はぐれものの猫
私は知っている。
「おまえ、人間だろう」
ノートや教科書などが散々しているのも気に留めていない様子で、それらの上にちょこんと座る猫に向かって言った。
私が知ってる誰かに違いない。
私のそんな疑惑を向ける眼差しにもお構いなしに、猫は毛繕いする。
私の机は日当たりの良い窓際にあり、わざわざその窓から入ってきて、わざわざ私の目の前に座ったくせに、猫はこちらを無視するようにそっぽを向いている。猫の足元に散らばったルーズリーフはしわくちゃになっている。
「毎日毎日、なんなんだ。飼い猫にでもなったつもりか?」
睨みつける私をよそに、猫はこっちを向くどころかあくびをかいた。
「知ってるんだぞ。おまえ、クラスメイトの誰かだろう。何を企んでいる?」
わたしは一点の疑いもなく、確信をもって猫に問いかけたが、猫は知らん顔をした。
「いい加減にしろ!おまえ、人間の言葉を話せるだろう。言葉を話してみろ!」
猫はやっとこちらを振り向いたと思えば、私の前髪で遊び始めた。
「猫のふりはやめろ!人間らしく人間の姿で玄関から来たらどうなんだ!」
その小さな肉球を振り回しながらわたしの前髪で遊ぶと同時に、小さな手から無邪気に飛び出す鋭い爪がわたしの顔面を引っ掻き回した。
すると、猫は突然馬鹿馬鹿しくなったようにわたしの前髪で遊ぶのをやめ、満足気にその場に寝そべった。
わたしはフン!と鼻息を荒くしながら一階に降りると、台所に向かい、戸棚の引き出しから絆創膏を何枚か引っ張り出した。洗面台の鏡で顔の傷を確認しながら、適当に絆創膏を肌に貼っつけた。
「くそ……なんなんだ。何が目的なんだ?」
わたしは鏡に映る自分を睨みつけるように顔をしかめた。
部屋に戻ると、さっきまで机を占領していた猫は消えていた。開け放たれた窓のカーテンが穏やかに揺れている。
「そっちがその気なら、こっちにも考えがある。いつまでも隠し通せると思ったら大間違いだぞ」
私はそう呟き、一つに束ねていた髪を解いた。
頭から二つの三角形の耳が現れ、ぴょこんと動かした。口が裂けて鋭い牙が覗く。鼻が少し前に突き出し、丸みを帯びて鼻先はピンクに染まる。深い緑が瞳を覆い、黒目が鋭く細められる。腰から長い尻尾が伸びて、しなやかに揺れた。みるみる身体が小さくなり、背中は丸まり、四肢が地面についた。
見ていろよ。今すぐおまえを追いかけて見つけ出し、何者なのか突き止めてやる。
机に飛び乗り、窓から下の屋根に降り立った。
この柔軟な身体。軽い身のこなし。人間の体が鈍くてたまらない。
屋根から屋根へと飛び移りながら辺りを見渡し、小さな四肢で軽快に進む。あの白猫はどこいった。
目を研ぎ澄ませて視界に広がる風景を隅々まで観察した。
いた!
優雅な白い毛並みの猫が、遠くで街角を曲がるのが見えた。
待っていろ、今行くからな。
小さく鳴いて、屋根から飛び降りた。
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時折すれ違う野良猫たちに、おまえは誰だと尋ねるように心の中で訝しんだ。
みんな、本当は人間なんだろう。わたしも猫だからだ。猫は人間だ。どうして誰も人前で変身しないんだ?みんなそれを知っているのに。一度も猫が人間になるところも、人間が猫になるところも見たことがないから、私もそのルールを守ってきた。しかしそのせいで、わたしは常に人と猫を疑ってきた。
みんなして、何を隠しているんだ。
わたしは白猫を追った。きょろきょろと辺りを見渡すが、すでに奴の姿はなかった。
「見失った……」
まあいい。次は逃しはせんぞ。必ず問い詰めてやる。
そう思い、私は引き返そうとした時、ふと視界に映ったのは、まっすぐ行った先の住宅街の角の家の窓を閉めようとしている制服姿の男子生徒だった。
夕暮れの薄暗さが彼の顔に影を落とし、夜目が効く私でも、ここからでは誰だかわからない。
じっと見つめていると、彼はこちらに気づいたように微笑んだ。
「おいで!」
彼は窓の中へ引っ込み、片手に煮干しを持ってこちらに手招きした。
わたしは彼の家へ近づくと、お得意の脚力を使って窓の縁に飛び乗った。
彼がつまんだ煮干しをくんくんと嗅ぎ、異常なしと判断して、鋭い牙で獲物を捕らえた。
ぺろりと口の周りを舐めて、彼を見ると、微笑ましそうにこちらを見つめていた。
「どこから来たの?僕に会いに来たの?」
関係ないだろう。おまえが私と同じ制服を着ていたから、情報を集めに来ただけだ。
わたしは素っ気なくそっぽを向いた。
「ねえ、クラスメイトのこと話していい?」
うんざりした顔で彼を見る。
「いや、そういうのじゃないよ。ただ、その子って、猫みたいだなって思って」
彼は慌てた様子で話し続けた。
「もしかしたら、本当に猫なのかもって。それで確かめたくて彼女の家に行ってるんだ。いや、いつも夕方には帰るよ!」
聞いてないし、やかましいやつだ。
「素っ気ないんだけど、時々すごく可愛い笑顔を見せるんだ」
物好きなやつもいるものだな。
構わず毛並みを綺麗に舌で整えるわたしに、彼はいたずらっぽく笑った。
「おまえ、ちょっと彼女に似てるよ」
一緒にするな。
「だからつい、毎日会いたくて、遊びに行っちゃうんだけど。やっぱり邪魔かな」
情けないな。彼女が笑顔を見せるなら、問題ないだろう。人とは、本当に嫌いな人の前では、笑顔なんて一つも見せないものだ。
「クラスでは、一言も話したことないくせにね。ずるいよな」
わたしはピク、と耳を動かした。
「僕に気づいてくれないかな。毎日君の元に遊びに行ってる猫は、僕なんだよって……」
「なんだと!?」
わたしは自分が猫だということも忘れて縁にすわったまま人間に化けてしまった。窓の縁は人を支えるほどの幅はなく、わたしは体勢を崩して身体が後ろに傾いた。
彼は咄嗟に手を伸ばし、わたしの腕を掴んだ。
「……え、え?え!?」
彼は顔を真っ赤させて、身体が傾いたわたしを仰天したように見つめた。
「き、君は...…」
「早く引き上げんか!このままだときつい!」
彼は慌ててわたしを引っ張り上げると、そのまま部屋の中に入れた。
「……ふう。悪いな」
わたしは一息つくと、はっとしたように彼の肩を鷲掴みにした。
「お前か!? 私の部屋に来てはいつも勉強の邪魔をするいやらしいやつは!」
「い、いや……違う!僕はただ、君に……」
彼の声はだんだんと小さくなり、「会いたくて」と呟いた。
そんな彼を見つめていると、なんだかむず痒くて、わたしは顔が熱くなるのがわかった。
「あっ、あ……それより!やっぱり、君も猫だったんだ!」
君、も?
「なんだ。当たり前のことをぬかすな。私はどいつがわたしを無断で訪ねてくるのか確かめたかっただけだ。それがお前だったというわけだが、全く探す手間が省けたな」
わたしの言葉を聞いて、彼はきょとんとした。
「どういうこと?君は僕が猫だからわかったんじゃないの?」
「……?今のお前の話で、お前が白猫だということはわかった」
「……君は僕が猫だってことを知ってたってこと?」
なんだ?いまいち会話が噛み合わない。
「知ってたも何も、私たちが猫になるのは当たり前だろう!」
彼はさらに不思議そうな顔をした。
「他にも猫になれる人がいるの?」
なんだと?
「みんな、人間と猫の姿で並行して生きているだろう?何をそんなに不思議がっている?そこらへんの道を歩いている猫は人間だ。そして人間は猫だ!」
彼はわたしの話を聞いて、困惑するように眉をひそめた。
「この街で猫になれるのは僕達だけだろ?少なくとも、僕は自分と君以外に猫になれる人を知らない」
何を言っている?
「人間は……猫になれるだろう?」
「普通はなれないと思うよ。僕以外に猫になれる人を見たことある?」
「じ、実際には見ていない。しかし、わ……わたしの家族には公の場では化けてはいけないという掟があると教えられている。皆それを守っているのだろう」
私は変な汗をかいた拳を握りしめた。
「僕はそんな掟聞いたことないよ」
では、人間とは何だ?人間とは猫になれる種族ではないのか?ならば、日々すれ違う猫たちは、人間ではないというのか?
「ならばお前は何だ?元々猫ではなかったのか?」
「僕は人間だよ。ある日、不思議な夢を見てから、突然猫になれるようになったんだ」
「人間……?人間と猫は別なのか?」
「そうだよ。人間は人間、猫は猫だ。僕達は変わってる」
「ではわたしは何だ?わたしは生まれた時から猫だ。しかし人間でもある!」
「そうなんだ。じゃあ、君はもっと猫に近いのかな」
わたしは猫なのか?
「でも、それは大した問題じゃないよ。君は人間になれるし、僕は猫になれる。根本的には違うけど、本質的には同じ」
「……わたしが納得いかないのは、この街がわたしを騙していたことだ。もしくは、わたしが勝手に思い込んでいたことか」
わたしはいつからわたしのような猫が普通だと思い込んでいたんだ?家族から教えられた「掟」のせいか?確かに、一度も猫が人間になる姿を見たことがないのは妙だった。
その時、わたしは見えた。2ブロック先の家の、二階の窓のカーテンの隙間から覗いた猫が、少女に変わったのが。
わたしは目を見開いて、横目で彼を見た。
「ああ、その僕が見た夢ってのがさ、僕だけが世界で猫になれる人間だったんだよ。でも、君がいるし、それはただの夢だけどね」
彼が誰なのか、どこから来たのか、私にはわからない。ただ、彼はわたしたちとは違う存在だということだけが確かだった。
おまえは一体誰だ?