#10-1 「過去は決して死なない。それは過ぎ去りさえしない。」— ウィリアム・フォークナー
白樫亭に戻った俺たちを迎えたアメリアは、フィオナの無事な姿を見ると、胸を押さえてほっとしたように息を吐いた。
「フィオナ……よかった、本当に……!」
駆け寄ると、彼女の肩をそっと抱きしめる。
フィオナも、母の温もりに安心したのか、小さく震えながら「ごめんなさい……」と呟いた。
「謝ることなんてないわ、フィオナ」
アメリアはフィオナの背を優しくさすりながら、その言葉をかける。
そして、ふと俺とエリシアに目を向けると、深く頭を下げた。
「ソーマさん、エリシアさん……本当にありがとうございます」
アメリアの表情には、安堵と感謝、そして強く堪えていたであろう不安の色が滲んでいる。
「私……もしフィオナに何かあったらと思うと……。本当に、感謝してもしきれません」
俺は軽く手を振った。
「いや、当然のことをしただけです」
エリシアも静かに頷く。
アメリアはそっと目元を拭うと、微笑みを浮かべた。
「それでも、こうして助けてくれたことには変わりません。本当に、ありがとう」
その言葉に、俺は少し照れくさくなりながらも、静かに「どういたしまして」と返した。
アメリアはすぐに、エディをカリーネ神殿へ使いに出し、治療師を呼んだ。
フィオナは診察を受けたが、どこにも異常はないとのことだった。
ただ、やはり自分が誘拐されかけたことを知ってショックが大きかったのか、「少し休みます」と自室にこもってしまった。
俺はそんなフィオナの後ろ姿を見送りながら、今回の件が、心の傷にならないことを願った。
「ソーマさん、少しお待ちを」
そう言うと、アメリアは奥の部屋へと消え、しばらくすると一着の服を持って戻ってきた。
それは質素ながらも丈夫そうなシャツとズボンだった。
「これは……?」
「亡くなった夫、ルーカスが若い頃に着ていたものよ。あなたの体格なら合うと思って」
「夫……?」
思わず聞き返してしまった。
アメリアは頷くと、どこか懐かしそうに服を撫でる。
「ええ。フィオナの父親よ」
その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。
(フィオナの父親……亡くなっているんだったな)
アメリアの表情には、懐かしさと寂しさが入り混じったような色が浮かんでいた。
俺は彼女の仕草を見つめながら、フィオナがどんな家庭で育ってきたのかを思い巡らせる。
(父親を失い、母親が宿を一人で切り盛りしてきた……フィオナがしっかりしているのも、その影響なのかもしれないな)
考え込んでいると、アメリアが微笑みながら視線を向けてきた。
「どうかした?」
「いや……その……少し、驚いただけです」
慌てて言葉を濁し、服を受け取る。
どんな事情があるにせよ、こうして見ず知らずの俺に服を貸してくれることに変わりはない。
「すみません……助かります」
「気にしないで。それに、そのままの格好じゃ、怪我人というより、戦場帰りの人みたいですよ」
冗談めかしながらも、心配するような目を向けるアメリアに、俺は苦笑しながら頷いた。
「じゃあ、着替えてくる」
俺が部屋へ向かおうとすると、エリシアがふと立ち上がった。
「私は、ちょっと出てくるわ」
「ん? どこに?」
「気になることがあるの。すぐ戻るわ」
そう言い残し、エリシアは宿を出ていった。
***
夕方になると、カイルたちが戻ってきた。
「おーい! 帰ったぞー!」
大きな声とともに宿の扉が開く。
先頭を歩いていたカイルが、俺を見つけるなり目を丸くした。
「お前……その格好、どうしたんだ?」
俺が新しい服に着替えていたことに気づいたらしい。
「アメリアさんにもらったんだ」
カイルはニヤッと笑いながら肩を叩いてくる。
「おお、案外似合ってるじゃねえか! あの『スーツ』とかいうボロボロのやつより、ずっとマシだな!」
「……放っとけ」
隣では、コールが腕を組みながら頷いている。
「うん、悪くない」
「ちょっと渋い感じがして、意外といいんじゃない?」
エレノアまで楽しそうに言ってくる。
「お前らな……」
呆れつつも、どこか和やかな雰囲気に安堵した。
「……今日は、夕飯の支度ができてないの」
カウンター越しに申し訳なさそうに伝えるアメリアに、カイルたちは顔を見合わせた。
「ちょっといろいろあって、食事の準備が間に合わなかったのよ。本当にごめんなさいね」
アメリアは努めて穏やかに微笑むが、その声色には疲れが滲んでいる。
「そんなの気にしなくていいって!」
カイルが即座に笑い飛ばした。
「それでね、悪いんだけど、今日は外で食べてきてくれる?」
そう言うと、アメリアは財布を取り出し、テーブルにいくらかの銅貨を置いた。
「もちろん、白樫亭の持ちでね」
「マジか! じゃあ、遠慮なく行くか!」
カイルが早速乗り気になる。
「おいおい、そんなに喜ぶことかよ」
「当然だろ? 今日は俺たちも朝からバタバタしてたし、腹減ってんだよ!」
「ソーマ、お前も来るだろ?」
カイルが誘ってくる。
「……そうだな」
俺はふとカウンターの向こうのアメリアを見る。
フィオナの無事を確認したことで安心したのだろうが、今日一日、どれほど気を張っていたかは想像に難くない。
カイルたちに余計な心配をかけまいと、何も言わないつもりなのだろう。
「ありがとう、アメリアさん」
そう言うと、アメリアは小さく頷いた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
俺はひとまず、カイルたちとともに宿を出ることにした。
***
「実は今日、フィオナが誘拐されかけた」
カイルたちの食事の手が止まった。
「……は?」
「神殿からの帰りを狙われた。路地に引き込み、意識を奪って廃屋に連れ込んでいた」
カイルは拳を握りしめる。
「ふざけるな! フィオナを狙うなんて、何考えてやがる!」
「……本当に、無事でよかったわ」
エレノアが胸を押さえ、安堵の息を吐く。その表情には、怒りと心配が入り混じっていた。
コールは無言で杯を握りしめ、わずかに眉をひそめる。
「まあ、もう解決した。俺とエリシアで救出したからな」
「……そうか。アメリアさんの態度から、何かあるとは思っていたが……くそ、誰の仕業だ」
カイルの言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
「犯人のうち一人は逃がしたが、残る三人は捕らえた。エリシアが、街の衛兵に捕らえたやつを突き出したし、衛兵も調べるだろうから、フィオナを狙った動機もいずれわかるはずだ」
「それにしても、今回の誘拐はただの偶然じゃないだろう」
俺は杯を置き、カイルたちを見渡す。
「不動産ギルドの嫌がらせが続いていたところに、今回の事件……何か繋がりがあるとしか思えない」
カイルが険しい表情で頷く。
「実は、俺たちも白樫亭のことは心配していた。だから、できるだけ目を光らせていたんだが……アメリアさんは俺たちには詳しく言わない。でも、最近の嫌がらせは、かなり酷くなっていた」
カイルは少し言葉を切り、静かに続けた。
「俺たちは、冒険者として駆け出しの頃、アメリアさんとルーカスさんには随分世話になった。何度も宿代をツケにしてもらったり、飯を食わせてもらったりな。だから、少しでも力になれたらと思って、変な噂が流れだしてからは、ずっと白樫亭に泊まり続けているんだ」
(そうか……カイルたちは、そういう理由で……)
俺は腕を組み、考え込んだ。彼らの義理堅さに、少し胸が熱くなる。
「今回の誘拐もその一環ってことか……」
カイルは無言で頷く。
「可能性は高いな。フィオナは癒しの魔法が使えるが、それだけで狙われる理由にはならねぇ。やっぱり標的は白樫亭そのもの……いや、アメリアさんかもしれねぇ」
エレノアも深刻な表情を浮かべた。
「彼女を脅すために、フィオナが狙われた……?」
「そう考えるのが自然だろ? ただの嫌がらせなら、もっと別の方法もあったはず。でも、誘拐にまで踏み切ったってことは、よほど急いでいるか、あるいは追い詰められてるか……」
「ああ。一年ほど前から、宿の客足は少しずつ減っている。不動産ギルドの狙いがどこにあるのか分からないが、確実に圧力を強めてきているのは間違いない」
コールも補足する。
俺は腕を組みながら考え込む。
「なるほど……そんな状況なのか」
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