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初めての夜会(2)

 

 ディーとのダンスが終わると、アーデルは王族の席へと戻っていった。その後姿を見届けて、さて自分はこれからどうしようかと思った時、目の前に影が差した。


「これはこれは。ディートリンデ嬢じゃないか」


 弾けたように見上げた先に、今一番会いたくない男の顔があった。姉の婚約者だったマティアスだ。姉を棄てたばかりなのにもう、別の女性を侍らせている。これ以上見ているのは不快だと俯いてぐっと歯を食いしばった。周りには礼儀正しく礼を取っていると思われるように。


「見事なドレスじゃないか。お前の家の特産品のシルクはさすがに美しいな。馬子にも衣装ってやつだ」

「浮き上がって見える模様がとっても綺麗ねえ。ねえマティアス様、こういうのは貴方の処では扱ってないの?」

「……残念だがこの絹地はカウフマン家の独占だ。もう少しで手に入れられたんだがな」

「そうなの? こういうの、私も欲しいわ」

「お前の姉のせいだ。もう少しで蚕が手に入るはずだったんだ。……シルヴィアはあの王子にどうやって取り入ったんだ? え? 色気も何も無いくせに。機織りにしか興味のない堅苦しい女なぞ、こちらから狙い下げだ」


 下げた頭の上で、聞くに堪えない言葉の羅列が続いていた。知らず知らずのうちに拳を握り締め、このまま男の顔面に叩き込もうとした時だった。


「こんなところに居たんだね。探したよ、ディー」


 場違いにも聞こえる爽やかな声が割り込んできた。声の主は彼女の手をそっと包み込んで拳を緩ませた。


「そのドレスとても似合ってる。綺麗だよ、ディー。さあ、次は俺と踊ってくれるんだろう?」


 ユーリは一昨日の出来事が無かったように振舞い、自然にディーの手を取って甲に形良い唇を寄せた。目の前にいる男女、シルヴィアの婚約者だったマティアス・ギュンターとその連れの女性を空気のように扱い、笑みを湛えた顔をディーだけに向けていた。その様子が気に食わなかったのか、マティアスはおい、と声を荒げた。


「こいつには言いたいことがたっぷりあるんだ、邪魔するな」

「貴方はもうカウフマン家とは何の係わりも無くなったはずだ。それに彼女はまだデビュタント前だ。何に苛立っているのか知らないが、この場で未成年相手に熱くなるのは止めておいた方がいい」


 口角を上げてはいるが、何処までも冷たい視線でマティアスたちを薙いだ。二人からディーを護るように彼女に背を向けて、マティアスの目の前に立ちはだかっている。年上のはずのマティアスはたじろいだ。こいつは辺境伯の息子だと気付いて尚更に。

 ふん、と鼻息も荒く、ディーのドレスに見惚れていた隣の女性の腕を乱暴に取り、引き摺るようにその場を去っていった。


「ほら、手を出して」


 ユーリの背中をぼんやりと見ていたディーは、彼の言葉に素直に従い手を差し出した。肘まである長い手袋をするりと抜き取って、手のひらを確かめ始める。


「……力を入れ過ぎて爪の跡が付いているじゃないか。あんなやつ、殴る価値もないよ。放っておけばいい」

「だって。……悔しくて。あいつ、姉さまを馬鹿にした……!」

「結婚せずに済んだことを喜ぼう。シルヴィアは素敵な人だ。いつか彼女を大切にしてくれる人が現れるよ」

「わたしは初めっからあいつが気に食わなかった。だから婚約が破棄されて良かったと思ってる。でも姉さまは、……本当に好きだったみたいだったから可哀想で」

「うん、そうだね」

「わたしには詳しい話をしてくれないけれど、アーデルが助けてくれたの?」

「俺も詳しくは知らない。でもそう聞いてるよ」

「ユーリ、……一昨日はごめんなさい。だいきらいなんて言ってしまった」


 マティアスとの遣り取りのおかげか、ディーは素直な気持ちで謝ることが出来た。ユーリはふっと目を細めると、手袋をまた嵌めなおし、そのまま手を掴んで指先に軽く口付け、人好きのする笑顔を見せる。


「いや、俺が勝手に勘違いしていただけだ。ごめんよ、ディー。本当にすまなかった。今思えば君はあの頃もちゃんと女の子だったよ」

「無理しないでいいよ。じゃ、仲直りだね」

「ああ。……俺と踊ってくれるかな」


 喜んで、とディーは空いた手でスカートを軽く摘まみ、一礼する。先ほど唇の触れた指先が熱を持ったようだった。ユーリの黒髪に銀の正装姿が良く似合う。背も伸びてすらりとしていて、でも身体は鍛えられているのが分かる。本気で騎士になるんだな、とディーは改めて思った。昔読んだ絵本の騎士様然としているユーリにまで心臓の音が聞こえそうなくらい、胸の鼓動が高鳴る。


 どさくさに紛れて指先に口付けたユーリも、内心はディーへの愛おしさに溢れんばかりになっていた。ちょっと大人びた紺色のドレスが良く似合っている。子どもじゃなくてもうすっかり立派なレディになった。男の子と勘違いしていたことへの謝罪をディーが受け入れてくれて、とりあえずほっとしていた。卒業式の後のディーとアーデルとの遣り取りを見ていた彼は、ディーの中にはアーデルがいるのかもしれないと思い、胸の奥がつきりと痛む。


 ディーには知らないと言ったが、ユーリはシルヴィアの婚約破棄の顛末を、クリスとアーデルから事細かに知らされていたのだった。

 マティアスを殴りたかったのは、ディーよりも自分だという思いは強かった。実際、一昨日その場に居たクリスは彼に殴りかかり、父親のカウフマン子爵とアーデルのふたり掛かりで何とか引き留めたと話していた。そういうアーデルもまた、いつもの笑顔を崩してはいなかったが、仄暗い瞳を見せていた。

『あの時ほど自分が第二王子であることを恨んだことはないよ。何なら切って捨ててやろうかと思ったほどだ』

 普段のアーデルとは思えないほどの強い言葉だった。


 ディーとシルヴィアの祖母マルグリットがギュンター男爵領から輿入れしてきた時、両家の間には交わされた契約事項があった。マルグリットが機織りの技術を持って出る代わりに、カウフマン領で大事にされている蚕を差し出すというものだ。

 ギュンター領では昔から綿花の栽培が盛んで、紡績業を生業としていた。その頃から徐々に機械化して紡績だけでは飽き足らず、綿織物を大量に生産することに成功し、今ではかなりの売り上げを誇っている。だが貴族社会では何と言っても絹が一番なのだ。そこで当時のギュンター男爵は、配下の娘だったマルグリットが輿入れする時に、何とか蚕を手に入れようと画策したのだ。

 約束は守られたが、ギュンター領ではどうあっても蚕は上手く育たずに繭を作る前に死に絶えてしまった。幾度かの蚕の提供と守り手の派遣を経て、自然には逆らえないとその時は諦めたはずだった。

 なのに、当代のギュンター男爵がまたもやシルヴィアの結婚にかこつけて、蚕を差し出すようにと条件を付けてきた。カウフマン子爵は昔のことを引き出して断りを入れたのだが、相手が強情でどうしようもない。このままだと纏まる縁談も諦めるしかないと思うほどだったが、如何せん、シルヴィア本人がマティアスと結婚したがっていた。可愛い娘の気持ちを大事にしたいと思ったカウフマン子爵は、持参金代わりに一度限りの提供に応じることにした。


 そんな折りに発覚したのがマティアスの浮気だ。それも相手は一人ではなかった。まだ婚約中なのだから大目に見ろと主張するギュンター家へ抗議をしたが、シルヴィアが身体を許さないからだと逆に訴えられてしまった。これには子爵もクリスも激怒した。こんな無茶なことは無いと。これでは結婚してからも苦労するのは目に見えていると。

 アーデルが第二王子の権限を使って間に入り、条件をまっさらにして婚約自体を無かったことした。破棄ではなくあくまでも『解消』ということにしようと。蚕の提供も無くなる代わりに、違約金も取らないと、両家の間ではいったん話が付いた、はずだった。


 ところが今日、夜会に来てみるとそこここでくだらない噂話が耳打ちされている。曰く、シルヴィアは奔放で、第二王子を篭絡したのだという噂だ。彼女はすっかり身持ちの悪い女扱いになっており、一方でマティアスには同情が集まっていた。

 幸いなことに、ディーの耳には入らなかったのだが、万が一入っていたら殴る程度では済まなかったかもしれない。

 クリスもアーデルも、シルヴィアの為を思って沈黙を守っている。だいたいマティアスの女遊びの激しさを知る人間も多く、カウフマン子爵の王宮での活躍を知る高位貴族たちも信じなかった。相手にするほど騒ぎ立てるほどに、この手の噂話が広まっていくことが分かっていた。このままシルヴィアが領地に下がれば沈静化するだろう。噂を流した本人だと思われるマティアスも、この夜会を最後に領地に戻ってギュンター男爵の補佐をすることになっている。本人たちがいなければ噂話も立ち消えるだろう。それまでは二人とも多くを語るつもりはなかった。


 何も知らないディーは、ユーリとのダンスを楽しんだ。初めての夜会に初めてのダンス。美味しい飲み物や華やかなお菓子。これから過ごすであろう王都での生活に想いを馳せ、夢を膨らませていた。今まで独学で本を取寄せ勉強していた意匠を本格的に学びたいと思っていたのだ。貴族令嬢としての教養も大事だが、姉に喜んでもらえるようなデザインを考えるのが、ディーの喜びだった。今は涙にくれているが、機織りは姉さまの心の拠り所だ。その時に使ってもらえるようにと、参考にするべく令嬢たちが着ているドレスを目を凝らして見ていたのだった。


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