王都での生活
シルヴィアは王都の伯母の家から領地に戻った。代わりにディーが学園へ通う為に、また淑女に相応しい教養を身に着けるべく、下宿することとなった。
伯爵夫人である伯母は勿論、婚約解消にまつわる話を聞いて激怒していた。
『元々ギュンター男爵の息子は素行が悪いと評判でした。だからシルヴィアにとっては婚約が無くなって良かったのです』と社交に参加するたびに言い放った。高位貴族たちの中では、シルヴィアに同情を寄せる声が多く、さっそくに新たな縁談を持ち込もうとする家もあったほどだ。だが、カウフマン家では次の問題が起こっていた。
母アンネリーゼの体調不良である。
ギュンター家との話し合いの中で何度も血筋についても当て擦られ、出自が商家の娘で貴族ではなかった彼女は、思い悩む羽目に陥ったのだ。カウフマン子爵は関係ないことだとアンネリーゼを慰めたのだが、結婚当初から少なからず気持ちの何処かで自分は貴族ではないことを気に病んでいたのが、一気に表面化してしまった。
「母さまの何処が悪いのよ。悪いのはあいつらの性根だ」
伯母の家で暮らし始めたディーは、姉からの手紙で母の不調を知り、伯母と共に息巻いた。しかし学園には最低でも二年は通い必要な単位を取る義務がある。父も兄も、お前はとにかく学業に打ち込むようにと釘を刺されていた。万が一ギュンター家のタウンハウスへ殴り込みを掛けることにでもなれば、と心配されたのだ。姉も同じことを考えていたようで、末文にはいい成績を修めることが何よりの慰めになるからと記してあった。
わたしはもう子どもじゃないんだからそんな無茶はしない、とディーは伯母に宣言した。そう言いつつ伯母を相手に、ひとわたりの文句を垂れたのだった。
夢を膨らませて通い始めた学園では、何故かしら他の生徒たちに遠巻きにされているのに気付いた。自分が垢抜けない田舎者だからだろうか、と初めは思い悩みもしたが、せっかく家の心配をせずに学ぶ環境にいるのだからと思い直し、誰からも邪魔されないのをポジティブにとらえて勉学に打ち込んだ。興味のある講座では教授の目の前に陣取り、一言も聞き漏らすまいという姿勢で毎時間挑んだ。空き時間があると、他の生徒たちは中庭で集ったりカフェに行ったりしていたが、誰からも誘われないディーはせっせと図書室に通い、端から次々と本を読破した。領地ではお目にかかれないような貴重な本がよりどりみどりだったからだ。まだまだ高価なものだった本に、特に芸術関係の図録に、ディーは憧れていた。それこそスポンジが水を吸い取るように貪欲に知識を吸収していったのだった。
図書室でディーは自分と同じく高みを目指そうとしている仲間を得た。専属司書のオイゲンや夢見る文学少女のフィリパ、ころころと笑うテレーゼたちだ。侯爵令嬢で既に社交界に出入りしているテレーゼにより、ディーがなぜ皆から遠巻きにされているかを知らされることになる。
「そんなの、簡単です。ディー、貴女、皆に嫉妬されているのですよ」
「えっ? そんな、嫉妬されるような要素ないけど」
「わたくしも先の卒業記念パーティーに出席しましたけれど、貴女は目立ち過ぎたのです」
「嘘でしょ。この通り地味なのに」
「何を仰るの。貴女のお美しいお姉さまの評判をご存じないのね? お姉さまにそっくりなその美貌に加えて、お兄さまである成績優秀者のクリスティアン様に、文武両道に優れた第二王子のアーデルベルト殿下、そして将来は騎士として殿下の側近候補のユリウス様。あの学年のトップスリーである皆の憧れのお三方と親しくお話しして、順々にダンスを踊ったのですよ。そりゃ恨みも嫉妬も買いますね」
「……」
「女子生徒に人気の高い彼らを独占したのですよ。ディーはまだまだ初心だからそんな気はさらさら無かったかもしれませんが」
「……子ども扱いしないでよね。でも三人ともわたしと踊ったあとは、他の人たちともたくさんダンスしてたじゃない」
ユーリと踊り終えたあと、待ち構えていた貴族令嬢たちがたくさん寄ってきて、話をする間もなかった。楽しみにしていたのはわたしだけだったのか、とディーは寂しかった。にこやかに笑みを湛えて他の令嬢たちに相対しているユーリはすっかり大人びた。わたしの知らない綺麗な令嬢たちとダンスをする姿を見たくないと思っていたのだ。
「それでもです。それぞれのファーストダンスの相手はディーだったのですからね」
「ふうん。しょうもない」
貴族らしいしきたりとは無縁の生活を送ってきたディーには今ひとつぴんとこなかった。それでも、そんなつまらないことで避けられるのならこのまま避けられてもいいや、とちょっぴり残念な気持ちも感じながらも虚勢を張った。
ところで領地に戻ったシルヴィアは母の看病の傍ら、機織りを一生の仕事と決め、せっせと労働に励んでいた。あれだけマティアスとの逢瀬に熱を上げていたはずなのに、相手の本性を知ると冷めるのも一瞬だった。彼女の意識は機織り一点に集中していた。ときおりディーから送られてくるデザイン画を取り入れて作業をするのが、無上の喜びとなっていた。カウフマン領の生糸はもともとが繊細で扱いが難しく機械織りは出来ない。どちらにしろ手作業に頼るしかない機織りだったが、シルヴィアの織るものは特に希少価値を持ち、王都の有名な仕立て屋に高く買い取ってもらえた。おかげで多少高価であっても母アンネリーゼの滋養になるものを買い求めることもできる。有難いことだとシルヴィアは思っていた。
ギュンター家へ嫁いだ暁には、機械織りを試そうという話も進んでいたが、もちろんご破算になっている。安価になって手に入り易くなった綿織物と比べて、付加価値を足してますます高価になっていく絹生地。あの時、婚約が無くなって良かったのだとシルヴィアは傷心を慰めた。マティアスの甘い言葉にうっとりしたのは確かだ。だがあんな浮気性だったなんて。
機織り機の横には、アーデルからの見舞いの品である、裁縫道具を入れる木箱が置いてある。木箱の表面には繊細な彫り物が施されており、中には針や糸など一通りのものが、それも厳選された上質な道具が揃えられていた。特に名のある工房に注文したという鋏のセットが素晴らしい。目に入ると自然と貰った時の感動と嬉しさが思い出される。王子様なのにね、いえ王子様だからこそかしら。と年下のアーデルの優しい気遣いに、シルヴィアはいたく感謝をしていた。
騎士コースへ進んだアーデルとユーリは、時たま基礎課程を学んでいるディーの処へやってきて、三人でお茶を飲むこともあった。兄クリスとは課程が違うので会える機会が滅多になく、皆が揃うことも少なくなった。いつもアーデルは礼儀正しくアンネリーゼの容態を伺い、次いでシルヴィアの近況を知りたがった。隣接する直轄領の別邸に自分の母親が暮らしている関係で、下手をすると娘であるディーよりもアンネリーゼについて詳しかったりしたのだが。驚くディーにアーデルは、情報収集は王子である自分の仕事の一部なんだよ、と何処か得意げな笑みで答えてくれた。
ディーが学校に上がって一年が過ぎる頃、アーデルはユーリを将来の側近に据え、二人で隣国へと留学することになった。
騎士コースで同じように鍛えられているはずなのに、物腰柔らかなアーデルに対し、ユーリは背も伸びてがっしりとした身体つきになっていた。アーデルを護るのが俺の役目だからと剣術や馬術もひたすらに励んでいた。自然探るような目付きになり、威圧感をも漂わせている。辺境伯の息子らしくなったと言えばそうなのだが、ディーにしたら全くの別人になってしまったように感じていた。
何よりディーと他の女子生徒との態度が全く違っていた。ディー以外の女性に対してはいつでも笑顔でにこやかだ。なのにディーには取り繕うこともせずに目付きも悪くいつも不機嫌に見えた。
愛想良くする価値もないのだと思われているようだった。こうして会うのもアーデルに付き従っているから仕方なくなのかもしれない。そう思うと何故か息苦しさを覚えるのだった。
留学してしまえば今のように気軽に会えない。それどころか次に会えるのはいつなのだろう。彼からしたら、わたしは男の子だと騙して揶揄った不愉快な存在なのだろうか、と考えるに至った。あのパーティーでのダンスでは仲直りできたと思っていたけれど、わたしへの態度を見るにつけ、どうにも嫌われているようにしか感じられないのだ。
気が付くと、くよくよとユーリのことばかり考えている自分がいる。ユーリはきっとわたしのことなどクリスの妹以上の感情は無いのだろう。それはひどく寂しいことだと思った。