことは、後でじっくり考えればいい。
今、考えるべきことは他にある。この宿を守ること。そして、温泉が枯れた原因を突き止めること。
そう、自分に言い聞かせながら、俺はもう一度、地図の上に視線を落とした。
***
「問題は、資金ね」
アメリアが表情を引き締めて言った。
それまで穏やかだった空気に、少しだけ現実の重みが戻る。
「たとえ温泉が復活したとしても、サロンスペースを作ったり、大浴場を整備し直すには、それなりの費用がかかるわ。正直なところ、蓄えはもうほとんど残っていないの。温泉を掘り返したときの費用や、最近のトラブル続きで……」
「そこなんですよ」 俺は指を鳴らし、手元の紙を軽く叩く。
「白樫亭の土地を担保にして、商人から融資を受けるんです」
「……え?」 アメリアが戸惑った表情を浮かべた。
フィオナも目を丸くして、俺を見ている。「土地を……担保に?」
「はい。不動産を担保にすれば、ある程度まとまった資金を借りることができます」
一瞬、場の空気が止まる。
……ん? なぜか、微妙な間が生まれている。
「なんだその顔……」
俺は当然のことを言ったつもりだったが、どうも通じていない様子。
いや、通じていないというより、“何を言われたのか理解はしてるけど、前提が違う”という困惑に近い。
カイルが腕を組んで、首をかしげた。
「その、“担保”ってやつ、なんかすげぇ高級そうなものか?」
……お前、今までよくそれで冒険者としてやってこれたな。
危うく吹き出しそうになったが、カイルが真剣な顔で聞いているのを見て、なんとか笑いを堪えた。
「カイル、お前の剣、ちょっと見せてみろ」
「ん? ああ、これか」
カイルは腰から片手剣を抜いて見せた。使い込まれているが、手入れはしっかりされている。一目で、彼の相棒であり誇りでもあることが分かる。
「仮に、お前がこの剣をコールに預けて金を借りたとする。もし期限までに返済できなかったら、その剣はコールのものになる。それが“担保”ってやつだ」
「えっ!? そ、それ本当に!? そんなことする奴いるのかよ!?」
カイルは目を丸くして、剣をぎゅっと握りしめた。
「いやまあ……金に困ったら装備を売るってのは分かるけどよ……それって剣を失うかもしれねぇんだろ? だったら借りた金より損することもあるじゃねぇか!」
「だからリスクはある。けど、それでも金を借りたいときに“信用の代わりに差し出せる物”があるなら、貸す側は安心するだろ?」
「うーん……まあ、何も持ってねぇ奴には金貸せねぇってのは分かるけどさ……でも、それなら最初から剣売ったほうが早くねぇか?」
なるほど、そう来るか。確かに、彼らの世界では「一時的に預けて戻す」っていう発想より、「使わないなら売る」が先に来るのかもしれない。
「そもそも……土地って、売れるものなの?」
横から、エレノアが小首をかしげながら疑問を投げかけた。
「白樫亭の土地は、私たちのものよ」 その言葉を発したのは、アメリアだった。
「創業当初、ローデンブルグ領を治めていたシュトラウス伯爵家から、特別に土地の所有を許可されたの。正式な魔法登記もあるわ。ここはギルドの管理地じゃない」
「つまり……貴族やギルドの許可がなくても、売買できるってこと?」
エレノアが確認するように尋ねる。
「理論上は、ね。でも……実際にそんなこと、私は聞いたことがないわ」
「……なるほど」
俺は頭をかきながら、現実の難しさに軽くため息をついた。
法律的には問題なくても、前例がなければ商人たちも警戒するだろう。
そもそも“土地”を担保に金を貸す、という感覚が通じるかどうかも分からない。
「でも、お母さん!」
フィオナが勢いよく立ち上がる。
「このままじゃ白樫亭は本当に危ないわ! だったら、できることは全部やってみるべきよ!」
「でも……」 アメリアは唇を噛みしめる。
「私は、やりたいの! 私は、白樫亭を守りたい!」
娘の強い言葉に、アメリアはしばらく黙ったまま見つめ返し——
その拳をぎゅっと握りしめた。
俺はそんなふたりを見ながら、静かに言葉を落とす。
「リスクを取る勇気がなければ、何も達成することがない人生になる」——モハメド・アリ
「……なんか知らねえけど、重みあるな、それ」
俺の言葉を聞いたカイルが、カイルがぼそっと呟いた。
「俺の世界の偉大な格闘チャンピオンの言葉さ」
苦笑気味に言うと、「要するに……怖がってちゃ、何も始まらないってことね」 アメリアがゆっくりと息を吐き、覚悟を決めるように言った。
「でも……商人たちも、不動産ギルドから圧力を受けているはずよ。信用できる相手なんて、本当にいるの?」
エレノアが冷静に現実を突きつけてくる。
俺も改めて考え直す。土地を担保にできるとしても、それをどうやって商人たちに納得させるか……それに加えて、信用できる商人が本当にいるのかどうか……。そんな都合のいい人物が……。
「その件なら、当てがあるわよ」
すっと声を挟んできたのは、エリシアだった。 その顔には、いつもの落ち着いた笑み。
「私が知っている商人を紹介してあげる」
「本当か?」
「ええ。ただし……少々、油断ならない相手よ」
どこか意味ありげに、エリシアは肩をすくめた。
「名前は、ユージン・グランツ。彼と話をする必要がありそうね」
こうして、白樫亭の再建計画は、次の段階へと動き出した。
ご覧いただきありがとうございました。
今回のタイトルは「あらゆる逆境の中にも、それと同等か、それ以上の恩恵の種が隠されている。」というナポレオン・ヒル氏の言葉をお借りしました。これは、困難な状況の中にも必ず成長や学びの機会がある、という意味です。
今回の物語では、白樫亭を襲う数々の逆境に対し、主人公たちが知恵と行動で立ち向かい、新たな可能性を見出していく姿を描きました。まさに逆境が新たな局面への扉を開いたと言えます。物語はここからさらに展開していきます。
「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、ブックマークを宜しくお願いします。また、評価、感想をいただけると嬉しいです。